『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 47 大村藩の対外貿易と西類子 その1

2018年07月12日 | 江島氏


狩野内膳 南蛮屏風 - リスボン国立古美術館


大村氏の海外貿易に関する記述を大村市史から拾ってみますと。


●天正期の大村氏の対外貿易 

大村市史 近世編 第一章
幕藩体制の成立と大村藩より引用


大村氏は天正八年四月二十七日(一五八〇年六月九日)付の譲り状によってイエズス会に長崎と茂木を寄進して長崎内町の統治と司法を同会に委ね、自らは長崎港に関する関税と入港税を保有した。

ルセナ神父のヴァリニャーノ宛一五八七年三月十二日付、大村発信の書翰によると、大村氏はイエズス会を介してマカオのアルマサン貿易に参加して生糸を調達していた。ルセナは喜前から四〇タエス(両)の銀を託されて一五八六年にマカオに送った。日本イエズス会がマカオ市との間にアルマサン契約を結んでマカオ・長崎間の生糸貿易に参加したのは、巡察師ヴァリニャーノが一五七八年にマカオに来てからのことであった。

大村氏の生糸貿易への投資は、同氏がイエズス会に長崎を割譲した以後のことと思われるが、一五八六年のみの投資であったか否については明確でない。管見ではルセナの記事のみである。秀吉が長崎内町を収公したため、大村氏のイエズス会仲介によるマカオへの投資は継続しなかったように思われる。

(引用終了)

●慶長期の大村藩

秀吉が長崎を直轄地としたことによって、大村氏の関税収入は途絶えてしまいます。天正15年(1587)キリシタン大名で知られる、父大村純忠の死によって家督を相続した喜前(よしあき)は文禄・慶長の役に出陣しました。

帰国した喜前は城の整備や領内の治世に力を注ぎます。慶長四年(1599)に行った検地によると石高21,427石4斗で、藩権力の基盤となる蔵入地(直轄地)は僅かに4,454石余しかなく、しかも70㌫は「地方」地区に集中していました。4,454石といっても農民の取り分がありますから、五公五民としても、実収入はわずかに2,200石あまりで、これでは領国経営どころか本家と庶家の統制もままならぬ有様でした。

高禄を食む庶家の中には喜前の方針に従わぬ者もいて、庶家一門の存在自体が、大村藩の家臣団統制はもとより、在地支配にまで影響を及ぼしました。
秀吉の時代から打ち続く中央政権への役負担、更に長崎貿易の利潤を失うなかで、慶長12年(1607)、喜前は庶家一門の領地を召し上げ、追放するという「御一門払い」を断行しました。これによって藩石高の36%にあたる6,684石が収公されています。
しかしながら幕府の諸役負担などによって、大村藩の慢性的な財政難が緩和される事はありませんでした。


●慶長期の大村氏の対外貿易 


大村市史 近世編 第一章 幕藩体制の成立と大村藩より引用

大村氏がマカオへの投資以外に、直接貿易に関与することはあったのであろうか。大村氏に関係ある者として異国渡海の朱印状を幕府から発給された者は西宗真類子と江島吉左衛門のみである。江島は慶長十五年正月二日に暹羅、同二十五日に柬埔寨国渡海の朱印状を拝領した。彼は「大村丹後守之内」、「大村内」、「家人」と記載され、それ以上のことは分からない。

西宗真は、寛永二十一年極月十五日付の「由緒書」で、自らは肥前国大村に居住して大村丹後守に従い、父宗源は「代々筋目有ニ付御領内大浦与申所ニ而七百石之地為御合力被下之候」という。また彼は丹後守が呂宋国の事情に精通した者として権現様(家康)に言上したため、慶長十二年六月にその様子を申し上げたことにより呂宋渡航の朱印状を拝領した。彼は元和三年から呂宋に渡海せず、同二年に堺に家屋敷を求めて同六年から転住した。岩生成一『新版朱印船貿易史の研究』によると、彼は慶長十二・十六・十七・十九年、元和元・三年の六回朱印状を発給された

なお、フィリピン総督宛と思われる「慶長十年九月十三日御印」が、翌日「呂宋通事ニシ・ルイス」に渡されている。フアン・ヒルは『イダルゴとサムライ』において、「カピタン・ルイス・ギンモ」、「ルイス・メロ」を両類子に比定している。同書によると、彼の最初の呂宋渡航は一五九九年、一六〇三年には鉄・鉄製品をマニラにもたらし、一六〇九年には馬の尾毛、翌年には鉄釘類と銅を運んだ。フィリピン総督府会計官は一六一七年に彼宛の支払命令書を作成した。彼は御用商人として鉄の納入をほぼ独占していた。その頃には彼は渡航せず、代理商人を派遣してあらゆる商品の輸出入にかかわっていた。

