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活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

KEN MIKIの世界

2015-03-12 16:10:39 | 活版印刷のふるさと紀行

 

 ギンザ・グラフィック・ギャラリー3月企画展はKEN MIKI三木 健さん登場。タイトルはAPPLE+で”学び方のデザイン「りんご」と日常の仕事というサブタイトルがついています。

 講釈はさておいて、まず会場をご覧あれといいたい私です。なんとなれば、齢29歳、342回の企画展開催というGGGにあってこれほど凝った会場演出を見た記憶がないからです。クリーンな壁面に計算尽くした作品掲出、見やすい卓上展示もさることながら1F会場から地階会場に降りろ楓材の階段ステップにまでAPPLEのロゴが踊っていやが上にも雰囲気を醸し出しているではありませんか。オープニングの席上では学芸員の女性が真紅でふっくらのアップルルックでおでまし、ワインのおつまみにはアップルパイやプディングという演出。

 KEN MIKIさんの大学での授業コンセプトは誰でも知っている「りんご」を通してデザインの楽しさ、奥深さを体験することと聞きましたが、まさしくGGGの会場いっぱいにそのりんごのコンセプトが具現化された作品があふれて、いまにも踊り出しそうにしていました。会期は3月末までです。

 

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大村純忠の長崎寄進状

2015-03-02 12:11:15 | 活版印刷のふるさと紀行

 

 これは1580(天正8)年、肥前のキリシタン大名大村純忠ドン・バルトロメオが長崎と茂木をイエズス会に譲渡することを息子の喜前ドン・サンチョと連署でしたためた寄進状です。

 その背景になにがあったか、先週、朝日カルチュアセンターで五野井隆史先生の「大村純忠」を受講しましたが、いちばん大きな理由としては、自分の所領のままにしておくと、天敵、龍造寺隆信に乗っ取られかねないので、安全策としての寄進が第一の理由、第二は当時、有馬の領主になる寸前の有馬鎮純、のちの晴信とヴァリニャーノとの親交ぶりから南蛮船が政情不安を抱える長崎よりも口之津を入港地に固定するおそれがあるから先手を打っての寄進、この二つを大きな理由に挙げておられました。

 実は大村は「活版印刷紀行」や「千々石ミゲル」の取材で何度も訪れた土地ですし、大村純忠は日本最初のキリシタン大名であり、天正遣欧少年使節派遣のかげの理解者として間接的に日本最初の活版印刷にもつながる人物として私は興味を持たずにはいられません。

  話を戻しますがこの長崎、茂木のイエズス会寄進の問題ももっと現代の我々には掴みがたいウラの問題もあったのではないでしょうか。たとえば、純忠が1562年にイエズス会との契約で横瀬浦が南蛮船の寄港地として開港されたにもかかわらず、その翌年に焼き打ちにあってしまうというじけんがありました。ここにはどんな力が暗躍したのでしょうか。

 この界隈の海で生きる「家船」と呼ばれる「漁船」、「漁民」がたくさんおりました。ひょっとしたらその中には水軍まがいの船もあったかもしれませんが、彼らと大村純忠と間ははたしてうまくいっていたのでしょうか。イエズス会の所管になると彼らが手が出せないといったことはなかったでしょうか。秀吉のバテレン追放令発令寸前に純忠は死没しましたが、秀吉の逆鱗にふれ寄進状はパアになりました。

 








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今、見たいのは長崎歴博の特別展

2015-03-01 11:30:39 | 活版印刷のふるさと紀行

 はやくも3月になってしまいました。先月の19日から4月の15日まで長崎歴史文化博物館で『聖母が見守った奇跡』と題して世界遺産推薦記念特別展が開催されています。「長崎の教会群と基督関連遺産」というサブタイトルから想像できますが、待望久しい世界遺産指定を目の前に長崎のキリスト教の歩みをたどるナカナカの展覧会のようです。

 19日のオープニング記念講演会でキリシタンの盛衰と復活について話された東大名誉教授五野井隆史先生に朝日カルチュア教室の授業で図録を見せていただいて、がぜん、長崎に行きたくなりました。

