『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 23  筑後15城と高一揆衆24頭

2018年03月29日 | 江島氏


●吉永正春氏の「筑後戦国史」のあとがきより引用掲載

戦国争乱の頃、菊池、少弐、大友、大内、龍造寺、島津と他国の大勢力から国内を侵略されてきた筑後衆は、これら支配者のため多くの血と汗を流してきた。自らの意思で他国を侵略した経験をもたない筑後人は、その大らかな気質と、天恵の国土を征服者に利用された。
(中略)

筑後の諸家が、乱世を行きぬくため、弱い者同士の知恵と行動で家の存続に“一所懸命”の努力をしたかは想像を絶するものがある。一族全滅してまでも“義”に殉じた家や、保身のための裏切りなど、それぞれの生き方を示しているが、何百年も続いた名家が滅亡してゆく様はまことに哀れである。

時代の流れに抗しきれず、うたかたのように消え去っていった筑後の諸氏を懐う時、感慨深いものがある。

ここに記されているのは当時の史料の一部であり、歴史の表面に出ない筑後国人の記録は無数である。まだまだ光をあてなければならない部分が多い。 

(後略)引用終わり。

東京、本所の生まれでありながら、戦後福岡に居住されたことにより、九州の戦国史研究の第一人者となられた吉永正春氏の著書からあとがきを紹介させて頂きました。

滅びて行った筑後国人たちへの言葉が心に沁みます。今回は吉永氏の著書「筑後戦国史」の記事等を引用させて頂き、筑後国の国人領主達の状況を振り返ってみることにいたします。

●「筑後国都合目録」

秀吉検地によって、筑後国の石高は331,497石と推定されました。当時筑後国は10郡から成り立っていました。
元禄14年「筑後国都合目録」(久留米藩、柳川藩連名)によりますと。各郡の石高と村数は下記の通りですが、戦国期もほぼ同様であったようです。

生葉郡  石高 12,675石余 村数56ケ村
竹野郡  石高 12,397石余 村数91ケ村
山本郡  石高 12,804石余 村数30ケ村
御原郡  石高 20,587石余 村数40ケ村
御井郡  石高 36,780石余 村数73ケ村
上妻郡  石高 29,616石余 村数17ケ村
下妻郡  石高 21,518石余 村数33ケ村
三潴郡  石高 90,222石余 村数147ケ村
山門郡  石高 57,371石余 村数91ケ村
三池郡  石高 37,528石余 村数64ケ村

当時、筑後国には豊後の大友氏の支配を受けており、大身15家が城を構えていました。これを「筑後15城」と言います。後に江上氏と高橋氏は肥前・筑前に移った為、実際は13城となります。

●筑後15城

上蒲池(上妻郡、山下城)8万6000石
下蒲池(山門郡、柳川城)12万石
問註所(生葉郡、長岩城)1万石
星野(生葉郡、妙見城・竹野郡)1万石
黒木(上妻郡、猫尾城) 2万石
河崎(上妻郡、犬尾城)1万石
草野(山本郡、発心城)9000石
丹波(高良山座主) 2万石
高橋(御原郡、下高橋城)1万石
江上(三潴郡、江上城)
西牟田(三潴郡、西牟田城) 5万石
田尻(山門郡、鷹尾城)1万6000石
五条(上妻郡、矢部山城)1万4000石
溝口(下妻郡、溝口城) 1万石
三池(山門郡、今山城) 8000石

蒲池氏を筆頭とする筑後の領主は、大友氏の幕下にあって戦の度に動員されましたが、あくまでも大友氏の軍事力に従っているだけで、独立あるいは敵対する可能性を秘めていました。

その対抗措置として、大友氏は、筑後国内に「高一揆衆」(一揆合衆)という直参の小豪族を配置し、「大名分」としての筑後十五城の大身を監視すると同時に、地頭として徴税に当たらせました。

筑後国内の大友直参衆は

●高一揆衆24頭

江島、上妻、三原、安武、町野、小河、
菅、麦生、酒見、津村、酒井田、坂田、
甘木、辺春(へばる)、谷川、行徳、古賀、
高三潴、林田、木室、荒木、水田、隅、
稲員(いなかず)、諸富

など頭数で24頭、または33頭と呼ばれました。


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