『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 64 違い鷹ノ羽の謎 6  江島和泉守の出自と九州探題

2018年09月26日 | 肥前(小国)江島氏



●山号から推測する江島和泉守の出自

江島和泉守とその家臣達はどこから小国郷田原にやって来たのか。実は一族の出自を推測出来るヒントが杖立竹原家文書にあるのです。

それはこの一文です。
「天台宗鳥巣山向林寺幸林院、秋原向に在り、和泉守の寺なり。河内九郎左衛門同寺」

在城期間が長くなるにつれて、江島和泉守が自身と家臣達の為に天台宗の寺院を建立したと思われます。天台宗は和泉守や家老の河内九郎左衛門が元の在所で帰依していた宗派であり、以前の在所にある天台寺院から僧侶を招き、分院を建立したと考えるのが理に適っているでしょう。

そこで向林寺の山号「鳥巣山」に注目してみました。寺院の山号はそもそも、その寺院の所在地を表すものです。

比叡山延暦寺、高野山金剛峰寺、成田山新勝寺というようにお寺の発祥地・所在地にちなんだ名前がつけられています。

現在の田原を地図で見る限り、江島城があった城山に名前はありません。(地元だけの呼称はあるのかも・・・)江島氏が移住する前から存在したと思われる真言宗雲山寺の山号は五角山です。どうやら江島城があった山の名は鳥巣山ではなかったようです。

そこで、日本姓氏語源事典で「鳥巣」という地名を調べてみますと。

トリス 【鳥巣】5 日本姓氏語源辞典 より一部転載
https://name-power.net/fn/%E9%B3%A5%E5%B7%A3.html

①福岡県久留米市北野町鳥巣発祥。江戸時代から記録のある地名。地名はトリノスとも発音した。
②佐賀県唐津市浜玉町鳥巣発祥。江戸時代から記録のある地名。同地に分布あり。
③鹿児島県伊佐市大口鳥巣発祥。同地に江戸時代に門割制度の鳥巣門があった。
④鹿児島県鹿屋市串良町有里鳥之巣(トリノス)発祥。同地に江戸時代に門割制度の鳥之巣門があった。

とあります。

鹿児島は江島姓を名乗る一族とはあまり関連性が無いので除外し、福岡と佐賀に注目し、現地の歴史等を調べてみました。

すると唐津市玉町鳥巣の歴史は意外に古く、平家の落人「鳥巣氏」が住み着いたとあり、江戸期の記録では鳥巣山村と呼ばれていた事が分りました。鳥巣は背振山系の山奥に位置しています。平清盛の帰依した宗派は天台宗であり、鳥巣氏と天台宗との繋がりはありそうです。また久留米市北野町の鳥巣の名前の由来、歴史は不明です。

次に家老の河内九郎左衛門重家の名前にも出自を表すヒントがありました。
それは姓の「河内」です。九郎左衛門は現在の鳥栖市河内町(肥前国基肄郡河内村)出身の地侍であったかもしれません。

以上の事から、江島和泉守はもう一つの江島村、肥前国養父郡江島村(現:鳥栖市江島町)の肥前江島氏ではなかったのかと思えます。

三潴江島村の江島宗家は、江島村と高良山との鎌倉以来の関係から、宗門は天台宗であったろうと過去記事にも書きました。肥前と肥前江島村は対岸に大善寺が控えており、天台宗の影響力を強く受けた地域であったでしょう。

●鳥栖=鳥巣

さらに鳥栖市の「鳥栖」の文字は、古代には「鳥巣」と書かれ、江島村も河内村も、鳥巣と言う地名に大いに関りがあるのです。向林寺山号、「鳥巣山」は「とりす」や「とりのす」ではなく「とすざん」と発音したのではないでしょうか。

和泉守は他国からの新参者として、小国郷の国衆へ謙虚な配慮を行いながらも、自分の寺の山号に、一族のアイデンティティを明確に主張していたと思えるのです。


●和泉守を田原に遣わした者?

