活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

原マルチノと活版印刷

2007-01-27 11:01:45 | Weblog
 「有田焼なら知っているが、波佐見焼は知らない」とおっしゃる人がいらっしゃるかもしれません。
 私も原マルチののふるさと波佐見を訪ねるまでは同類でした。
もっとも、波佐見焼がインドネシアなど東南アジアに盛んに輸出されるようになったのは江戸時代ですから、マルチノが生まれたころの波佐見は、大村領で人々は山と田畑にはりついて暮らす山村だったでありましょう。

 マルチノは武家の出で、原 中務(なかつかさ)の子とされていますが、出自は
いまひとつ、はっきりしていません。
 
私は彼が、使節四人のなかでは、いちばん、活版印刷と近かったと思います。
 なぜなら、使節たちの帰国途中、マルチのがインドのゴアでラテン語で、師、ヴァリニャーノに感謝の演説をし、それをコンスタンチノ・ドラードが16ページの印刷物に仕立てました。
 もし、それが、今から420年前の「日本人による最初の活版印刷物」ならば、
マルチノは、「日本で最初に自分の著作が活版印刷物」になった男といえます。
 おそらく、ドラードはマルチノの生原稿を見ながら、リスボンで積み込んだ欧文
活字から文選作業をしたはずです。

 マルチノとドラードが額を寄せ合って、活字を用意している光景がめに浮かびますね。
 それだけではありません、1614年(慶長19)ドラードとともに、マカオへ追放されてからも、二人で出版物の制作に取り組みましたし、天草でも長崎でもキリシタン版の編集にいちばん手を貸したのがマルチノだったはずです。
 
 マルチノの像は町のほぼ、中央、町役場のそばにありました。波佐見はJRの有田駅からタクシーで15分ほどです。




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