『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 24  高一揆衆と官位

2018年03月31日 | 江島氏


前回は「筑後15城」の各氏族と「高一揆衆」の24頭をご紹介しました。ちなみに「筑後領主附」に記載されている「高一揆衆」をピックアップしてみますと。

上妻越前守 八女山崎城、200町(中関白末)
甘木紀伊守 17町(中関白末)
津村大助  24町(原田末)
酒井田河内守 20町
菅四郎次郎 12町7反
安武安房守 三潴梅津城50町(菅原末、少弐末)
坂田遠江守 8町
木室又兵衛 6町5反
水田藤五  6町5反
酒見刑部少輔 14町8反
諸富左近太夫 16町
高三潴式部少輔 5町
江島遠江守 三潴江島城 23町3反(少弐末、中関白)
江島太郎  23町3反(少弐末、中関白)

高一揆衆のなかで最も領地が広いのが八女の上妻氏です。上妻氏は高木氏の庶流です。筑後江島氏とは同族になります。上妻氏の200町は別格としても、他家の領地の少なさに驚かれることでしょう。

大友氏は「高一揆衆」に対し、官位を与えていました。この時代は勝手に官職を名乗る事も平然と行われました。例えば当初織田信長は「上総介」を名乗っていましたが、これは自称です。

大友氏の場合は朝廷が発行する正式の官職と位階です。しかも小領主には不釣り合いな高位の官位でした。兵力や権力を持たぬ小豪族に対し権威を与え、大名格の国人領主に対抗させたのです。

「高一揆衆」の「高」とは「高家」(格式の高い家、由緒正しい家、名家)を表しています。
一揆衆の諸家は平安、鎌倉から続く名家の庶流が多かった為、朝廷も大友氏の申請を受け入れたものと思われます。

ちなみに「筑後領主附」から「高一揆衆」の当主達の官職とそれに相当する位階を書き出してみました。

越前守  従五位上
河内守  従五位上
遠江守  従五位下
紀伊守  従五位下
刑部少輔 従五位下
式部少輔 従五位下 

官職名が分かっている江島氏のご先祖の官位は江島修理亮(しゅりのすけ)、江島遠江守(とうとうみのかみ)江島美濃守です。いずれも「従五位下相当」の官職となります。

ちなみに「治部少輔」と言えば石田三成の官職名ですが、佐和山19万4千石の大名の位階は「従五位下」です。

平安期では「従五位下」以上の位階にある者を「通貴」と呼び、五位以上がいわゆる貴族の位階とされました。またその位階にある者を「大夫」と呼びました。また許されれば昇殿することも可能であり、「従五位下」以上の位階にあることが貴族としての条件であったと言えます。

従五位下にあった主な者としては、代々、国司を務めた藤原氏の傍流や橘氏、高階氏、清原氏、大江氏などの一門。清和源氏、桓武平氏などの軍事貴族に至るまで、中級貴族層の多くがこの位階に叙せられました。

鎌倉時代初期までは、京都の中・下級貴族と、鎌倉幕府において京都から下った官吏。源氏一門、有力な名門御家人などがこの位階にありました。室町時代には、足利将軍家や守護の初叙位階でもあり、有力な守護代や力ある国人領主などもこの位階でした。

五位以上が与えられ太夫と呼ばれることは、武士にとって大変名誉な事であったと思います。しかしながら、家格が上がれば衣装、調度から主家や他家との付き合いまで、身分相応の対応をせねばなりません。台所事情が厳しい小領主にとっては何かと物入りで、存外、有難迷惑であったのかもしれません。


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