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ブログ版「泥鰌の研究室」

 信州飯田周辺の方言(飯田弁)を発信しながら、日本語について考えていきます。

ナメ(滑め)

2004-12-21 | 飯田弁語彙の解説と考察
飯田弁で「ナメ」といえば、道路などに氷が張り、凍結した状態を言う。「あそこの道のまがりかどがナメになっとるで、気をつけなよ」といった感じで使う。
近隣の方言集などをしらべたところ、同様の記載があったものは、岐阜県の岩村町に見られたが、他の資料には見あたらない。

愛知県に常滑市という町がある。「常滑」という語は、万葉の時代から見られる語であり、「川の中で水苔がついて常に滑らかになっている石を指し、多くは「永久」を意味する。

また、登山(山岳)用語で、「ナメ」というと「滑らかな岩の上を薄く水が流れている場所で、きわめて滑りやすい岩盤」を指す。単に「ナメ」あるいは「滑床(ナメトコ)」と言う。この「ナメ」が滝のように傾斜した部分を「滑滝(ナメタキ)」と言う。いずれも現在、登山用語として生きている語である。

古語辞典によると「ナメ」とは、ぬるぬるしているものを指すとされている。

以上のことから解釈すると、「ナメ」とは、ぬるぬるしていて、絶えず水が流れて滑りやすい場所ということになり、「日本方言大辞典」(小学館)でも同様の解釈が記述されている。同書では、飯田弁で言う「ナメ」の記述が採録もれとなっている。(東条操の「全国方言辞典」には、長野下伊那の語として採録されている。)

全国的(特に西日本)には、「絶えず水が流れて滑りやすい場所」をさす「ナメ」が、飯田近辺では、「氷が張り凍結した状態(場所)」で、全国的な傾向の意味とは少し違う点が興味深いところである。

オカイコサマ

2004-11-26 | 飯田弁語彙の解説と考察
飯田・下伊那は、かつて長野県内屈指の養蚕地域でした。
それだけに養蚕をめぐることばは豊富で、蚕を家族の一員どころか、それ以上に大切に扱っていたことをうかがうことができます。
その代表選手と言うべきことばが表題の「オカイコサマ」です。

養蚕が盛んになるにつれて、養蚕農家は養蚕技術員による徹底した技術指導を受けたといいます。その中では、養蚕技術に関する専門用語が使われるようになり、昔ながらのことばが消えていきました。
たとえば、蚕の名称に関することばをとっても、「三齢」、「四齢」、「五齢」、「熟蚕」といった専門用語が主流となり、「フナゴ」(三齢)、「ニワ」(四齢)、「クイノビ」(五齢)、「スガキ」(熟蚕)といったことばが消えていきました。
蚕は脱皮を繰り返しながら、「スガキ」になっていきます。
脱皮をする前になると、蚕は餌の桑の葉を食べなくなります。この状態を「イコ」、「ネル」、「ネテイル」、「ヤスム」、「ヤスンデイル」、「イブリ」、「イル」などといいました。他の蚕が脱皮のために「イコ」に入っても、なかなか「イコ」に入らない蚕も中にはありました。こうした蚕は「オトッコサマ」と呼ばれました。同様のことばに「オトボコ」ということばがあります。こちらは、他の蚕より遅れてふ化した稚蚕のことです。いずれも「オト」ということばが含まれています。これは「弟」(オトウト)、「乙」(オト)であり、二番目以降をさすことばです。稚蚕で使う「ボコ」、これは赤子をさすことばです。遅れてふ化した蚕を人間のように「オトボコ」と呼ぶ、ほほえましいことばだと思います。
三齢を「フナゴ」、四齢を「ニワ」と呼ぶことは先にふれました。これらの蚕が脱皮をするとき、つまり「イコ」にはいる状態になると、「ヤスム」とも呼ぶ状態であることから、「フナヤスミ」(三齢から四齢へ)、「ニワヤスミ」(四齢から五齢へ)ということばになりました。
脱皮を終えた状態を「オヒナル」、「オキル」といい、この状態になった蚕を「イオキ」と呼びました。
給桑作業も蚕の状態に応じて、いろいろな呼び方をしました。先の「イコ」にはいる直前に与える給桑を「トメックワ」といいました。脱皮後の給桑を「チカラ(ッ)クワ」といい、その作業を「クワヅケ」といいました。
「オカイコサマ」に代表されるように、蚕は実に大事にされてきました。先の「ヤスム」、「オキル」にしても、まるで人間のような、ともすると人間以上の扱いです。給桑作業そのものを「クワヲシンゼル」といいました。「シンゼル」とは、神仏に供え物をする場合に使われることばです。これを蚕に対しても使うのです。小さな子供たちは、蚕を「メンメサマ」といいました。蚕ではありませんが、蚕同様に桑を食べ、粗末な繭を作る虫も「オカイコサマ」の親戚とみたのでしょう。こちらは「クワゴサマ」と呼びました。熟蚕、つまり「スガキ」もわざわざ接頭辞の「オ」をつけて「オスガキ」とも言いました。「スガキ」になりいよいよ繭を作る状態になると蚕は「マブシ」と呼ばれるわらを折りたたんだ用具へ入れられます。この蚕は「ヤトイ」といいました。「スガキ」同様に「オヤトイ」とわざわざ丁寧に呼ぶこともありました。
それほどまでに蚕は、人々と共に生きていました。養蚕農家では生活を潤す大事な蚕でした。
しかしながら、生糸価格の暴落、国の蚕糸政策の後退などにより、地域を潤した養蚕は、次第に後退し、そして養蚕農家は減少していきました。
1997年12月には、養蚕農家の利益の擁護を目的に設立された組合製糸「下伊那生糸販売利用農業協同組合 天龍社」が工場を閉鎖し、組合製糸77年の歴史を閉じました。まさにかつての一大産業であった養蚕が、飯田・下伊那地区から消えようとしています。

