活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

嵯峨本工房は工程別だった

2011-04-11 09:56:00 | 活版印刷のふるさと紀行
洛北、鷹ヶ峯の工芸村で、雲母(きら)を散らした料紙づくりを目にして、「この紙に
筆写文字と変わらない印刷ををして、公家衆や天皇に贈ったらさぞ喜ばれるだろう」、「題材はなにがよいだろう、伴天連本に平家物語があると聞いた、その向こうをはって「伊勢物語」はどうだろう、源氏物語もいけるかも』 光悦の嵯峨本づくりの着想はこんなふうだったのかも知れませんね。

 それならば工房はどんなだったでしょう。
 私は総合工房ではなくて、ある程度、工程別にわかれていたと想像します。木活字になる木材を乾燥させる材料置き場の隣りに木を切る部門の工房があったでしょうし、活字を彫る工房と実際に印刷する工房は別にあったと考えます。
 それぞれに独自のノウハウがありますから、職人たちは自分の仕事ぶりをなるべく見られないようにしていたに違いありません。

 光悦はおそらくデザイン本部のような機能をもつ工房にいたはずです。
 そこが嵯峨本の企画本部で、彼がここで活字の仕上がりをチェックしたり、本文用紙の料紙のカラーぎめをしていたのではないでしょうか。
 嵯峨本でいちばん苦労したのは活字のおおもと、文字の版下づくりでした。とくに2字とか3字分が一体になった連続文字活字と1字分の単体活字が組版のときピタッと合わなければなりません。拡大・縮小率の割り出し機器なんかありません。せいぜい、点眼鏡で細部を見るのが精いっぱいの時代ですから。光悦が自身で版下文字を書いたという説がありますが、はたしてどうでしょうか。



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