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ブログ版「泥鰌の研究室」

 信州飯田周辺の方言(飯田弁)を発信しながら、日本語について考えていきます。

アト

2004-11-15 | 飯田弁語彙の解説と考察
平成10年3月14日に福沢武一先生のお宅をお訪ねした折りに、先生からひとつの宿題をいただきました。
表題の「アト」です。「アト」とは、上伊那、下伊那地区で「水田の水の出口」を指す方言です。「アト」は稲の生長に応じて水田に必要な水位を保ち、水温を確保したり、田の草の繁茂を防ぎ、大水の際の排水口となる水稲栽培の重要なものです。この出口を作ることを「アトヲキル」といいます。
ところが、下伊那北部と上伊那南部、いわゆる両郡の接点となる地域では「アテ」という地区があるらしい、先生は「アト」が転訛して「アテ」となったか、あるいは単に「アト」を「アテ」と誤って使っているのではないか、これから方言について研究を深めていくのなら、手始めに調べてみなさいと、宿題をいただいたわけです。

先生のお話では、「アト」は、「アトクチ」の「クチ」が省略されたため、アクセントも違うということで、松川町教育委員会がまとめた「松川町の方言」冊子にも、同様の記述があります。
下伊那の売木村、浪合村出身の方は、「ミズグチ」(または「ミナグチ」、「~クチ」と濁らない場合もあります。)といい、「アト」は聞いたことがない、ただ、子供の頃に、水の出口を塞ぐために「アテに行って来い」といわれたとか。
この「アテに行って来い」という話を阿南町富草出身の男性にしたところ、彼は、田の水の流出を防ぐために板を当て、その板を「アテイタ」と呼ぶという話をしてくれました。「アテイタ」を当てる場所という意味でその場所を「アテ」と呼んでいたといいます。つまり、「アテ」とは、水田の水の出入り口をいうのではなく、水漏れしそうな場所を指すとのことです。もちろん、彼も「アト」は聞いたことがないといいます。
売木村、浪合村、阿南町の例で「アト」を聞いたことがないということは、この「アト」ということばは、飯田市以北のことばといえそうです。(前述の「アトヲキル」は、飯田市北方出身の方からお聞きしました。)

飯島の日曽利出身の女性は、「ミズグチ」といいました。こちらの場合は、出口も入口も「ミズグチ」だと言われたので、福沢先生の著書「ずくなし」を開いたところ、上伊那の方言を集めたこの本には「ミズグチ」が出てきません。あとで福沢先生にお聞きしたところ、先生の調査カードには「ミズグチ」も「ミナクチ」も登載されており、採録漏れになってしまったとのこと、意味合いは、日曽利出身の方が言うように出入口のいずれも指すことばだそうです。
上伊那南部では「ミズグチ」が出口、入口のいずれをも指すことを前出の浪合村出身の方にお話すると、その方は、「ミズグチ」というのは、田の水の出口ではなく、入口だといわれました。つまり、段々畑のような田であると、下の段の田では、入口が「ミズグチ」となる、すなわち、上の段で出口にあたる口が、下の段の「ミズグチ」となるために、すべてが「ミズグチ」イコール入口ということになるということだと話をされました。浪合村のような山間地ゆえに段々状の水田を作っている地域ならではの話だと思います。
豊丘村、中川村の方のお話ですが、「アト」は知っているが、「アテ」は知らない、ただし、中川村出身の方は、子どもの頃におじいさんが、田圃の水が当たる土手の部分を「アテ」と呼んでいたとか。この話は、先の売木村、浪合村、阿南町の方々から聞いた話と共通するものがあります。
このお二人からは、「ミズグチ」「ミナグチ」について、水が入ってくる部分はたしかに「ミズグチ」などというが、入口を指すとすれば「カケグチ」といったほうが、わかりやすいという話をお聞きすることができました。さらに、「カケグチ」と「ミズグチ」は基本的には違うというのです。「ミズグチ」に植えられた苗は生長がよろしくない、つまり、冷たい水が流れてくる場所、それが「ミズグチ」だというのだそうです。一方、「カケグチ」というのは、水が田全体へ向かって流れ出す場所なので、こちらへ植えた苗は普通に生育するという、実に興味深い話です。
もともと「アトクチ」と呼んでいた水田の水の出口は、「クチ」が省略されて、「アト」と呼称されるようになりましたが、水の入口は「カケグチ」です。「アト」のように「クチ」が省略されずに、いまだ「カケグチ」のまま、農家に息づいていることばです。

