田中吉政肖像
●関ケ原以後の江島氏
「慶長5年関ケ原の戦いの東軍勝利によって、事実上豊臣政権は滅び徳川政権の時代へと移ります。それまでの立花宗茂の筑後支配は国人領主達に寛容でありましたが、鎌倉以来400年に渡って認められてきた国人の支配権は消滅し、どこかの家中に仕官するか、武士を捨て、帰農するか町人になるかの選択をしなければなりませんでした。
徳川政権は領国支配において、豊臣政権の「土地は公儀の所有するものであり、大名とて公儀から領地支配を委託されているだけである」という方針を踏襲します。農民もまた土地の耕作権は認められても、所有権は認められませんでした。(後に百姓の土地私有権は認められます)
立花宗茂は人物的に優れ、血統と器量も申し分ありません。また元は大友氏の家臣ですから、仕官をするなら宗茂と密かに江島氏は考えていたかもしれません。しかしその望みも絶たれてしまいます。
●田中吉政と柳河藩
宗茂に代わって慶長5年(1600)に筑後に入部した田中吉政は、近江国の三川村または宮部村の出と言われ、宮部村の国人領主である宮部継潤に仕えた記録があります。一説には農民の出身とも言われています。
後に秀吉に見いだされ、秀次の家臣となり三河国岡崎城主として5万4000石の大名となります。秀次、自害の際も重臣10名が賜死となる中で、処分を受ける事も無く「秀次によく諌言をした」という事で逆に加増されて10万石取りとなります。秀吉から如何にその才能と手腕を認められていた証でしょう。関ケ原の戦いでは東軍に味方し、石田三成を捕縛した功で筑後一国を与えられます。
10万石から32万5000石への大出世ですから、家臣団も相当な数を増員しなければならず、浪人となった筑後国人領主達への積極的な勧誘があったのではないでしょうか。
しかしながら、江島氏が仕官の働きかけをした痕跡は見られず、現存する田中家の分限帳にも江島姓の名はありません。(※田中家には1万石を超える大身の家臣が何人もいたくらいですから、陪臣として仕えた人物はいたかもしれません)
●田中吉政家臣団と後継者
田中吉政は秀吉や家康の信頼も厚かった事が示すように、大名としての手腕もあり、後世の評判もさほど悪くないことから、優れた人物であったようです。
しかし、義の人立花宗茂は「朋友の石田三成を売った男」と吉政の事を快く思っていなかったようです。
江島氏も同様で、筑後武士にとって、近江人の合理的な考え方や生き方は受け入れがたいものであったのかも。さらに、「一代で大出世した家が長く存続した例はない」と見ていたのではないでしょうか。家康が苦労の末に天下をとれたのも、かつて前例がない、旧領地への奇跡の復活を遂げた宗茂も、本人の器量と才覚だけで成し遂げた訳ではありません。先祖代々仕えてきた譜代の家臣達の忠誠心溢れる献身的な支えがあったからでしょう。
惜しむらくは豊臣家も田中家も主君を支える強固な絆で結ばれた譜代の家臣団が存在しませんでした。
さらに、俄か造りの寄せ集め家臣団は全体としてまとまりに欠けるのですが、派閥を形成ししばしば内輪もめを起こします。後に久留米藩主となった摂津有馬氏も同様に、戦国期に次々と加増と転封が繰り替えされ、その都度家臣を増やしたため、新旧の家臣が何派にも分かれて対立し、藩政の足を引っ張る事態を招きました。
また、田中吉政の息子達の評判も芳しくなく、田中柳河藩の未来に疑問を抱いていたのではないでしょうか。長きに渡り武門の栄枯盛衰を見続けてきた眼には危うく映ったに違いありません。また海のネットワークを通じ、江島氏は新領主、田中吉政とその一族の情報を収集し、的確な分析をしていたのではないかと思います。「田中氏は主家としては相応しくない」それが、江島氏の結論であったようです。
事実、江島氏の所見は現実となりました。
嫡男吉次は父吉政と不和になり、柳川を逐電,廃嫡となります。久留米城主となった次男吉信は家臣を手打ちにする悪癖があり、一説には返り討ちに会い若くして死亡したと言われています。三男義興は病弱であり、四男の忠政が家督を継ぎます。
2代藩主忠政は大阪冬の陣では徳川方につきますが、夏の陣では徳川方につくか、豊臣方に付くかで家臣間で内輪もめがあり、参陣に遅参するという大失態をしでかします。一説では過剰な土木工事で財政が窮乏し、軍勢の編成が間に合わなかったとも言われています。
さらに追い打ちをかけるように、三男義興が「忠政が豊臣方につこうとしている」と徳川に訴え出るという事件もあり、幕府の更なる不興を買います。
忠政には嫡子が無かった為、忠政が亡くなると、無嗣断絶により改易となります。柳河藩改易のもう一つの理由として、父吉政と忠政はキリスト教に興味を持ち、宣教師の布教を許し、切支丹を手厚く保護します。幕府の禁教令下での驚くべき行動が命取りになったとも言われています。時に元和6年(1620)。吉政入部以来僅か20年の短い治世でした。
●筑後と長崎
田中吉政は無類の土木好きだったと言われますが、新領地柳河においても水運や稲作のための用水路の整備や、柳川と久留米を結ぶ街道(現県道23号線)や柳川と八女を結ぶ街道を作るなど、陸路の整備にも力をいれました。また、矢部川の護岸整備。有明海沿岸に慶長本土居と呼ばれる堤防の整備。さらに農地の拡大を計画し有明海の干拓を積極的に行いました。
関ケ原の功で家康から新たな加増を受けるとき、あえて吉政は遥か西国の筑後を望みました。「筑後は有明海の干拓で更なる領地の拡大が望めるから」というのが理由だとされていますが、有明海に面した地の利を生かし、海外との貿易をも視野に入れていたのではないでしょうか。
吉政支配下の筑後は多くの切支丹を受け入れており、教会の建設や布教を公認するなど、宣教師たちにとって吉政は良き理解者として広く知られていたようです。度が過ぎた切支丹への入れ込みようも、南蛮貿易への強い願望の現れであったように思われます。
吉政は土木事業を推進するだけでなく、長崎との交易を積極的に行った様子が伺えます。当時、長崎は南蛮貿易の窓口として、博多に勝る賑わいと繁栄を迎えていました。日に日に拡大する長崎の町には筑後から多くの商人が移り住み、筑後町の町名に見られるように、一つの町を形成するほどでした。
長崎の住人達の胃袋を満たす食料や様々な生活物資は筑後の湊から積み出されました。土木事業はとにかく費用が掛かります。田中柳河藩にとって長崎との交易は重要な収入源となっていたようです。
続きは次回に。
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