『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 54  文禄の役・碧蹄館の戦いと江島氏 その1

2018年08月21日 | 江島氏



●「福岡県史 柳川藩初期 上・下巻」

県立図書館から届いた「福岡県史 柳川藩初期 上・下巻」に掲載されている文書から、文禄の役・碧蹄館の戦いと江上合戦に江島氏がどのように関わったかをご紹介したいと思います。

この本は通史ではなく、文禄期から元和期にかけての柳川藩関係史料として立花家と家臣家に伝わった文書が列記されています。これらは柳川藩や筑後の歴史を知る上の、重要な一次史料と言えるものです。

そして、これらの文書の中から文禄・慶長期における、筑後江島氏の状況や動静が判る貴重な記述を発見、または確認することが出来ました。


●江島氏の漢字表記について

本題に入る前に「江島」の「しま」の漢字表記についてお断りをしておきます。

古文書や古書籍には「しま」の漢字には「島」「嶋」「嶌」の三文字が使用されています。
特に中世から江戸期は嶋があてられる事が多く、ごく少数ですが「嶌」も使用されているようで、使い分けが現在ほど明確ではありません。


当ブログでは記事の出典となった史料、書籍を紹介する際は史料、書籍の表記通りの漢字を使用しています。しかし一般的な話の中では「江島」と現代風の表記を基本としていますのでご了承ください。


●碧蹄館の戦い

碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)は、文禄・慶長の役における二大合戦の一つです。
明軍の追撃に対し籠城戦か迎撃戦かで日本軍の意見は対立します。
籠城戦を主張する石田三成ら三奉行に対し、兵糧の不足から籠城戦は不利であり、断固迎撃すべしと主張したのが小早川隆景と立花統虎(すみとら、後の宗茂)でした。そして立花勢3000は先鋒部隊となって鬼神の如き活躍で敵を打ち破り、更なる追撃で日本軍を大勝利に導きます。

戦後の自虐史観や左傾的な風潮によって、国内で映画化やテレビドラマ化される事の無い「文禄・慶長の役」ですが、戦前は多くの出版物もあり、「菊池寛」も「日本合戦譚」の中で書いています

★菊池寛「碧蹄館の戦い」 全文が読めます
https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1362_36749.html

立花統虎の数ある戦いの中でも、彼の武名を天下に不動のものとした戦いでした。
さてこの戦、正確には文禄の役については、筑後江島氏の「江嶋彦右衛門」が「小野和泉守鎮幸」の与力衆として参戦している事が分る文書がありました。前置きはこのあたりにして、まずは戦いの概略からご覧ください。


●碧蹄館の戦い概略  (ウィキペディアより抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%A7%E8%B9%84%E9%A4%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

(掲載開始)
文禄2年1月26日(1593年2月27日)に朝鮮半島の碧蹄館(現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り漢城(現ソウル)めざして南下する提督李如松率いる約20,000の明軍を、小早川隆景らが率いる約20,000の日本勢が迎撃し打ち破った戦い。
(中略)

日本軍は迎撃の先鋒を立花宗茂・高橋直次(後の立花直次)兄弟とし、午前2時頃、先に森下釣雲と十時惟由ら軽兵30名が敵状を偵察、敵軍は未明の内に進軍すると予測し、午前6時頃碧蹄館南面の礪石嶺北側二所に布陣した。

先鋒500を率いた十時連久と内田統続を正面に少ない軍旗を立てることで、查大受の率いる明軍2000を騙して進軍するよう誘致し、越川峠南面にて正面で連久らと交戦を開始した。そして宗茂と直次の本隊2000は、先鋒の連久らと中陣700の小野鎮幸、米多比鎮久を陣替する際に、直次と戸次鎮林(戸次鑑方の次男)を陣頭に立てて、左側面から敵後詰・高彦伯の朝鮮軍数千に奇襲を仕掛けて撃退に成功し、更に宗茂は800騎の備えを率いて明・朝鮮軍を猛烈追撃、戦果を拡大した。

ここで日本軍は7千の敵軍と遭遇する。立花軍は奮戦するが、敵軍は次々に新鋭を繰り出し兵を入れ換えてくる。 この最中、十時連久、内田統続、安田国継(此時の名は天野源右衛門貞成と呼ぶ)らは突撃を敢行、鑓を投げて数十騎を突落し、明・朝鮮軍を中央突破して回転突破したが、その際に中陣の戸次統直は強弓を引いて20餘の敵兵を射落し援護しながらも、連久が李如梅の毒矢を受けて、帰陣から間もなく戦死し、旗奉行の池辺永晟も連久負傷後は先鋒隊の指揮を暫任し中陣と替わるのを成功させたが、後の追撃戦で戦死した。

寡兵の立花・高橋勢は奮戦してこれを撃退、越川峠北方右側にて兵を休ませ、この後に小早川隆景など日本軍先鋒隊が到着すると、疲労の深い立花勢を後方に下げて、西方の小丸山に移陣した。この戦端が開かれた時点では日本軍本隊はまだ漢城に在った。

午前10時頃、高陽原に明軍は左・右・中央の三隊の陣形で押し寄せた。日本軍先鋒隊は全軍を碧蹄館南面の望客硯に埋伏させ、同時に三方包囲策を進行し立花、高橋と吉川広家が左方、毛利秀包、毛利元康、筑紫広門と宇喜多秀家が右方から迂迴進軍する。

午前11時頃、正面に出た小早川隆景軍の先陣二隊の内、明軍の矢面に立った粟屋景雄隊が次々繰り出される新手を支えきれずに後退を始めると明軍はすかさず追撃に移る。しかし戦機を待ってそれまで待機していたもう一方の井上景貞隊がその側背に回り込んで攻撃したことで明軍は大混乱となった。

その機を逃さず、立花、高橋勢が左方から、小早川秀包、毛利元康、筑紫広門勢が右方から側撃、隆景本隊と吉川広家、宇喜多家臣戸川達安、花房職之も正面より進撃し、明軍前衛を撃破して北の碧蹄館にいた李如松の本隊に迫って正午の激戦となった、この際立花の金甲の将・安東常久と一騎討ちして李如松自身も落馬したが、李如梅の矢を受けて安東は戦死した。
(中略)

かくして日本軍本隊の本格的な戦闘参加を待たずに正午頃には戦いの大勢は決し、小早川隆景らの日本軍は退却する明軍を碧蹄館北方の峠・恵陰嶺に午後2時から4時まで追撃し深追を止めたが、立花宗茂と宇喜多秀家の軍勢はより北の虎尾里まで追討し、午後5時までに漢城へ引き上げた。

なお、立花軍の金備え先鋒隊長小野成幸や与力衆の小串成重、小野久八郎と一門の戸次鎮林、そして高橋家中今村喜兵衛、井上平次、帆足左平、梁瀬新介も戦死し、立花宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、二つの甲首を鞍の四方手に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという。

(抜粋終了)

次回に続く


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