前回は江島氏の領地について約50町と述べました。
江島氏の領地についての文献としては、天正七年に比定される10月1日付けの大友義統知行坪付(酒見文書)に、龍造寺隆信の筑後侵攻に際し、上妻郡山下城に籠城した恩賞として、江島15町が酒見太郎に与えられています。
天正10年10月23日の大友義統知行預ケ状案では江島太郎跡の江島30町を酒見右衛門太夫に預け置いたとあります。これらの数字を合わせると、凡そ45町の江島領が酒見氏に与えられたことになります。
これらの動きは大友氏が耳川の戦いで、島津に惨敗した事を契機に、龍造寺隆信が筑後を侵攻し始めた事に対する処置として、味方に留まった者や龍造寺を裏切った者に対し大友氏は恩賞を乱発しました。
筑後江島氏の肥前の分家には江島左近充など、造寺隆信の側近として活躍する者もいて、かねてより龍造寺に与するよう工作が行われていたと思われますが、江島宗家としてはそれを断り、大友方に義理立てしていました。
しかしながら大友義統の度重なる嫌がらせに、堪忍袋の緒が切れて、大友配下から離反しました。大友氏の恩賞乱発は空手形が多く、江島、四郎丸が酒見領になることは無かったようです。
筑後江島氏の本貫である江島村、四郎丸村の石高を想定しますと、時代によって石高の算出の基準に違いがありますが、戦国末期における石高はおおよそ1200石から最大1500石くらいであろうと推定されます。
江島、四郎丸共に田の面積はほぼ同じですが、江島の方は良田が多かったようで、四郎丸はやや石高が低くなります。この石高での兵力はどの位であったかは、現存する『明智光秀家中軍法』によれば、
一、軍役人数は100石に6人。その前後はこれに準じること
一、100石より150石未満は、甲1羽・馬1疋・指物1本・鑓1のこと
一、150石より200石未満は、甲1羽・馬1疋・指物1本・鑓2本のこと
一、200石より300石未満は、甲1羽・馬1疋・指物2本・鑓2本のこと
一、300石より400石未満は、甲1羽・馬1疋・指物3本・鑓2本・幟1本・鉄炮1挺のこと
一、400石より500石未満は、甲1羽・馬1疋・指物4本・鑓4本・幟1本・鉄炮1挺のこと
一、500石より600石未満は、甲2羽・馬2疋・指物5本・鑓5本・幟1本・鉄炮2挺のこと
一、600石より700石未満は、甲2羽・馬2疋・指物6本・鑓6本・幟1本・鉄炮2挺のこと
一、700石より800石未満は、甲3羽・馬3疋・指物7本・鑓7本・幟1本・鉄炮3挺のこと
一、800石より900石未満は、甲4羽・馬4疋・指物8本・鑓8本・幟1本・鉄炮4挺のこと
一、1,000石には、甲5羽・馬5疋・指物10本・幟2本・鉄炮5挺のこと。付則:馬乗1人の着到は2人分に準じること。
※1,000石は鑓(槍)10本が抜けています。
1,000石では兵力60人、内輸送要員が半分として、戦闘員30名、輸送要員30名くらいでしょうか。
最大1500石として、戦闘員40~50名、輸送要員40~50名くらいの兵力であったろうと思われます。
この位の兵力ですと、単独での軍事行動は無理でしょう。実際の戦闘では、有力武将の配下に入るか、与力衆として参戦したものと思われます。
単独の軍事行動を行うには最低300人から500人程度の兵力が必要です。近、現代においてもこの数字は1個大隊に相当する数字です。300人を超す兵力を養うには1万石以上の所領が必要となります。
国人領主の出身で後に大名となる、井伊氏はおよそ1万石以上、真田氏は5万石以上あったようです。
筑後国人領主の雄、蒲池氏は上下あわせて凡そ18万石。国人領主と言ってもピンからキリまでありますよね。
筑後江島氏が歴史の表舞台に登場しなかったのはこの兵力の少なさと、操船に長けた氏族の特性からであったろうと思います。しかし見方を変えれば、そのお陰で一族が根絶やしになるような悲劇も無く、江戸を迎えられたこと、そして今の私たちがある事です。
私が筑後江島氏を調べていくに連れて、この石高では説明がつかない事が出てきました。
その一つが筑後江島氏の江戸初期における新田開発でした。別の機会にその詳細はご紹介しますが、ざっと分かっているだけで4か所の新田開発を行っています。柳川2か所、青木島1か所、紀州和歌山1か所です。
江戸初期の新田開発は「商人請け」「土豪請け」と呼ばれ、財力のある豪商や土豪達によって行われました。もちろん各藩直轄による新田開発も行われましたが、一般の新田開発の資金や労働力の提供には藩は全く関与しません。
商人請け、土豪請けは全て、自費で賄われたのです。新田を開発すればその土地の使用権(のちに所有権)が与えられ、数年間の地租が免除されるだけです。開発は数年から十年単位のスパンで行われます。新田が出来るまでは耕作する土地も無いのですから、大勢の人間を養い、賃金を払うために、また資材の購入に巨額の資金が必要となるのです。
ほぼ時期を同じくして4か所の新田開発を行った、江島氏の資金源は何だったのでしょうか。そこに小領主江島氏が、戦国の世に賭けた生き残り戦略があったのです。
その詳細は次回に。
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