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ブログ版「泥鰌の研究室」

 信州飯田周辺の方言(飯田弁)を発信しながら、日本語について考えていきます。

「方言」「標準語」「共通語」とは

2004-11-17 | 方言(飯田弁)一般
「方言」に対して、「標準語」という語が存在する。飯田・下伊那の「方言書」、町村誌(史)の記述、各種研究論考にもしばしば登場する語である。私は、かねがねこの語の用い方について、疑問を覚えてきた。「標準語」ではなく、「共通語」ではないのかと。
 見坊豪紀『国語学辞典』(1955)によると、「共通語」とは、「一国のどこででも、共通に意思を交換することのできる言語」とされ、国語学界として定着した定義だと考えられている。一方、標準語について、同辞典は、「共通語を洗練し、一定の基準で統制した、理想的な言語」と定義する。

 『標準語と方言』(1977文化庁)に収録された柴田武の論考によると、1949年以前には、共通語と標準語をこのように区別して使う習慣はなかったという。1949年以前には、標準語という用語しかなく、その定義は、神保格『標準語研究』(1941)による「東京の山の手の教養ある人々の言語」とされていたという。これに対して、石黒魯平は、著書『標準語』(1950)で標準語とは、「東京語を土台にして、能率的に、合理的に、情味的に、知性的に、倫理的に、それを高いものにして使おうと日本民族各員が追求する理想的言語体系」とし、神保と意見が対峙していたという。
 これら対峙する定義は別として、標準語ということばの裏には、ことばによって国家の統一をはかるという時の政府の意思が存在していた。すなわち1902年に政府によって作られた国語調査委員会の調査方針のひとつに掲げられた「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」であり、『長野県下伊那郡方言調査書』(1903)もこの視点から調査が行われたに違いない。
 そこで、「方言」とは何かを改めて問うてみたい。共通語が「一国のどこででも、共通に意思を交換することのできる言語」とするならば、方言は、地域に制約された言語であり、ある地域にしか通じない言語ということになる。一方で、1902年の国語調査委員会の調査方針、「ある地域にしか通じない言語(方言)を調査して標準語を選定する」ということは、国家がことばを作るということであり、標準語は、人工的なことばととらえることができる。先に引用した神保と石黒の「標準語」の解釈からすれば、神保のいう標準語は「方言」であり、石黒の定義は人工的なことば、つまりまさに「標準語」をさしている。
 しかしながら、私が抱く疑問は、国語学界の「標準語」、「共通語」という解釈に関係なく、「標準」、「共通」という語感が与えるイメージからくるものである。そもそも、ことばはすべて人工的なものであり、標準語と呼ばれるものも共通語と呼ばれるものも、そして方言と呼ばれるものも人工的なものである。(もっとも先に引用した石黒の定義は、時の為政者が言語を統制するための国家的な人工化であり、方言や共通語が同じ人工的なものであってもその成立過程に違いがあること、根本的には統制のための言語である標準語とそうでない共通語と方言の違いを認めた上での「人工化」という使い分けであることを承知ねがいたい。)
 そんな意識の中で思うことは、方言こそ、その言語が使われる地域の中ではもっともポピュラーな言語、すなわち「標準語」(いくぶん、矛盾を感ずる方もあるかと思うが、ここでいう「標準」には統制的な意味合いは存在しない。)なのではないのか、そうだとするなら、方言集などでしばしば用いる解釈部分は、共通語というべきではないのかという語感からくるこだわりである。
 具体的には、私は、方言調査で話者と向かい合ったとき、話者には決して方言調査であることを伝えていない。つまり、話者が語ろうとする多くの言語は、まぎれもない方言であって、その中から方言語彙を収集することは十分に可能だということである。もし、そこで、方言調査と大見得でも切ってしまったら、話者は構えてしまい、無理をしてでも「共通語」で語ろうとする。そのため、私は、調査に出向いたときは、あえて方言調査とはいわずに昔話をふだんの話し方で語ってもらうことにしている。話者にとって、ふだんのことばこそ、彼らにとっての「標準語」なのである。国語的な定義にこだわる必要はないのである。

