活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

古楽器のレプリカも並んでいました

2007-01-14 13:13:26 | Weblog
 さて、この河浦で印刷されたキリシタン版、天草本は現存している完本だけで12冊ありますが、そのレプリカが印刷機の近くのガラスケースに並べられています。
 もちろん、復刻本ではなく、体裁見本の形式をとっています。

 天草本の造本は、国字本と呼ばれているひらがな本は袋とじの和装本、欧字本は洋装本になっています。用紙はほとんどが和紙です。
 しかし、400年前、向こうで印刷技術を学んで来たとはいえ、欧字と国字、しかも、ルビまで金属活字を鋳造したとは驚きです。また、シワになりやすく、印刷しにくい和紙に印刷をしております。それも少部数ではありません。日本人キリシタン用は初版1500部も刷られたものがありますから、たいへんな印刷作業だったはずです。

 展示にはいろいろなものがありますが、興味深いのは西洋古楽器のレプリカです。少年使節たちはセミナリヨでオルガン演奏を習っていましたから、ポルトガルのエーヴォラ大聖堂でパイプオルガンを弾いてやんやの喝采を博した有名なエピソードがあります。帰国後、秀吉の前では、ラベキーニャ(ヴァイオリンの原型)クラヴォ(チェンバロ)アルパ(ハープ)、ラウド(ハープ)で四重奏を演奏しています。ここに、それらの古楽器が陳列されてあるのもうれしいことでした。
 前回お訪ねしたとき、河浦の有志の方が、これらの古楽器の演奏会を開くことがあると聞き、実際に目の前でリュートの音色を聞かせてもらうことができました。

 そのほか、少年使節がローマ教皇にいただいた洋服のレプリカ、南蛮船の模型、測天儀などもありました。残念なのは、残っていないのだから仕方がありませんが、レプリカ館であることです。
 もし、キリシタン弾圧がなくて、天草の河内浦と南蛮文化との交流の品が現存していたらなと考えてしまうのでした。

 
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コレジヨ館とグーテンベルク式印刷機

2007-01-14 12:18:15 | Weblog
ビデオを見終わったらいよいよ、1階の展示ブースへ。
 あっ、忘れていました。コレジヨ館の正式名称は「市立天草コレジヨ館」で、入館料は210円、月曜日は休館。交通アクセスとしては本渡のバスセンターから産交バスの牛深行きで河浦病院前下車。
小1時間もかかるのがおいやなら、レンタカーという手もあります。

 建物は図書館と共有ですから、図書館入り口をやり過ごして展示スペースにります。まず目をひくのが、キリシタン版を印刷したグーテンベルク式の活版印刷機です。このレプリカは、ドイツのマインツにあるグーテンベルク博物館の協力を得て、オッフェンバッハの工場で入念に復元製作された自慢の展示品です。
 私は、グーテンベルク博物館、加津佐図書館、マカオ博物館、あるいは「印刷展」の会場によく展示される日本印刷新聞所蔵のグーテンベルク印刷機とレプリカの印刷機を見て来ましたが、ここの印刷機はマカオのものといちばん近いと思いました。
 もちろん、実際に印刷もできますし、かなり、綿密に調査して設計されていますから「なるほど」と目をみはること請け合いです。ただ、私の勘では、400年前の実物はもっと小型で、武骨だった気がします。

 印刷機の展示されているいっぽうの壁には、ラテラーノ大聖堂で行われたシスト五世の戴冠式に参加する天正少年使節の行列の絵のレプリカが掲げてありました。
1585年5月5日のヴァチカンの情景が400年後の河浦に晴れがましくよみがえっている。これぞ、まさしくルネッサンス時代の南蛮文化とふれあった町の誇りを示すものかもしれません。


 
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天草本の印刷と河浦

2007-01-13 13:27:57 | Weblog
河浦町はついこの前までは熊本県天草郡河浦町でした。それが、いまは、天草市。
別に、市になったからといって町のただずまいが一変するわけではありません。
インターネットで検索すると、羊角湾を望む天草下島の気候温暖の町と出てきますが、たしかに足を踏み入れると、川が流れ、山が見え、花の咲き、海につながるく、いかにも穏やかな日本的な風景に包まれる町です。
 しかし、近くの崎津や大江や牛深を訪ねる観光客のなかに、今から400年前に、ここに神父を養成するコレジヨやノヴィシヤードがあり、その構内でキリシタン版を活版で印刷する印刷所があったことに興味を示す人は少ないでしょう。

 ときは1592年(文禄元)、当時は河内浦と呼ばれていたこの地に、島原の加津佐から印刷所が移転してきました。秀吉の追及を逃れるのには、天草の辺鄙さとキリシタン大名小西行長配下の天草久種の領地が選ばれたのに違いありません。

 さて、河浦町ではまっさきにコレジヨ館を訪ねます。なぜなら、ここでタップリとキリシタン版印刷の全容に触れることができるからです。
 まず、2階で『海からの声』という20分ほどのビデオを見せてもらいます。もちろん、天正少年使節とキリシタン版と河浦とのかかわりがわかりやすくダイナミックに展開します。
 それが終わると、1階の展示ホールの見学です。楽しみです。
ここで、ことわっておきますが、コレジヨのことは、「学林」と呼ばれ、土地の人は「天草学林」といい、1592年から1597年まで6年間にここで印刷されたキリシタン版を「天草本」と呼んでいます。

























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苓北の姫屋敷で何が?

2007-01-12 18:47:22 | Weblog
 姫屋敷は秘め屋敷、おそらく、キリシタンが世をはばからねばならなくなってから、ここで役人の目を逃れて、ひそかに、教会の祭壇を飾る絵やマリア様の画像を入れたお札のようなものが作られていたのではないでしょうか。

 志岐の画学舎で生徒たちに水彩や油絵や銅版画の技法を教えたのは1581年に来日したイタリア人の修道士、ジョアン・ニコラオだったと、名前まで分かっています。彼の指導がうまかったせいか、やがて、ローマから送られ来た絵と区別がつかないくらいの技量を習得した生徒もでるようになったと、当時の宣教師が舌をまいております。

 さて、現在の苓北町ですが、まず、役場の立派さは周辺町村の比ではありません。苓北町には発電所があって財政面が豊かのようで、私たちは合併は望みませんというのがタクシーの運転手さんの弁でした。
 この町には志岐城址と富岡城址とがあります。また、フェリーでのアクセスなら
長崎の茂木から富岡港まで70分、口之津からなら30分のふたつの方法があります。
いずれにしても、南蛮船が志岐に入ったころ、志岐の港が天草きっての良港だったようです。「志岐の港はナウ船やガレラ船にとって風の害を受けないですむし、水深も適当だ」とローマに報告されています。
 いよいよ、苓北をあとにして、加津佐についでキリシタン版の印刷基地、河浦に向かうことにしよう。





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