類子は一五九九年にマニラに船長として渡航し、一六〇五年には「呂宋通事」として幕府とフィリピン総督との橋渡し役を担っていた。一六一〇年前後にはマニラに居住して総督府の信任を得、また人脈を作って商活動の基盤を固めたようである。一六一七年には彼の代理の船長及び商人が渡航したが、彼はこの航海のために投銀六〇〇〇貫を借入れていた。一六二〇年に堺に転住した類子は、寛永年間大村氏の御用商人を務めていた。

彼の父が大村氏から「御合力として七百石」を大浦の地に拝領したことは、武士としてではなく恐らく商人として大村氏を援助していたのかも知れない。息子類子は父を継いでマニラ渡航船の船長兼商人としてその才覚を発揮し、呂宋貿易でその基盤を築いた。総督府やスペイン人官吏や日本町ディラオの日本人たちの信用を得ていたようである。

マニラ貿易における成功とその海外に関する知見は大村氏の評価するところであり、幕府とフィリピン総督府との仲介役への道を拓いた。大村氏は彼の財力に期待して御用商人として登用することになるが、類子は大村氏との間に距離をおくかのように堺に転住したようである。大村氏が直接朱印船を艤装して貿易に関与することはなかったようである。(五野井隆史)

引用終了


朱印船貿易に興味がある方は、大正時代に書かれた「朱印船貿易史」 著者: 川島元次郎を是非ご一読ください。この本には朱印船貿易を行った船主の列伝があり、西類子についても詳しく述べられています。グーグルブックスや国会図書館デジタルコレクションで読む事が出来ます。

西類子は徳川家康に重用されたことや、引退後南蛮貿易に関する諸物を菩提寺に寄進した事によって、記録が後世に残り、活動の様子が良く分かります。類子の足跡や大村藩との関係を知る事によって、吉左衛門の朱印船貿易の背景が伺えます。そこでもう少し西類子について補足したいと思います。


●西類子(西宗真)

前述の「朱印船貿易史」によりますと。西類子(にしるいす)は肥前大村藩士の父、西宗源の時代より、大浦に700石を領し、元の名は「九郎兵衛」。若い頃より海外に興味を持ち、一族で船を仕立て文禄・慶長の頃ルソン(マニラ)に度々渡海し、また長期に渡って滞在したようです。

当時のルソンはメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)の植民地であり、実質はスペイン人の支配下にありました。キリスト教を信じぬ異教徒には商業活動においても差別的な待遇がなされていた為、西は改宗し、その名を「類子(るいす)」と改めます。その結果、市民や総督府の信頼を得るようになりました。

慶長10年(1605)ルソンからのマニラ総督の書簡を持ったスペイン船が長崎に入港した際に、通訳を務めます、慶長12年(1607)、ルソンに興味を持った徳川家康への西類子引見の橋渡しをしたのが大村喜前でした。

類子のルソンに関する海外事情の知識は豊富であった為、家康は大層喜び、ルソン渡海の朱印状を与えます。またルソン政府への外交官的な役割を与え、交渉事に当たらせるだけでなく、商業的な特権も与えます。例えば当時朱印船は長崎を出港して長崎に寄港することが原則でしたが、類子には何処の湊に寄港してもお構いなしの異例ともいえる朱印状を与えます。類子はマニラを本拠に日本との貿易を行いますが、慶長17年(1612)に帰国し、本拠をルソンから長崎に移します。

元和2年(1616)に家康が亡くなった事を契機に、商売の第一線から身を引き、幕府の禁教令など切支丹に対する規制が強化されるに従って、元和3年(1617)には海外貿易を止め、日蓮宗に改宗してその名を「西宗真」と改めます。そして元和6年(1620)には堺に転居してしまいます。

大村喜前はドン・サンチョという洗礼名を持つキリシタンでしたが、慶長11年(1606)に加藤清正の勧めを受けて日蓮宗に改宗します。その後は過酷なキリシタン弾圧を行います。喜前は元和2年(1616)に48才の若さで亡くなりますが、一説には恨みを持つキリシタンによって毒殺されたとも言われています。

機を見るに敏であった類子は、最大の理解者であり支援者であった徳川家康の死去によって、切支丹である自分の立場が大きく変化する事を予見していたに違いありません。

続く


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