飯田・下伊那方言研究小史

2004-11-17 | 方言(飯田弁)一般
『長野県下伊那郡方言調査書』(1903)という報告書がある。郡役所の指示を受けた信濃教育会下伊那部会が方言調査委員会を組織し刊行したもので、下伊那の方言が体系的にまとめられた最初のものである。この内容の一部を小林義暁が、雑誌「風俗畫報」に「信州南部の方言」(1905~10)と題して7回にわたり連載し「飯田弁」を世の中へ紹介した。
 その後、下伊那の方言を全国に発信したのは、井上福實だった。井上は、雑誌「信濃教育」、「方言」、「旅と伝説」、「山村」へしばしば論考を投稿し、中でも「信濃教育」545号に投稿した「下伊那に於ける青大将の方言」(1932)は、時の民俗学の大御所である柳田國男の目にとまり、井上はその後柳田に師事することとなる。そのことは、『信州下伊那郡方言集(私家版)』(1936)の刊行につながっていくのであるが、「方言」誌7巻8号に投稿した「下伊那郡方言調査書語彙抄」(1937)を最後に井上の発信は途絶える。

戦後、下伊那の方言研究は、向山雅重、守屋新助らが「信濃教育」へ論考を投稿するなど細々と行われてきた。そのような状況下、下伊那教育会は、守屋らを調査委員にし、教育会組織をフル活用し、『下伊那郡方言集(中間報告)』 (1953)をまとめた。この方言集は、過去の『長野県下伊那郡方言調査書』、『信州下伊那郡方言集』に比し、登載語彙の数においては、群を抜いており、のちに在京飯田高校同窓会高12・22回実行委員会がまとめる『飯田・下伊那の方言』(1997)の底本となった。
 東條操の『全国方言辞典』(1951)、『標準語引分類方言辞典』(1954)、小学館『日本国語大辞典』(徳川宗賢監修)(1972~76)、『日本方言大辞典』(徳川監修)(1989)には、下伊那の方言も数多く収められているが、その出典のほとんどが、前述の『長野県下伊那郡方言調査書』、『信州下伊那郡方言集』、『下伊那郡方言集(中間報告)』であり、今日でもこの三書が下伊那方言研究の中心となっている。
 戦後、相次いで刊行された町村誌(史)にも方言は、掲載された。しかし、多くは語彙の収録にとどまっていた。
 語彙を収録し、注釈等を加えたのは、馬瀬良雄と福沢武一であった。馬瀬は、民俗学と方言学の共同研究の必要性を「民俗方言地理学の提唱とその実践」(1975)で提起し、馬瀬が執筆を担当した『南信州上村遠山谷の民俗』(1977)、『南信州天龍村大河内の民俗』(1973)で、言語地理学的な観点での研究の方向を示した。一方の福沢は、言語学的な観点から下伊那方言を見つめた。福沢は、「信濃」、「伊那路」、「伊那」へ幾多の論考を寄せ、それらの論考や『上伊那方言ずくなし』(1980上巻、1983下巻)、『しなの方言考』(1982上巻、1983下巻)など自身の著書の中で、語源の解明を追求していった。

東条 操の「方言区画論」

2004-11-16 | 方言(飯田弁)一般
方言区画を扱う方言学の一分野で、1927年(昭和2)東条操が提唱した。東条によれば、日本全域は内地方言と沖縄方言に分けられ、内地方言はさらに東部方言・西部方言・九州方言に分けられ、東部方言はさらに北海道方言・東北方言・関東方言に分けられるとする。

方言区画論は、「境界線」をひきながら全国を大から小へ分けて行く方法で、『日本方言学』(1953年 東条操)には、次のような区画が論述されている。

東部方言
 北海道方言
 東北方言(新潟県北部を含む)
 関東方言
 東海東山方言(新潟県・長野・岐阜・山梨・静岡・愛知)
 北陸方言(富山・石川・福井県北部)
 八丈島方言
西部方言
 近畿方言(福井県南部を含む)
 中国方言(出雲・伯耆以外の中国5県および、兵庫・京都の日本海沿岸)
 雲伯方言
 四国方言
 九州方言
 肥筑方言(長崎・佐賀・福岡・熊本)
 豊日方言(大分、宮崎、福岡県行橋以南)
 薩隅方言(鹿児島および宮崎県都城周辺)
琉球方言
 奄美方言
 沖縄方言
 先島方言

東条は、内地方言を大きく「東国方言」と「西国方言」に分け、その境界線が信州の上伊那南部と下伊那北部にあるとした。(「信濃教育」所収)
この境界線の場所を特定したのが福沢武一で、福沢によると、その場所は上伊那南部の大田切川付近だという。

