『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 50 江島吉左衛門の朱印船貿易の真相

2018年07月29日 | 江島氏



資料の確認をしておりましたので、少し間が空きましたが前回の続きです。


●朱印船の概要

室町時代の勘合貿易に使用された遣明船は積載量が100トンあまりの千石船で外洋を航海するにはあまり適していませんでした。文禄・慶長の役には全長20間(約36m)前後の大船が建造されるようになりました。さらに西洋の造船術や航海術も取り入れられ、従来の和船には無かった防水隔壁構造や固定式の梶などが取り入れられ、荒海の航海に耐える船が作られるようになりました。慶長9年に進水した、加藤清正の朱印船は長さ二十間、幅5間、270〰280トンの積載量と推定されています。茶屋又次郎の船は長さ25間、幅4.5間、積載量約300トン、乗り込み人員約300人と推定されています。朱印船の多くは乗組員200〰300名。積載量200~300トンの二千石〰三千石船と推定されています。


●船員と乗組員

朱印船の乗組員は船主(船長)、按針(航海士)、書記、水夫などで、その大多数は日本人でした。初期の頃は南洋の水域に詳しいシナ人航海士が雇われた事もありました。
西類子や長崎の荒木宗太郎などは自ら船に乗り込み、投資家、船の所有者、船長を兼ねていました。また投資家がその一族や腹心の部下を船長に任命して、船の運航や貿易を指揮監督させた場合もありました。
操船など航海に必要な船員の総数は50〰80名ほどで、残りの人員は「客商」とその従業員達でした。


●朱印船の客商

客商とは朱印船に便乗した商人たちの事です。室町時代の勘合貿易以来、朱印船貿易においても、客商は貿易上重要な役割を果たしました。船主(投資家)は客商に対し船賃や貿易品の荷駄の運賃を徴収し、造船、または借船、艤装の資金に充て、貿易地の王侯や役人、幕府への献上品の購入費用に充てたようです。
現存する記録では、客商の朱印船一隻の貿易額に占める割合は4割近くを占めたようです。

朱印船の船主、および客商たちは貿易の資金を自己資本だけでなく、広く投資家から資金を借り入れました。今に残る投銀証文によれば、その利率は3割5分から11割に上っており、高額な利息を払っても彼らが行った貿易に利益があった事を示しています。ちなみに西類子は数回の貿易の為に銀6000貫(現在の銀価格換算75億円)を借り入れたと記録に残っています。朱印船貿易家となる為には自己資金力と同時に出資者や客商を集める事の出来る豊富な人脈が必要でした。



●朱印船貿易家、江島吉左衛門

さて、本題に戻りましょう。江島吉左衛門という朱印船貿易家の名を知った当初、はたしてこの人物の出自が筑後江島氏なのか、俄かには信じることが出来ませんでした。何故ならば、朱印船貿易の船主を務めるには巨額の資本と外洋航海と外国貿易の経験が不可欠だと考えたからです。しかし様々な史料を読み込むうちに、朱印船貿易を行った可能性が十分ある事が判ってきました。

筑後江島氏は大友氏の支配下から脱した後、文禄・慶長の役にかけて、対馬江島氏との交流が深まると同時に、外洋航海の経験を積みました。さらに朱印船貿易が始まって、交易拠点を長崎に移してから客商としての活動を始め、海外渡航と貿易の経験を積み、貿易家としての資本と人脈を形成していったと思われます。

また当初、江島吉左衛門は対馬江島氏の者かと考え、記録をあたりました。古60人の中に同名の人物を発見しましたが、吉左衛門の時代から遥か後世の人物で、年齢を考えれば別人であることが分かりました。

朱印船貿易に船主として名を遺す事は名誉な事であり、慶長の朱印船貿易家吉左衛門にあやかって同名を名乗ったと推察できます。また、対馬江島氏は対馬藩の御用商人ですから、大村喜前家人として朱印状を貰う事は不自然です。但し、対馬江島氏が表に出ずに、この朱印船貿易に関わった事は当時の状況から十分に考えられます。吉左衛門の偉業を手伝ったからこそ、子孫がその名を名乗ったのかもしれません。


●吉左衛門は柳川藩士江島家の祖か?