ところで「カケグチ」(「ミズグチ」、「ミナグチ」)まで来る水は「イ」を流れてきます。
一般に「イ」といえば、辞書などを引くと「井戸」と記述されています。ところが下伊那では「イ」とは田の水路、つまり「用水路」を指します。「イスイ」、「イゲタ」ともいいますが、「イ」は「井」ではなく、「堰」です。下伊那各地の用水路は「○○イ」と呼ばれています。「堰」を意味する「イ」は、失われる方言が多い中にあっても今も残っているのです。「イザレー」(「イザライ」)といえば、用水路の清掃作業を指し、近隣の農家が総出で、この作業をしたといいます。

結局、「アト」と「アテ」がイコールか否か、また、上伊那南部と下伊那北部に「アテ」が存在するのか、結論を出すことはできませんでした。(ご教示いただけるとありがたく思います。)しかし、「アト」、「アテ」を追いかける中で、「ミズグチ」、「ミナグチ」、「カケグチ」などの関連することば、さらに「イ」という副産物を収穫することができました。
ことばは生きていることを実感するとともに、ますます失われようとしている方言に愛着を覚えることができました。

ミヤマシイ

2004-11-15 | 飯田弁語彙の解説と考察
「みやましい」とはどんな状況をさすだろうか。
「伊那谷の方言歳時記」(下澤勝井著 1987年 郷土出版社)には、次のような記述がある。

 みやましい-これを標準語でいいなおすとなると、さてどういったらいいらなム。①とにかく働き者であることは間違いないが、ただの働き者ではなくて、②よく気がついて、③手ばやくて、④段取りもよく、⑤その上器用で、⑥骨身惜しまずこまめにやって、⑦そうかといって決して出しゃばりではなく、⑧人の気のつかんとこにもよく気づく⑨不言実行型で、⑩その上どこかに思いやりなどもあって、⑪明るく⑫すなおで、⑬体もまめで、⑭頭もよくて、いやはやいい事はみんなこの中に封じ込めてしまって足らんくれえの最高のほめことばじゃねえらか。その上みやましいと言われる人たちはどうやら器量もよく、小づくりでくりくりした、あの伊那美人の典型がこのことばの中から浮きあがってくることにはならんらか-。(以下、省略)  

たしかに私たちはいろいろな場面でこの「みやましい」を使い分けている。しかし、それを共通語でなんと言っていいのかわからないというのが実際である。
ところで、私が日頃からお世話になっている「日本方言大辞典」(1989年 小学館)には、「みやましい」という項はない。「全国方言辞典」(1951年 東京堂)も同じだ。いずれも「みがましい」という語の転訛として「みやましい」をあげている。
「下伊那郡方言集(中間報告)」(1953年 下伊那教育会)には「みやましい」について注意書きが添えられている。

 ミヤマシイ しっかりしている。きちんとしている。
 うらやましいのやましい(病)

この注意書きに注目したのが福沢武一先生だ。先生の著書「上伊那の方言 ずくなし」(1980年 伊那毎日新聞社)には次のように記述されている。

ミヤマシイは、勇ましい・悩ましい等々と構造を等しくする。と、ミヤムという動詞が考えられていい。 勇む・悩む等々と同様に。ミヤムなどという語は辞書類に見られない。が、下伊那方言集が指摘するように、ウラヤムがヒントである。ウラは「心」。他の立派なさまを見てウラヤム(心をいためる)。ミヤムは、他の甲斐々々しさを目にし、ミ(おのれ自身)をせめるのだ。
ハズカシイは、自分のミスボラシサが恥じらわれる。本来は、向こうが立派なので恥じらわれた。ミヤマシイもこの関係に等しい。向こうの甲斐々々しさに懐かれる感情なのだ。

同様の記述が福沢先生が補註された「木曽の方言」(矢島満美著 1974年 国書刊行会)にも見られる。
さすが万葉にご造詣の深い先生の解釈である。読者を十分に納得させる。
では、なぜ、「日本方言大辞典」や「全国方言辞典」では、「みやましい」が見出し語とならなかったのか。福沢先生は「ずくなし」の中であっさりと答えを出している。

   次の場合にならえば、ミガマシイが原型である。
    ミヤク(磨く)全郡

「日本方言大辞典」、「全国方言辞典」、「分類方言辞典」(1954年 東京堂)から「みがましい」の記述を引用する。

 「日本方言大辞典」
 みがましー<>
 ①よく働くさまだ。勤勉だ。かいがいしい。 山梨県南巨摩郡 静岡県「あの人はみがましい」 愛知県北設楽郡 (みかましー)静岡県志太郡 (みやましー)長野県「みやましく働く」 (みだましー) 静岡県北伊豆 (みたましー)静岡県田方郡
 ②まじめだ。着実だ。 (みだましー)静岡県
 ③すばしこい。 愛知県北設楽郡
 ④なんでもよくできる。 静岡県小笠郡 (みやましー)長野県下伊那郡 (みだましー)静岡県小笠郡「あの人は何をやってもみだましい」 (みざましー)山梨県南巨摩郡
⑤服装や動作がきちんとしている。体裁がよい。 静岡県浜松市「みがましくしなさい」(みやましー)長野県諏訪 上伊那郡