柳田國男の「方言周圏論」

2004-11-16 | 方言(飯田弁)一般
柳田國男は、1930年(昭和5)に『蝸牛考』(かぎゅうこう)を発表し,そのなかで全国に豊富な蝸牛(かたつむり)の方言を整理し,デデムシ系・マイマイツブロ系・カタツムリ系・ツブリ系・ナメクジ系・ミナ系の6系統と,さらに新しい系統とみなされるツノダシ系があることをあげ,その分布状態を示した。その分析のなかから,蝸牛に対する新語が発生すると,元来それをさしていた語が周囲に追いやられる過程が繰り返され,古語の層が新語発生地の周辺に輪状に形成されていき,外周にある語の層ほど発生の古い語であるとの仮説を発表した。これが「方言周圏論」であった。

「方言周圏論」は、2つの点で誤解された。すべての方言語彙が「方言周圏論」で説明できると思われたことと、周圏的な伝播の中心はいつも京都であると考えられたことの2点である。

「カタツムリ」を表わす方言が五重の周圏的分布を示すことは、国立国語研究所が1957年から1964年にかけて調査しまとめた『日本言語地図』の第五巻の「かたつむり」の図で証明されている。また、柳田は自らが調査した32語の方言のうち「カタツムリ」しか分布図を示すことができなかったが、『日本言語地図』全六巻に収められた285語の方言語彙のうち周圏的分布を示すものは「かたつむり」を含めて76語ある。こうしたことから、現在では「方言周圏論」は方言分布を説明するいくつかの原則の中の一つとして有効であると考えられている。

小学館で刊行した、標準語引きの方言大辞典には、次のような記述があるので、参考までに引用する。

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方言周圏論
 柳田國男は著者『蝸牛考』(1930)の中で、通信調査によって全国から集めた「かたつむり」の方言を地図に描き、京都のデデムシを中心として、マイマイ、カタツムリ、ツブリ、ナメクジの順に各種の語形が渦巻状に分布していることを発見した。そして、この分布は京都を中心にナメクジから順に地方に向かって言葉が伝播していったことを意味するという「方言周圏論」を唱え、当時の方言研究者に衝撃を与えた。
 『日本言語地図』を見ると、きわめて多くの地図に周圏分布(ABA分布ともいう)が認められている。しかし、共通の発想や意味のずれなどによって、各地に同一の語形が偶然に生まれることがあるなど、周圏分布が認められても、周圏論が適用できないケースもある。

方言と伝播速度
 歴史の経過の中で、勢力圏を拡大する話があり、一方、伝来の領域を縮小せざるをえなかった語があった。
 では、その歴史の深さは、どれぐらいであろうか。また、たとえば中央で新しく誕生した語は、どれほどの速度で周囲に浸透していくのであろうか。
 文献でその語の発生期がわかれば(たとえば800年前)、領域の広さ(たとえば都から400キロ)との関係で、平均伝播速度(この例なら年速0.5キロ)が計算できる。語により方向により(東西南北)速度はいろいろながら、平均年速0.93キロなる試算がある。そうであれば、この伝播速度とその領域の広さから、逆に文献からは確かめえないある語の発生年代を逆算できると考えることは、そう不自然ではない。
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方言分布の成立は、極めて複雑で、一つの仮説だけでは説明することは困難である。確かに「日本言語地図」に見られるようにきわめて多くの周圏分布をみることはできるが、ある地域にしかない語が存在する事実があるということは、成立の過程において、孤立に変化することや各地で独立に生まれることもある。つまり、方言周圏論は、必ずしも絶対ではなく、方言分布の解釈の仮説が数あるなかの一つにすぎない。

オカタシケ

2004-11-12 | 方言(飯田弁)一般
山本和英さんのサイト「ふるさとの方言」の「人気のページ100選」にこのブログのメインサイトである「泥鰌の研究室」が加えられていた。
多くの人たちがアクセスしてくださったおかげである。
飯田弁で感謝をあらわすことばがこの記事のタイトル「おかたしけ」だ。
方言の研究者なんてとても言えない一素人のサイトであるが、サイトを訪問してくださった方々の支えがあってこそ、このような形になったと思う。
まさに訪問された皆さまに「おかたしけ」のことばを捧げなければなるまい。
もっと精進してふるさとのことばを伝えていきたいと思う。
ちなみに山本さんは、中越地震の影響で、一時期サーバーがダウンして大変な状況であったと氏のサイトの中で記述されている。また、いつ余震があってもおかしくない状態の中で、今なお、多くの方言サイトをリンクされて、情報を発信されている。氏のご尽力に改めて謝意を申し上げたい。
山本さんの「ふるさとの方言」サイトは以下のアドレスである。

http://nlp.nagaokaut.ac.jp/hougen/