江島吉左衛門が筑後江島氏の本家筋の人物であることを証明する史料が、以前ご紹介しました柳河藩享保八年藩士系図です。この資料によって江島吉左衛門の人物像と足跡がかなり判明出来たのです。

この系図によれば享保八年藩士であった江島繁之丞幸繁の曾祖父江島幸利の名乗り(通称)が当初は四郎左衛門で次が吉左衛門です。幸利の次男幸親(幸繁の祖父)の名乗りも吉左衛門です。この藩士系図に書かれた年代から推測すると幸利が慶長15年(1611)に朱印船貿易を行った江島吉左衛門では年齢的に無理がありますが、初代吉左衛門の子で二代目吉左衛門を名乗ったのであれば、辻褄があうのです。
では何故、幸利が当初四郎左衛門を名乗っていたか、それは初代吉左衛門がまだ存命であったからです。

青木島開発で記録に残る四郎丸村の住人、江島四郎左衛門が開発に着手するのが慶長6年(1605)頃で、開発終了後藤原正喜と改名しています。江島四郎左衛門も本家筋の人物のようですから、先祖代々由緒あるその名を貰って四郎左衛門と名乗り、初代吉左衛門が引退するか、亡くなった後、二代目吉左衛門を襲名したと考えられます。

私は三代目吉左衛門の幸親の代までは、堺か大坂を本拠として廻船業を営んでいたのではないかと推察しています。何故なら元和期以降、禁教令の強化や朱印船貿易の固定化によって商売のうま味が無くなり、貿易家の多くが長崎から上方に本拠を移しているからです。堺や長崎に代わって各藩の蔵屋敷が立ち並ぶ大坂に商業の中心がシフトしていきました。

二代目吉左衛門、幸利の妻は京生まれでした。吉左衛門一家が上方に拠点を移していれば説明は不要でしょう。さらに元和八年(1622)紀州和歌山、中之島村(紀の川沿いに位置する)の江島藤六が藩許を得て和歌山城下の新富町開発を行います。この和歌山の江島氏が筑後江島氏の分家であることは、私の家の伝承にも残っています。また、昭和の初期ごろまでは私の祖父は、和歌山の江島家の子孫の方と手紙のやり取りを行っていました。
紀の川は水運による紀州の商業活動の大動脈でした。初代吉左衛門が上方に本拠を移していれば、和歌山城下の新地開発に至った経緯も容易に説明が出来ます。



山田長政奉納絵馬模写絵


●大村喜前の忠誠心

大村喜前と西類子との関係は前回にお話ししました。喜前は切支丹を棄て、切支丹との関係を断とうと計っていました。喜前が大御所家康に切支丹の西類子を紹介したのは、類子を通じて朱印船貿易を有利に行おうとしたことでは無く、ルソンの情報を欲しがっていた家康、しいては幕府に対する忠誠の証であったと思われます。
その証拠に類子は拠点をマニラに移し、大村藩とは距離を置いています。

では何故大村藩は江島吉左衛門を大村藩の家人として幕府に仲介し、朱印状を賜ったのでしょうか。私はその理由を次のように考えています。

朱印状が下賜された慶長15年(1611)は、大村藩ではご一門払いが無事に終わって藩政改革が軌道に乗り始めた頃でした。九州の有力大名や喜前の従兄弟にあたる有馬晴信などは再三朱印船貿易を行っており、支配体制が強化されるに従い、内外に喜前と大村藩の存在をアピールするには朱印船貿易はうってつけの事業でした。しかし、まだ大村藩は財政的には苦しく、藩主が船主として貿易を行う資金が不足していました。

また短期に巨額の利役を生み出す反面、万一派遣した船が遭難するような事があれば、その補償も莫大な金額になってしまいます。実高二万数千石の小藩にとってそれは危険な賭けでもありました。