オチューハン

2004-11-26 | 飯田弁語彙の解説と考察
 飯田・下伊那の方言で、昼食と夕食の間にとる食事を「オチューハン」と言います。時間的には、午後2時半ごろから3時頃に摂るようです。
 食べるものも土地によって、さまざまですが、飯田・下伊那では、「ミソムスビ」、「ヤキムスビ」、「キナコムスビ」、「オヤキ」などがその代表格です。
 下伊那の間食を表すことばは、「オチューハン」がその代表選手ですが、このほかに「オチャハン」「オコジハン」「オチャノコ」などが挙げられます。
山仕事に行く人が持っていく間食は「ニハチ」と言いました。「ニハチ」とはおそらく食事を摂る時間を意識したことばとして考えたいと思います。
「オチューハン」を追いかけて得たさまざまなことばに、間食に対する人々の思いが伝えられているように感じます。
 しかしながら、飽食の時代といわれ、モノが豊富にあふれるようになった現在、間食をしなければ、労働できないというご時世ではなくなりました。私たちの父祖が間食に寄せた思いの数々を伝える「オチューハン」などのことばもやがて消えゆく運命にあるのかもしれません。

オキャク

2004-11-15 | 飯田弁語彙の解説と考察
慶事で他家へ招かれることを「オキャクニヨバレル」といいます。施主側では、「オキャクニヨブ(ヨバル)」といいます。「婚礼のオキャクニヨバレタ」、「建前のオキャクニヨバレタ」などと使います。
「慶事で」とわざわざ断りを入れたのは、「オキャク」に「ヨバレル」のも「ヨブ」のも「慶事」に限られているからです。葬式に行く場合に「葬式のオキャクニヨバレタ」などとはいいません。これらの場合は、「オトムライ(オトムレエ)ニイク」です。法事も同様です。「四十九日のオキャクニヨバレタ」などとはいいません。
したがって、「オキャク」と単に使った場合は、お祝い事を指すと考えています。

「オキャクニヨバレ」て、出される食事(飯田弁では「ゴッツォ」といいます。ごていねいに「オゴッツォ」とも。)を食べることは「オキャクニナル」、「ゴッツォニナル」となります。
ところが、この「ゴッツォ」を食べる行為は、「慶事」に限られていません。弔事であっても、食事をいただいて帰宅すれば「オキャクニナッテキタ」、「ゴッツォニナッテキタ」などといいます。
前述したように「オキャク」ということばは、「慶事」が一般的です。しかしながら、ゴッツォを食べる行為は、慶事であっても弔事であっても「オキャクニナル」ということは、不思議な事象です。この辺に、ことばの持つ不可思議さがあると思います。
ところで、来客の食事などの接待をすることを「オキュージニデル」、「オキュージヲスル」といいます。「オキュージ」をしながら、客に食べ物をすすめるのです。また、客の相手をすることを「オキラムキ(オキラメキ)ヲスル」といいますが、客の相手をしながら、「オキュージ」同様、客に食べ物をすすめます。
客の側からすると、もう十分にごちそうになって、箸が止まります。主人やその家族はさらに客に食べ物をすすめます。これを「オシイヲスル」といいます。「オシイ」をされた客は、やんわりとこれを「モウ、ジュウブン、オキャクニナッタ」とか、「チョウダイシマシタ」と断りを入れます。
少々脱線しますが、食事の後の挨拶は、飯田・下伊那では「イタダキマシタ」とか「チョウダイシマシタ」と使います。この挨拶が、同じ長野県内であっても、北信や東信の方々には違和感があるようです。同様に東京などへ出た下伊那出身者が食事のあと「イタダキマシタ」と言ったら笑われてしまったなどという話を聞きます。共通語では「ゴチソウサマデシタ」なんです。では、飯田弁はどうして「イタダキマシタ」または「チョウダイシマシタ」なんでしょう。私は、本来は「ゴチソウヲイタダキマシタ(チョウダイシマシタ)」であって、そのうち「ゴチソウヲ」が省略され、「イタダキマシタ」、「チョウダイシマシタ」になったんだろうと思います。
今はそんな風景はなくなりましたが、風呂の場合も同様の挨拶でした。かつて、それぞれの家に風呂がなかった時、ご近所の風呂がある家へ「もらい風呂」に行きました。風呂から出ると、決まって「イタダキマシタ」、「チョウダイシマシタ」と挨拶を交わしました。風呂も一種のごちそうだったのでしょう。ほとんどの家庭に風呂ができ、銭湯の数も減りました。銭湯は浴槽も広くのんびりできるので、私は時折銭湯へ行きます。そんな時、銭湯から帰る方が、番台へ向かって「イタダキマシタ」と挨拶するのを聞くと、温もりを感じます。
「ゴッツォ」を「オキャク」になった話に戻ります。
客は、その家を辞去する時、「チョウダイシマシタ。ソレデハ、ゴメンナイショ。」と挨拶をし、帰路に着くのです。中にはずいぶんとお酒などをいただいたので、「ドエレー、オーチョウダイシチマッテ」と言って帰路に着く方もありました。
何かと気ぜわしい現在の社会では、見られなくなった風景かもしれません。
「オキャク」、そして「イタダキマシタ」、「チョウダイシマシタ」ということばには、人が人を思いやる気持ちが込められているような気がします。

