土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

「安定と安らぎ」お返事

2009-10-04 06:41:13 | 日記
No.81「安定と安らぎ」に友人からコメントが届きました。
お返事を先程まで書いてました。途中で予想がつきました。

『コメントの文字数が多すぎます(549文字分)』
549文字;
なので、すみません。エントリーに上げます。


『どちらも……』

そうですね。生存の危機や明日の糧に窮している様な時には、まず安全や安心が欲しいですからね。(当然です)
ただ「安定」とは、それそのものに絶対の価値は無くて、「停滞」という意味も含まれる。

『低め安定』という言葉が有る様に、不当でも劣悪な状況でも、それで何かしらの均衡が取れている場合(例えば共依存)なら、それも「安定」と呼ばれる。
だから『波風立てるな』『規律(慣例)を乱すな』と既得権益者は唱える訳で。企業と労働者の関係も男女のポジションも、一見正当に見える論理(概念・慣習)で古きに縛られる。
そこに甘んじる(妥協する)か、心の赴くままに進む(進められる)かは、Lilithさんがおっしゃる様に、その局面や要素(環境・家族)によって変わらざるを得ない。そこが外界(社会)と個人の関わりなのだけれど。

澱んだ状態で足元も見えない、閉塞感に覆われてる状況では。
まず自分は何を怖れているのか、何を欲しているのかを、覚悟を持って見つめないと(見極めないと)、システムや環境が壊れた際に対応、選択出来なくなる。(責任を転嫁してしまう)


ここでは「共有線」という(密な)人間関係を軸に書いたのですが、大きな括りとしての意味も持たせました。
片方だけが搾取される関係は明らかにおかしい。
「支配の構造」が「永遠のテーマ」にならない様にと思う(願う)訳です。

政権交代で雇用や保障が改善されると良いのですが。
個人は、まず身の回りからという事で。

例えば、一人で生きるか家族を新たにかとの選択に於いて、互いの意識の違いやズレが有る場合には踏み込めない、という事も「安定と安らぎ」で。
私の場合、一方的な、形だけの安定では安らげないし(破綻するのが目に見える)、それならば一人の方が好い(不都合は無い)と考える。

生活面(金銭的な事)の安定は保証されてる方が好いに決まってますが。それは一人だから二人だからで、変わる訳では無い。誰も明日の事は解らないし。
(仕事・収入の安定は皆、望むのは当たり前です)

どちらかを選べ(片方を否定)では無く、いつも一定であれでも無く。

言いたい事は「自分の本質(喜び)は何であるかを確認しよう」です。
それが「選ぶ」指針になると思うからです。


それぞれが、望んでる事を助け合えるか、共有(パートナーと)出来るか、偏らないかで。
道を作って行けるか行けないか、が見えるのではないでしょうか。



P.S. 夜中(もう朝だ;)に書いてるから、噛み合ってなかったらゴメンネ。


追記(19:20)
人の「自由意思(意志)」は、他者の都合で書き換えられてはいけないものです。
そういう人間(他者)や、その人間に苦しめられる人を何人か見て来た。また経験したので。書きました。


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