河浦町はついこの前までは熊本県天草郡河浦町でした。それが、いまは、天草市。
別に、市になったからといって町のただずまいが一変するわけではありません。
インターネットで検索すると、羊角湾を望む天草下島の気候温暖の町と出てきますが、たしかに足を踏み入れると、川が流れ、山が見え、花の咲き、海につながるく、いかにも穏やかな日本的な風景に包まれる町です。
しかし、近くの崎津や大江や牛深を訪ねる観光客のなかに、今から400年前に、ここに神父を養成するコレジヨやノヴィシヤードがあり、その構内でキリシタン版を活版で印刷する印刷所があったことに興味を示す人は少ないでしょう。
ときは1592年(文禄元)、当時は河内浦と呼ばれていたこの地に、島原の加津佐から印刷所が移転してきました。秀吉の追及を逃れるのには、天草の辺鄙さとキリシタン大名小西行長配下の天草久種の領地が選ばれたのに違いありません。
さて、河浦町ではまっさきにコレジヨ館を訪ねます。なぜなら、ここでタップリとキリシタン版印刷の全容に触れることができるからです。
まず、2階で『海からの声』という20分ほどのビデオを見せてもらいます。もちろん、天正少年使節とキリシタン版と河浦とのかかわりがわかりやすくダイナミックに展開します。
それが終わると、1階の展示ホールの見学です。楽しみです。
ここで、ことわっておきますが、コレジヨのことは、「学林」と呼ばれ、土地の人は「天草学林」といい、1592年から1597年まで6年間にここで印刷されたキリシタン版を「天草本」と呼んでいます。
別に、市になったからといって町のただずまいが一変するわけではありません。
インターネットで検索すると、羊角湾を望む天草下島の気候温暖の町と出てきますが、たしかに足を踏み入れると、川が流れ、山が見え、花の咲き、海につながるく、いかにも穏やかな日本的な風景に包まれる町です。
しかし、近くの崎津や大江や牛深を訪ねる観光客のなかに、今から400年前に、ここに神父を養成するコレジヨやノヴィシヤードがあり、その構内でキリシタン版を活版で印刷する印刷所があったことに興味を示す人は少ないでしょう。
ときは1592年(文禄元)、当時は河内浦と呼ばれていたこの地に、島原の加津佐から印刷所が移転してきました。秀吉の追及を逃れるのには、天草の辺鄙さとキリシタン大名小西行長配下の天草久種の領地が選ばれたのに違いありません。
さて、河浦町ではまっさきにコレジヨ館を訪ねます。なぜなら、ここでタップリとキリシタン版印刷の全容に触れることができるからです。
まず、2階で『海からの声』という20分ほどのビデオを見せてもらいます。もちろん、天正少年使節とキリシタン版と河浦とのかかわりがわかりやすくダイナミックに展開します。
それが終わると、1階の展示ホールの見学です。楽しみです。
ここで、ことわっておきますが、コレジヨのことは、「学林」と呼ばれ、土地の人は「天草学林」といい、1592年から1597年まで6年間にここで印刷されたキリシタン版を「天草本」と呼んでいます。