 「全国方言辞典」
 みがましい 形
    仕事に精出すさま。「あの人はミガマシイ」静岡県安倍郡・愛知県北設楽郡

 「分類方言辞典」
   みやましい 形 →みがましい
    かいがいしい 長野県上伊那郡高遠

それぞれの辞典の「みがましい」の共通語例は、私たちの使う「みやましい」と符合する。
「みがましい」は、静岡県の用法だ。秋葉道を通って飯田下伊那へ入ってくる途中で「みやましい」に転訛したと考えることができる。しかし、「みやましい」の語の成り立ちを福沢先生流の解釈でとらえたとき、この語が「みがましい」の転訛とは言い難い。
そこで「みがましい」についていささか乱暴ながら勝手な解釈を試みることにした。
「み」は、「みやましい」で福沢先生が解釈したと同様に「おのれ」、自分自身のことである。
では、「ましい」とは何か。私はこのうちの「まし」に注目した。
「まし」は、「増し」ではないか、そう考えてみた。ふだんの会話の中で「こっちのほうがましだ。」といった感じで使う「まし」が「ましい」の「まし」だ。広辞苑等でこの「まし」を引いてみると「増える」という意味のほかに「勝る」、「優る」という意味があった。つまり「みがましい」とは、「み(おのれ)がまし」ということであり、それが「なんでもよくできる」という意味で使われたのではないだろうか。
それがことばの伝搬の過程で「みかましい」、「みたましい」、「みだましい」、「みざましい」と転訛していった。「みやましい」も「みがましい」の分派ということになる。
しかしながら、「下伊那郡方言集(中間報告)」は、「みやましい」をあえて「みがましい」の分派とはせずに「み」「やましい」と語を分解して「うらやましいのやましい(病)」と注釈を加えた。この先人のすぐれた解釈を大事にしたいと思う。
下澤勝井先生は、「伊那谷の方言歳時記」の中で「みやましい」を「最高のほめことば」と評された。ここにも先人のすぐれた解釈が息づいている。
「みやましい」-それは「みがましい」でも「みたましい」でもなく、「みやましい」という独立した語であり、いつまでも光輝く飯田弁の珠玉の語なのである。

ズク

2004-11-15 | 飯田弁語彙の解説と考察
「みやましい」が飯田方言の東の横綱だとすれば、西の横綱は「ずく」だと常々思っている。なぜならば、私たちは、この「ずく」も「みやましい」と同様にいろいろな場面で使い分けてはいるものの、それを共通語で説明するには非常に困難な語と言えるからである。
 実際に方言辞典等にはどのように記述されているか、「日本方言大辞典」(1989年 小学館)を見ることにした。

ずく(尽)
①強い精神力。がまん強く続ける気力。元気。意地。また働く意欲。やる気。 青森県、新潟県、山梨県、長野県、岐阜県、静岡県、熊本県
②骨惜しみせず精を出して働くこと。まめ。 長野県(諏訪、佐久)
③度胸。勇気。 青森県、岩手県、秋田県、山梨県
④力。 長野県(東筑摩)
⑤手工技術。腕。 新潟県
⑥ぬきんでて優秀なこと。 山口県
⑦ものごとをうまく処理する方法。 静岡県
⑧夢中になること。熱中。 徳島県
⑨怠け心。 長野県(諏訪)、奈良県
⑩おくびょう者。また、とりえのない者。 山形県
⑪食いしん坊。 和歌山県
 また、「ずく」の小見出しには、「ずくがない」、「ずくが抜ける」、「ずくがよい」、「ずくが悪い」、「ずくになる」、「ずくを出す」、「ずくをやむ」があげられている。

 飯田弁の「ずく」は、「方言大辞典」の①、②の解釈が通常の私たちの感覚に等しい。この感覚が「ずくがない」、「ずくがよい」、「ずくが悪い」、「ずくをやむ」につながっている。
「ずく」はどうやら長野県全域に息づいているらしく、信濃毎日新聞の連載やFM長野の「方言」のコーナーでしばしばとりあげられている方言である。
 下伊那の隣郡、上伊那の方言をとりあげた「上伊那の方言 ずくなし」(1980年 伊那毎日新聞社)は、「ずく」の語訳を「やる気。根気。」とし、これを「一応与えたが、まだ十全ではないようだ。実行する気力といおうか。」と語訳に一種のためらいを認めている。やはり、この語も一筋縄で解釈することが困難なのであろうか。
 改めて「日本方言大辞典」の記述に戻る。
 ここで私が疑問に思ったことは「ずく」に漢字で「尽」をあてたことである。なぜ「尽」なのか。
 「大辞泉」(1995年 小学館)に次の見解がある。