喜前にとって、貿易による利益より、何より優先したい朱印船貿易の動機があったのではないかと思います。それは、渡海先に選んだ暹羅と柬埔寨が示しているように思われます。暹羅と柬埔寨の主な産出品は沈香に代表される香木でした。沈香のさらに上等なものは伽羅と呼ばれ大変貴重なものでした。

我が国でも、正倉院の御物の中に大きな伽羅の香木があるように、古くから宝物に等しい価値を持っていました。インドシナ半島の国々で政変が起こると、王侯貴族たちは黄金ではなく、香木を背負って逃げたと言われます。香木一本が黄金、宝石に勝る価値を持っていたという証拠です。

この伽羅を大変珍重し愛好したのが誰あろう徳川家康でした。記録によれば有馬晴信も家康に伽羅を献上したとあります。

喜前は何よりも徳川幕府に忠誠を誓い、献身的に仕えました。喜前に始まって代々の藩主の努力もあって、後に大村藩は外様でありながら、正月一日に将軍への参賀の登城を行うなど譜代と同じ扱いを受けるようになります。
九州の大名が長崎奉行に挨拶に伺う時は、割とぞんざいな扱いを受けるのですが、大村藩主だけは親戚扱いで丁重に応対されたと言われます。

また「島原の乱」の時には九州の諸大名は実高以上の兵役が課された上に、多数の犠牲者を出しました。しかし大村藩は長崎警護の役が言い渡され、実戦に加わることなく、経済的な負担や人的な被害は少なく済んでいます。これも大村藩の不断の忠義に対する幕府の温情措置ではなかったのでしょうか。


喜前は伽羅を手に入れ家康に献上し、その忠誠心を示したかったのではないでしょうか。

そこで、藩自ら朱印船を仕立てることもなく、江島吉左衛門を船主として幕府に朱印状の仲介を取りました。大名の権威を持ってすれば強圧的に船主を喜前とし、陰で江島氏に実務を行わせる事も可能であったはずですが、敢てそれをしなかったのは二つの理由があったと思われます。

その一つは船主を喜前とすることによって、幕府から財政的に余裕があると思われ、普請など更なる役を仰せつかる事になるという恐れ。二つ目は喜前が他者に対して誠実な人物であったという事でしょう。いずれにしろ大村喜前という人物は誠に思慮深く、賢明な藩主であったに違いありません。


●江島吉左衛門と家紋(五つ木瓜と剣唐花)

喜前は貿易の主導権を吉左衛門に譲る代わりに、一つ条件をつけたものと思われます。それは大村家の家紋を吉左衛門に下賜する事でした。何故ならば、朱印船は船主の旗印を船尾に掲げることが通例となっていたからです。
吉左衛門が船尾に下賜された家紋「五つ木瓜に剣唐花」を掲げれば、その船を見た者は大村藩が派遣した船と認知するからです。(暹羅も柬埔寨にも在留日本人が大勢いました)そして吉左衛門を名目上大村藩の家臣とし、喜前の名代とすれば、立派に大村藩の面目が立つことになります。

一方吉左衛門にすれば、身は商人(浪人)とは言え元は武士、大名家の家紋を下賜されることは武門の誉です。さらに大村藩主喜前の名代となれば、暹羅や柬埔寨の王侯や役人の接遇や信用も違ってきます。また朱印船貿易の船主を務める事は商人仲間の信用度が格段に高まり、商人としての箔が付きました。


朱印船派遣の件は大村藩が江島氏に持ちかけたのか、江島氏が大村藩に売り込んだのかは今となっては不明ですが、喜前も吉左衛門(筑後江島氏)も互いに「名を棄て実を取る」ということで、シャンシャンと目出度く手打ち式となったのではないでしょうか。


江島本家の家紋が「丸に四ツ目」から「大村瓜」に代わった背景は以上の様ではなかったかと推察する次第です。


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