では江島和泉守の一族を肥後小国郷に遣わし、矢形尾の城を築城(改築かも)させた者は誰なのか、そして和泉守の託された使命とは何だったのでしょうか。

和泉守が田原に入部するにあたり、周囲の国衆、満願寺(阿蘇流北条氏の後裔勢力)、そして阿蘇氏さえも、何の抵抗もすることなしに平和裏に受け入れています。さらに小競り合いも無く半世紀以上も江島氏は在城し続けます。これには小国の支配者、阿蘇氏さえも文句をつける事が出来ない強大な権力の後押しが和泉守にあったからに違いありません。

応永期の肥前、肥後、いや九州全体に力を及ぼす事の出来る存在とは何でしょうか。もうお分かりだと思いますが、それは九州全域における軍事指揮権と室町幕府(将軍)の権威を兼ね備えた「九州探題」に他なりません。



今川伊予守貞世  富士市立美術館蔵


●応永期における九州探題の動向

和泉守が田原に進出した応永年間(1394—1428)の最初の2年は今川貞世(了俊)が九州平定後も九州探題を務めています。九州の有力氏族を討ち従えた今川貞世の強大な力を恐れた室町幕府によって、その任を解かれ失脚するのが応永2年(1395)です。後任は渋川満頼で、本拠を博多に置き豊前、肥前、肥後の守護職を兼任しています。

今川貞世の九州探題の弱点はその経済基盤の弱さにありました。探題直轄の領地が少ない為、寺社等の所有する荘園の年貢を半分、配下の武将に預け置く、「半済」を行って軍費に充てました。

新たに探題として赴任して来た渋川氏は、軍資金確保の手段として、探題主導による一族や被官を含めた活発な朝鮮との交易を行います。また博多の姪浜から、背後の背振山地の軍事拠点や筑前と肥前を結ぶ川と街道の流通路を勢力下に治めました。さらに肥前の基肄郡(きい)、養父郡(やぶ)、三根郡(みね)、神崎郡など肥前東部に進出し、国人領主を被官として、肥前の直轄地化と勢力拡大を図ってゆきます。

九州探題に関する研究は今川了俊に関しては良く行われていますが、残念な事に渋川氏に関してはあまり行われていません。

九州探題歴代研究に努められた、「川添昭二」氏は「渋川氏は今川了俊に比べ弱体で少弐充貞に敗れた事をきっかけとしてその勢力を急速に失い、東肥前の一勢力となった」と述べられていますが、何時しか川添説が固定化し、渋川氏の衰退は代々の渋川氏当主が無能であったからと言う説がネットでは蔓延しています。

しかし実際はそうではなかったようです。渋川氏は様々な積極策を展開した事。渋川氏の勢力が衰えた理由は、くじ将軍こと6代将軍、足利義教(よしのり)が、渋川氏が強大な力を持ち、今川了俊の再来となる事を恐れて、探題の権限を徐々に削いで行った事が真相のようです。

今回の記事を書くにあたっては、「黒島 敏」氏の論文「九州探題考」を参考とさせて頂きました。この論文はネットで公開されています。ともすれば評価が低い渋川氏ですが、その実像と当時の肥前の情勢の一端を知る上でも、是非ご一読をお薦めします。

★「九州探題考」黒嶋 敏
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/116/3/116_KJ00004785812/_article/-char/ja/

九州探題と江島和泉守の接点が少し明らかになってきました。「違い鷹ノ羽の謎」次回は最終回です。




★違い鷹ノ羽の謎



その1 何故、筑後江島氏が家紋に違い鷹ノ羽を用いたのか?
その2 何故、福岡には違い鷹ノ羽を家紋にした江島家がないのか?
その3 何故、違い鷹ノ羽を家紋とする江島家が九州5県に拡がったか?



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