茂原学習塾・予備校塾長日記(誠心学院予備校)

塾・予備校の出来事や内容紹介。
成績の上げ方、日ごろの心構えを
分かりやすく記事にしています。

いわさきちひろ

2024年06月22日 | 人物

いわさきちひろは、こども

の水彩画に代表される

福井県武生市生まれの

日本の画家・絵本作家

である。

つねに「子どもの幸せ

と平和」をテーマとした。

 自身、男の子が一人いる。

彼女の絵には、

母親の愛情深い視線が

感じられる。

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金子みすず

2024年06月22日 | 人物

 『赤い鳥』、『金の船』、

『童話』などの童話童謡

雑誌が次々と創刊され、

隆盛を極めていた大正

時代末期。そのなかで

彗星のごとく現れ、

ひときわ光を放って

いたのが童謡詩人

・金子みすゞです。


 金子みすゞ(本名テル)

は、明治36年大津郡仙崎村

(現在の長門市仙崎)に生

まれました。

成績は優秀、おとなしく、

読書が好きで、だれに

でも優しい人であった

といいます。

 そんな彼女が童謡を

書き始めたのは、20歳の

頃からでした。4つの

雑誌に投稿した作品が、

そのすべてに掲載される

という鮮烈なデビュー

を飾ったみすゞは、

『童話』の選者であった

西條八十に「若き童謡詩

人の中の巨星」と賞賛される

など、めざましい活躍をみせ

ていきました。

ところが、その生涯は決して

明るいものではありませんで

した。23歳で結婚したもの

の、文学に理解のない夫から

詩作を禁じられてしまい、

さらには病気、離婚と苦しみ

が続きました。ついには、

前夫から最愛の娘を奪われ

ないために自死の道を選び、

26歳という若さでこの世を

去ってしまいます。

こうして彼女の残した作品

は散逸し、いつしか幻の

童謡詩人と語り継がれる

ばかりとなってしまうの

です。

代表作は「私と小鳥と鈴と」

「大漁」

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アフリカで育ち受験情報ゼロ&独学で灘合格→東大から講談社内定しドラゴン桜・宇宙兄弟を生み出した漢(佐渡島庸平)

2023年12月20日 | 人物

アフリカで育ち受験情報ゼロ&独学で灘合格→東大から講談社内定しドラゴン桜・宇宙兄弟を生み出した漢(佐渡島庸平)

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宮沢 賢治

2023年10月24日 | 人物

宮沢 賢治(みやざわ けんじ、本名:宮澤-、

1896年8月27日(戸籍上は8月1日)- 1933年9月21日)

は、日本の詩人、童話作家。

郷土岩手の地を深く愛し、作品中に登場する

架空の理想郷に、「岩手(いはて)」をエスペラント

風にしたイーハトヴ(Ihatov、イーハトーブあるいは

イーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。

その仏教観のある独特の魅力にあふれた作品群に

よって没後世評が急速に高まり国民的作家と

されるようになった。

有名な童話には「銀河鉄道の夜」、詩集には

「春と修羅」がある。

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橋本 左内

2023年10月19日 | 人物

橋本 左内は、日本の武士、志士、思想家。

号は景岳、黎園。諱は綱紀。著書に15歳の

時に志を記した『啓発録』がある。安政の

大獄で25歳で死罪となった。-

  • 生年月日1834年4月19日
  • 学歴適塾

Wikipedia

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湯川秀樹

2017年02月22日 | 人物
湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、明治40年(1907年)
1月23日 - 昭和56年(1981年)9月8日)は、日
本の理論物理学者。中間子理論の提唱などで原子核
・素粒子物理学の発展に大きな功績を挙げ、1949
年(昭和24年)日本人として初めてのノーベル賞
を受賞した。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市
名誉市民。1943年(昭和18年)文化勲章。従二位
勲一等。理学博士。

中間子(メゾン、メソン、旧称メソ(ゾ)トロン、
湯川粒子、meson)とは、素粒子物理学の用語で、
ハドロンの一種である。標準模型では、中間子は
反対の色荷を持ったクォークと反クオークから構
成されると説明され、バリオン数が0である。安
定したものはなく、半減期はナノ秒単位である。
最も軽い中間子(パイ中間子)は、およそ140MeV(
約2.5×10-28 kg、電子の約270倍)の質量を持っている。