ずく(尽く)接尾語
①名詞に付いて、その物・事に任せる意、または、その物だけを頼りとして強引に事を選ぶ意を表す。 
②名詞、動詞の連用形などに付いて、数人の者が、互いにその事をしたり、一緒にそういうことを行ったりする意、あるいは、ともにその事で結ばれる関係にある意を表す。
③形容詞、形容動詞の語幹や動詞の連用形などに付いて、もっぱらその状態で満ちているさま、それの最上の状態であることなどの意を表す。
 
 さらに「尽」とは、「①全部出しつくす。すべて費やす。②すべて…しつくす。ことごとく。全部。③つきる。なくなる。きわまる。」とある。(「大辞泉」)

 以上の記述から、なんとなく「ずく」=「尽」の構図がぼんやりと見えてきた。「すべてを出しつくし、骨惜しみをせず働く。やる気があって、したがって根気があるからこそ、すべてを出し切ってきわめる。」-これが「ずく」の本義だとすれば、それゆえに「尽」がふさわしい。
 「ずくなし」には次の記述がある。

  ズクのある人だ-やる気があり、従って根気もあり、精出し、骨惜しみをしない。
  ズクを出す-とかく抜けていき、影をひそめるズクを、も一度出して、やる気になって働く。

 「ずく」=「尽」の疑問はこの一文で払拭された。

…ヤレ

2004-11-12 | 飯田弁語彙の解説と考察
「ヤレ」という語は、基本的には動詞の命令形のあとに続く語である。
 例 「見よヤレ」「行けヤレ」「言えヤレ」
  「貸せよヤレ」「見せよヤレ」
 「買ってくれ(りょ)ヤレ」

 「見せてくれヤレ」とはあまり言わないが、「見してくれ(りょ)ヤレ」という使い方が一般的であるが、「見して」は、文法的には正しくない。(同様に「貸してくれ(りょ)ヤレ」の「貸して」は、文法的には「貸せて」が正しい。)しかしながら、下伊那方言で「…クレ(リョ)ヤレ」は、「…シテ」に続くパターンが多い。
 「貸せよヤレ」「見せよヤレ」は「…(クレ)ヤレ」が「…シテ」に続くパターンを加味すると「貸しよヤレ」「見しよヤレ」となり、これらが転じて「貸ショ」「見ショ」となっていく。
 実際の会話の中で「貸ショ」「見ショ」という使い方をするし、「貸せよヤレ」「見せよヤレ」とは言わずに、「貸ショヤレ」「見ショヤレ」となる場合が多い。
 もともと、この「…ヤレ」が続く動詞の命令形は「命令表現」を強調する「…ヨ」がついたものであったと考えられる。「起きろヤレ」と言わずに「起きよヤレ」(正確には「起きろよヤレ」―これの転訛が「起きよヤレ」)と言うし、前述の「見せよ」「貸せよ」はその一例である。この「…ヨ」が失われた形が現在使われる「行けヤレ」「言えヤレ」などであり、「貸せよ」「見せよ」は、「貸ショ」「見ショ」という形で本来の形である「…ヨ」を残している。(「…クレ(リョ)ヤレ」はその典型的なタイプ)
 したがって、この「…ヤレ」は、単に動詞の命令形に続くわけではなく、その命令表現を強調したものに続くわけで、「見せる」「行く」といった行為を強要するときに使われるということになる。

ヤマカジ

2004-11-12 | 飯田弁語彙の解説と考察
古くは、蛇のことを「ノジ」と呼んだ。
虹を「ニジ」と呼ぶのも、その存在を「七色の大蛇」と見た古代人の精神生活を物語るものだといわれている。
「アオダイショー」を下伊那では「アオロジ」「アオナ」「ナブサ」などと呼称するが、「アオロジ」は、「アオノジ」の訛と見られ、「アオ」(青)「ノジ」(蛇)ということになる。(一説には「アオロジ」は古来は、「アオオロチ」と呼称したという説もある。「オロチ」とは神話に出てくる「ヤマタノオロチ」の「オロチ」であり、これもまた「蛇」を指している。この説でも「アオオロチ」は「アオ」(青)「オロチ」(蛇)ということになる。)
また、下伊那では、鮮赤色の小さな毒蛇を「ヒヤッカジ」と呼ぶ。
共通する部分は「~ジ」であり、いずれも「ノジ」の訛と思われる。
ただし、「アオロジ」同様にその蛇の様をあらわすとすれば、「ヤマカジ」「ヒヤッカジ」ともに説明がつかない。
「ヤマカガシ」が「ヤマカシ」あるいは、「ヤマガシ」と転じ、訛って「ヤマカジ」となったとも思われるが、「~ジ」が「ノジ」の転と考えるほうが、ことばの成り立ちからは適当かもしれない。