『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 46 江戸初期の江島氏の動向と朱印船貿易

2018年07月09日 | 江島氏

朱印船 (末次船)


●博多から長崎へ 

秀吉の唐入り(文禄・慶長の役)で対馬江島氏は従軍通詞として朝鮮の地と名護屋城で活躍しました。秀吉の死によって唐入りは中止されましたが、対馬江島氏にとって存亡にかかわる重大な事態が発生します。それは明や朝鮮との国交断絶による貿易活動の停止でした。

対馬藩は10万石と言われますが、あくまで格式が10万石であって、島内での作物の実高は1万石足らず、九州の飛び地の領地を合せても2万石余りでした。対馬藩の財政はその大半を朝鮮半島との貿易による収益に依存していました。しかし秀吉の唐入りによって朝鮮、明国との国交は断絶し、貿易活動は停止してしまいます。この事態は対馬藩にとっても対馬藩の御用商人、江島氏にとっても死活問題でした。

対馬藩は終戦の翌年、慶長4年(1599)には、使者の派遣を行い朝鮮との貿易再開の手立てを講じます。しかし使者が殺害されるなど交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。以後、対馬藩は様々な手を打ちますが、慶長14年(1609)の己酉約条(きゆうやくじょう)の締結まで再開の目途は立ちませんでした。

一方博多の街は、唐入りの頃は名護屋城の兵站基地として戦時景気に沸き、繁栄は絶頂期を迎えます。島井宗室、神屋宗湛、大賀宗伯などに代表される博多豪商達が活躍し、未曽有の繁栄を謳歌しますが、戦争特需も無くなり、やがて衰退へと向かっていきます。その大きな理由は明や朝鮮との国交断絶による貿易活動が停止した事。さらに南蛮貿易に移行しようにも、博多港の水深が浅いために喫水の深い南蛮船の入港が出来なかった事にありました。

そして、その博多にとって代わったのが長崎でした。
元々長崎は大村氏配下の長崎氏の領地でしたが、大村純忠の時代にイエズス会に寄進されてしまいます。秀吉は長崎を重要拠点と考え、イエズス会から取り戻し、直轄領としました。徳川幕府もその方針を受け継ぎます。

博多や堺の豪商達が次々と長崎に居を移し、長崎は一躍海外貿易の中心港となってゆきます。長崎に移住する人々は年々増加し、肥前はもとより筑前、筑後、肥後からの移住者達で賑わいを見せます。一大消費都市となった長崎は海外貿易だけでなく、国内交易においても魅力的な場所となりました。この様な社会的状況から、対馬の江島氏も長崎に活動拠点を移したのではないかと推察しています。


●長崎から筑後へ 筑後から長崎へ、

豊臣政権は唐入りの功として宗氏には肥前田代領(現:鳥栖市、基山町)を与えます。米が殆どとれない対馬藩にとって田代は文字通り重要な米櫃でした。また田代で収穫する米だけでは対馬の人々の胃袋を満たす事は出来ず、筑後や肥前の豊かな米が頼りであった事も伺えます。

後世の対馬藩田代代官所の記録などを見ますと、対馬の商人たちが田代を訪れていた事が分かりますし、その中には江島姓の人物も見受けられます。朝鮮貿易が中断する中で、対馬と長崎、筑後を結ぶ商業ルートの確率は対馬江島氏にとって必須かつ必然であった事でしょう。

徳川政権の世となり領地の支配権を失い、年貢収入を失った元国人領主、筑後江島氏にとっても、商業活動によって一族郎党の存続を図る事は必然でありました。江島村と田代村は筑後川で結ばれ、目と鼻の先の距離です。両江島氏の交流は頻繁となり、益々協力関係は深まって行ったことでしょう。おりしも田中吉政の柳河藩は長崎との交易を盛んに行う姿勢を見せていました。利害を共有する筑後と対馬の同族同士が協力し合って積極的に商業活動を行った事は想像に難くないでしょう。


筑後江島氏と大村氏の関係は何時頃から始まったかは不明ですが、私の想像では大友氏と袂を分かった頃から肥前大村領との交易が始まり、文禄・慶長の役で対馬江島氏とともに大村喜前との関係が深まったと考えています。対馬江島氏の過去記事で、文禄の役では「大村喜前」が所属する第一軍に「江島彦兵衛」が専属通詞としていた事と、名護屋城には七人衆の専属通詞として「江島喜兵衛」がいた事をご紹介しました。

対馬江島氏が朝鮮の役を契機に喜前や名護屋城詰めの大村氏家臣と昵懇となっても不思議はありません。また対馬江島氏からの働きかけにより、筑後江島氏が大村氏の後方支援に一役買ったのかもしれません。

同じく過去記事で筑後江島氏には「江頭」姓を名乗る家臣がいた事をご紹介しました。筑後の江頭氏は家紋は筑後江島氏の家紋と同じ「丸に四ツ目」であり、出自は大村氏の家臣とされています。

江頭氏は元は佐々木氏の家臣で琵琶湖の近くの江頭村を本貫とし、水軍の一員であったようです。肥前に移ってからは大村喜前(おおむらよしあき)に家臣として取り立てられます。
大村氏の家臣が何らかの事情によって筑後江島氏の家臣となる事は、大村氏と江島氏の深い関係を示唆しているように思えるのです。


●九州大名の台所事情

文禄・慶長の役は九州在住の大名に過酷とも言える経済的負担を与えました。終戦後の九州諸大名の疲弊ぶりは並大抵なものでは無かったでしょう。慶長期の朱印船貿易の船主名には9名の大名の名前が見られますがそのうち8名が九州の大名で、朝鮮の役に出兵しています。

その名を列記しますと、島津忠恒、松浦鎮信、有馬晴信、細川忠興、鍋島勝茂、加藤清正、五島玄雅、竹中重利、亀井茲矩です。亀井茲矩は唯一山陰の大名ですが水軍を率いて朝鮮で戦っています。

ちなみに加藤清正は慶長12年から14年にかけて3回。鍋島直茂は慶長10年から12年までに3回。有馬晴信に至っては慶長10年から12年までに6回も朱印船貿易を行いました。これらの大名は疲弊した藩の財政を立て直す意味で、一回の航海で巨大な利益を上げる朱印船貿易は有効と見ていたにちがいありません。

大村氏も台所事情は同様であったにちがいありませんが、自らが船主となる事は有りませんでした。江島吉左衛門と共に大村藩が関係した朱印船貿易にもう一人の人物がいます。その名を「西類子(にしるいす)」と言います。類子は洗礼名です。西類子もルソンとの数度の朱印船貿易を行っていますが、朱印状の船主名は大村喜前ではなく、西類子本人となっています。

何故、大村喜前は朱印船船主とならなかったのか、何故、筑後江島氏が船主となり、大村瓜「五つ木瓜に剣唐花」を下賜されたのかの考察は次回で。



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