もっともエネルギーの低いメソンは擬スカラー粒子
(スピン 0)である。 ここでクォークと反クォーク
は反対向きのスピンを持つ。 ベクター粒子(スピン
1)のメソンの場合はクォークと反クォークは同じ方
向のスピンを持っている。 殆どのメソンの質量は、
構成要素のクォークの質量からではなく、束縛エネ
ルギーから生じている。 すべてのメソンは安定で
はない(陽子のような長い寿命を持たない)。

中間子はもともと陽子と中性子を原子核中で束ねて
いる力を伝達していると予想されていた。ミュー粒
子が最初に発見されたとき、質量が近いことから中
間子と考えられ、「ミュー中間子」と名付けられた。
しかし、核子を強く引き付ける力がないことから、
実はレプトンであったと判明した。後に、本当に力
を伝達するパイ中間子(ミュー粒子に崩壊する)が
発見された。
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マザー・テレサ

2017年02月21日 | 人物
マザー・テレサ(Mother Teresa、本名アグネス
・ゴンジャ・ボヤジュ(Agnesë Gonxhe Bojaxhiu)
1910年8月26日 -1997年9月5日)はカトリック教会の
修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者であ
る。

「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」
は修道名である。カトリック教会の福者。コルカタ(カ
ルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動
は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。

生前からその活動は高く評価され1973年のテンプルトン
賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラ・ラトナ
賞(インドで国民に与えられる最高の賞)など多くの賞
を受けた。1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている
(アメリカ名誉市民はわずか6人しかいない)。2003年
10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福
された。
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坂本 龍馬

2017年02月20日 | 人物
坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日
(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年
12月10日)は、日本の武士(土佐藩郷士)、政治家、
実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ね
た亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政
奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。
贈官位、正四位。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』
の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。
また、その事跡についてはさまざまな論議がある。

むしろ生前より死後に有名になった人物であり、
司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り
上げられる人物ではあるが、それらは実際の龍馬と
かけ離れているのではないかという指摘は多い。歴
史家の中に、特にそのような指摘をする人は多く、
松浦玲などが代表格。ちなみに、龍馬の伝記を書い
た歴史家としては、平尾道雄・池田敬正・飛鳥井
雅道などが代表的.
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植村直己

2017年02月07日 | 人物
(1941―84) 登山家、冒険家。兵庫県出身。明治大学在学中、山岳部に属し、1965年(昭和40)明大隊隊員としてヒマラヤの未踏峰ゴジュンバ・カン登頂。66年アルプスのモンブラン、アフリカのキリマンジャロ登頂、68年南米のアコンカグア登頂後、ペルーのユリマグアス(イキトス市の上流)より河口まで60日間をかけてアマゾン川を筏(いかだ)で下った。70年エベレストと北米のマッキンリーに登り、世界五大陸の最高峰に登頂、しかもエベレスト以外は単独登山であった。さらに71年アルプスの難壁グランド・ジョラス北壁登攀(とうはん)後、エベレスト南壁国際登山隊に参加。74年から76年にかけてグリーンランドからアラスカまで北極海を単独犬ぞりで踏破、さらに78年北極点に単独犬ぞりで到達。80年アコンカグア厳冬期初登頂。81年冬期エベレストに挑戦したが果たさず、さらに南極の最高峰ビンソン・マッシフに登る準備をしていたが国際情勢から断念。84年2月北米マッキンリーの冬期単独登攀に成功、下山途中消息を絶った。

人間の可能性への飽くなき挑戦を、周到な準備と卓抜な精神力と技術で実行した世界的な登山・冒険家である。著書に『青春を山に賭(か)けて』『北極園12000粁(キロ)』『極北にかける』などがある。78年菊池寛賞、79年バーラー賞、アカデミー・オブ・アメリカ賞、84年4月国民栄誉賞を受けた。
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田中耕一

2017年02月05日 | 人物
田中 耕一(たなか こういち、1959年8月3日 - )は、日本の化学者・エンジニアである。文化功労者、文化勲章受章者。株式会社島津製作所フェロー・田中耕一記念質量分析研究所所長、東京大学医科学研究所客員教授、日本学士院会員。

2002年ノーベル化学賞受賞。受賞理由は「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」。同年文化勲章受章、文化功労者となる。富山県名誉県民、京都市名誉市民、名誉博士(東北大学)などの称号も贈られている。

受賞当時は島津製作所に勤める会社員であり、会社員のノーベル賞受賞として日本国内で話題となった。2007年時点で、化学分野において、「博士の学位」「修士の学位」「専門職学位」を保持しないノーベル賞受賞者は、田中耕一のみである。なお博士の学位を保持しない同賞受賞者としては、チャールズ・ペダーセン(日系人)についで2番目である。

