活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

寄り道も楽しい

2007-01-16 13:57:40 | Weblog
 宇宙の営みからみると、400年は一瞬かもしれません。しかし、私の活版印刷紀行では、口惜しいほど、あらゆるものの形を変え、痕跡を消し去っています。
 河浦のコレジヨ跡が確定できないのももどかしい1例です。
しかし、たとえば、こんな考え方はいかがでしょう。片岡弥吉先生はコレジヨがあった河内浦、一町田あたりまで、海水が入り込んでいたとも、崎津教会の主任神父が、「一町田川の曲流するあたりにキリシタン屋敷があった」と1930年代に記しているとも、著書の中で述べておられます。

 前にも書いたかもしれませんが、私は、はじめて河浦を訪ねたときに、その遠さに、加津佐から河浦へ印刷所の引越し手段はどうしたのだろうと、考え込みました。
 しかし、近くの崎津教会を訪ねたときに、「海上交通を使ったのでは」と思い、
さらに、思いをめぐらせば、加津佐から海伝いに来て、そこから一町田川をさかのぼったのではないかとヒラメキいた次第です。私の河浦説賛成の理由。

 崎津教会といえば、いまは、隠れキリシタンの話や建築美によって観光先になっていますが、1569年といいますから、少年使節たちが生まれたころに、アルメイダ神父によって建てられ、早くから天草の信仰の中心になって来た歴史があります。
 河浦を訪ねるときに、この崎津の教会やお隣の大江天主堂に寄り道されることを薦めます。あるいは、健脚の持ち主だったら崎津教会のところから、山の上のチァペルの鐘展望台まで登って行って、天草灘から東シナ会海につづく眺望に南蛮船を重ねられることもよろしいかと思います。



 
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天草の印刷所はここにあった

2007-01-16 12:54:18 | Weblog
 コレジヨ館に別れを告げて、いよいよ、天草本の印刷所があったであろう場所の探索に移らねばなりません。
 前の加津佐の天辺の丘では、思わずなにもモニュメントがないことを悔しがりましたが、、ここ、河浦では、ありがたいことにコレジヨ跡が史跡になっています。
  目標は何年か前に訪ねたときは河浦中学校だったのですが、こんどは町の庁舎です。庁舎の横手といいますか、回り込んだところに葛河内川の堤防があります。
 
 ヨッコラショとその堤防にのぼると、サクラ並木の道で、川っぷちはツツジの植え込みが続いていて、「ふれあい橋」という小さな橋がかけられていました。
 ちょうどツツジの満開で川べりが赤く染まって、葉桜のサクラと絶妙なプロムナードの雰囲気をかもしだしておりました。
 
 川に沿って歩いていくと、その葛河内川が一町田川に合流します。
 そこに、コレジヨ跡のモニュメントが作られていました。ベンチが置いてあり、
ゆるやかなカーブを持つ石壁がありますが、その壁面にヴァリニャーノの肖像を真ん中に、右に少年使節、左に印刷所の状景がポルトガルのアズレージョ(青のタイル画)で表現されていました。
 ベンチに腰をかけて、「そうか、あの町役場のあたりにコレジヨの校舎や教会があって、この辺に印刷所があったのか」と、400年前を夢想するひとときは、悪くないものです。
 
 ただ、ここでも蛇足が必要です。コレジヨが河内浦ではなく、本渡城のあったいまの本渡だという人もいることをです。
 
 
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