オテンコモリ

2004-11-15 | 飯田弁語彙の解説と考察
椀に山盛りに飯を盛った状態を「てんこもり」といいます。
当然、飯田・下伊那でも「てんこもり」が一般的でしょうが、わざわざ「オ」をつけて「オテンコモリ」と表現することがあります。辞書には「てんこもり」は載っていますが、「オテンコモリ」は載っていません。
こうした用例はほかにもあります。
もっともよい、取って置きの品物などは、辞書には「取置」(トットキ)と記述されていますが、飯田弁では「オトットキ」といいます。
このほか、「オツイショウ」(辞書では「追従」)などが挙げられます。
「オ」という接頭語は、どんな場合に用いられるのでしょうか。

 お【御】
①<体言・形容詞・形容動詞に、または動詞連用形に「になる」「なさる」「申す」「遊ばす」等が付いた形にかぶせて>尊敬・丁寧の気持を表す。「-手紙」「-寒いことです」「-静かな-宅ですね」「-話し申し上げる」「-出かけになる」
▽漢語には普通「ご」、または母音で始まる語には「おみ」を使う。
②<口語の動詞連用形にかぶせ、そこで言い切りにする>(やわらかな)命令を表す。「さあ-食べ」
▽「お…なさい」の略。
③<中世以後、主に女の名に冠して>尊敬・親しみの気持ちを添える語。「唐人-吉」 「-富さん」
▽③は「阿」「於」とも書いた。なお「お」は、「おほみ(大 御)→おほん→おん→お」と変化してできた語  (「岩波国語辞典(第五版)」)

飯田弁の「オテンコモリ」「オトットキ」「オツイショウ」は、以上の引用から①の用法です。つまり、「餅」を「お餅」、「菓子」を「お菓子」、「食事」を「お食事」などと用いる場合と同じと言えます。
飯田弁にみられる「オアガリテ」「オヨリテ」「オツカイテ」はどうでしょうか。この類は、一見、「オテンコモリ」等と同様、尊敬・丁寧の気持ちを表すと思いがちですが、先に引用した辞書の説明から、②の用法、すなわち、やわらかな命令を表すというのが正しいと考えます。
辞書の説明③に該当する飯田弁はどうか、と考えてみました。辞書の説明で付けられている< >の部分には、主として女の名に冠してとありますが、それはそれとして、飯田弁の人称代名詞にみられる「オトーマ」「オジーマ」の類の「オ」は、尊敬・親しみの気持ちを添える「オ」だと思います。辞書の説明③に該当する用法になると思います。
そこで、先に引用した辞書の説明に加え、飯田弁にみられる接頭辞「オ」について改めて整理をしました。

 ① 人に何かを勧めるときなどは「オ~テ」という表現をするもの(やわらかな命令を表す)
「オアガリテ」「オヨリテ」「オツカイテ」など
 ② 物称等、本来は「オ」を付けるとは考えられないもの(尊敬・丁寧の気持ちを表す)
「オテンコモリ」「オトットキ」「オツイショウ」など
 ③ 人称代名詞に多くは用いられ、尊敬・親しみの気持ちを表すもの
「オトーマ」「オジーマ」など

「オ」が付けられたこれらのことばは、音感的には非常に「聞こえ」がいいと思います。飯田弁が、なんとなく丸みがあって、一種のやさしさ、ほのぼのさがあると言われている一つの理由がここにありそうです。