タンパク質を質量分析にかける場合、タンパク質を気化させ、かつイオン化させる必要がある。しかし、タンパク質は気化しにくい物質であるため、イオン化の際は高エネルギーが必要である。しかし、高エネルギーをかけるとタンパク質は気化ではなく分解してしまうため、特に高分子量のタンパク質をイオン化することは困難であった。

そこで、グリセロールとコバルトの混合物(マトリックス)を熱エネルギー緩衝材として使用したところレーザーによりタンパク質を気化、検出することに世界で初めて成功した。この功績が評価され、彼の開発した方法を「ソフトレーザー脱離イオン化法」として、ノーベル賞が授与された。「レーザーイオン化質量分析計用試料作成方法」は、1985年に特許申請された。

現在、生命科学分野で広く利用されている「MALDI-TOF MS」は、田中らの発表とほぼ同時期にドイツ人化学者(Hillenkamp、Karas)により発表された方法である。MALDI-TOF MSは、低分子化合物をマトリックスとして用いる点が田中らの方法と異なるが、より高感度にタンパク質を解析することができる。

なお受賞に先立ち、1983年に卒業した出身校の東北大学から2002年10月31日に名誉博士号が授与されたが、田中は自分は職人的科学者であるとして、ノーベル賞授賞式会場でも敬称にドクターではなく、ミスターを使うよう申し出たという経緯がある。電話による受賞の報が伝えられたとき「びっくり」(ドッキリカメラの意)だと思い本気にしなかったが、家の前に報道陣が大挙押し寄せやっと現実と考えた。

田中は現場にいることを好んだため、昇進の話をたびたび拒み、ノーベル賞受賞時も島津製作所に於いては年齢的に不相応な主任という職にいた。しかし同賞受賞に伴い会社の業績に多大な功績を与えたため、島津製作所は待遇を上げた上で現場に留まれる「フェロー」という職制を新たに創設した。この時にも、会社は田中を取締役待遇フェローに遇しようとしたが、「急に待遇が上がるのは好ましくない」と田中が拒んだため、しばらくの間、部長待遇のフェローとなったという話もある(2003年1月より執行役員待遇)。

内閣府の総合科学技術会議にも参加し、日本の科学政策に影響を与える存在にまでなっている。

田中耕一の七三分けの髪型に作業服という外見、一介のサラリーマンでお見合い結婚という経歴、穏やかで朴訥とした言動は非常に多くの日本人の共感を呼び、連日連夜、マスメディア関係者が田中を追いかけ、インタビューをする。ワイドショーも騒ぐ。まるで芸能人の様な扱いを受け、「いいひと」と大衆からの人気を得る。

当時国内外共に明るいニュースが無かったため、田中の功績は大々的に取り上げられ、職人気質で物欲・出世欲・金銭欲が無い謙虚な人間性も皇室、財界、政界、学界、マスメディア、一般人など非常に広い世界で好意的に受け止められる。

温厚な人柄で「善人の代名詞」とまでマスメディアは持ち上げたが、その後NHKの田中耕一追跡取材では、連日連夜の記者の追いかけと、一人歩きする聖人のようなイメージに悩んだと打ち明けている。

NHKから、この年の紅白歌合戦に審査員として出演依頼されたが、「私は芸能人でも博士でもありません。」(前述の通り田中の学位は学士である)と辞退した。

マスコミが集まり受賞の会見をしている最中に田中氏の携帯電話が鳴り、「まだ取材が続いてるから」「こんな機会はめったにないから」等と話し込んでから電話を切った。そしてマスコミに「(今の電話は)妻からでした」と一言言うと会見の会場は爆笑の渦に包まれた。

現在でも、有名人扱いを受けることを望んでおらず、サインや写真を求められても、そのつど丁寧に断り、代わりに名刺を配っている。

マスメディアではこのような「一介のサラリーマン」の立場ばかりが強調されているが、学会の場で田中耕一をみると、的確な英語で外国人研究者と盛んに議論するなど実際には研究者としての立場で働くことも多い。

青色発光ダイオードの製法についての中村修二と日亜化学工業の訴訟については、田中耕一が引き合いに出されて、中村修二は貪欲であるという非難がなされたが、これについて田中耕一は、「自分の発明は会社の売り上げにあまり貢献しなかった」と状況が全く違うとして、中村修二を擁護する発言をしている。

近年は白髪が非常に増え、受賞時との違いに驚く人もいる。
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