 1549年、日本ではじめてキリスト教を布教したザビエルから1865年「サンタ・マリアの御像はどこ」あの信徒復活のプティジャンまでの316年間のあいだに、長崎のキリシタンとともに呼吸をしていたであろう貴重な資料が550点も展示されているというのです。

 しかし、どうやら私が探し求めているキリシタン版を印刷した鉛活字は見ることが出来ないようです。長崎の加津佐ではじめてグーテンベルク直系の金属活字による印刷がなされているのに、どうもいつも印刷関連は隅に押しやられてしまうのは残念でなりません。

 印刷博物館のミュージアム・ニュースに紹介されていた熊本県立天草工業高校の生徒さんの課題研究「天草コレジヨで行われた活版印刷の再現」とまでいかなくとも、加津佐や長崎という活版印刷の聖地をかかえる長崎がもう少しキリシタン時代の「印刷資料」に目を向けてくれたらというのが私の希望です。



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秀英体フォントの講演会を開催

2015-02-28 11:37:36 | 活版印刷のふるさと紀行

 一〇〇年目の書体づくり -「秀英体 平成の大改刻」の記録-  という本を大日本印刷の広報室から送ってもらったのは 一昨年の秋でした。それとあい前後して片塩二朗さんの『秀英体研究』という七〇〇ページもの大冊も入手しました。『一〇〇年目の書体づくり』の方には「書体は生きている」という大仰なタイトルの帯がついておりました。

 たしかに秀英体にはご厄介になりました。ただし、私の場合、鉛活字の秀英体とのおつきあいが長く、、写植文字の秀英体とのおつきあいは浅かったので、いまの編集者やデザイナーのみなさんがイメージされるDTPやデジタル画面で使う秀英体のフォントとはいささか異なるおつきあいであったかもしれません。

 大仰なタイトルといってしまいましたが、その帯の「書体は生きている。」の次に「時代とともに移り変わる。大日本印刷のオリジナル書体、秀英体。誕生から100年目の改刻を経て、いま未来へ。」とあり、かなり惹句としては的確だと思いました。なぜなら、築地体と共に明治から出版文化の支え手であった秀英体を活版印刷が斜陽になる中で、根気よく改刻し続けてきた秘めたる自負が読みとれたからです。

 両書を読んで思いましたことは、書体の改刻、あたらしいフォントづくりの体験談をぜひ関係者の口から聴きたいということでした。これは、日ごろフォントとつきあっていらっしゃる方にも興味ぶかい問題ではないだろうかと考えた次第です。        

  そこで来る平成27年3月7日(土)15:30~17:30に印刷博物館グーテンベルクルームで大日本印刷秀英体開発室の高橋仁一室長をお招きして『100年目の書体づくり━秀英体平成の大改刻』 と題した講演会を持つことにいたしました。主催は私が所属しております神田川大曲塾で聴講費は1000円です。まだ、参加人員にゆとりがありますので参加ご希望の場合はこのブログのコメント欄にご氏名と連絡電話番号をご記入、お申し込みください。 

         

  

 

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英国のポール・ディヴィス

2015-02-08 17:51:36 | 活版印刷のふるさと紀行

 ギンザ・グラフィック・ギャラリーの2月展をのぞいてきました。われながらオッチョコチョイで不勉強ぶりを露呈したことを告白しなくてはなりません。

 ポール・ディヴィスと聞けばかつてこのGGGでも展覧会があったアメリカのポール・ディヴィスを思い浮かべるものですから「さすが再度ご登場か」と思って会場入りしたところ若くて、小柄なポール氏で当然作風もガラリと違うので「なんと迂闊な」と恥じ入りました。

 1962年生まれ、イギリスはサマセット生まれでロンドンでアートとイラストレーションを中心に大活躍の英国のポール・ディヴィスさんでした。これならギャラリー・トークを聞くべきだったのですが後の祭り。

”ライン・イン・ザ・サンド”砂に引かれた線というキャッチ・フレーズは彼が自ら定めた終わりを告げる始まりの境界線とリーフレットに在りました。ちょっと奇抜なアート作品と風刺をきかせたドローイングで会場は構成されていました。上の写真はマッド・ストリーと題したドローイング。いずれにしても展示したのは自分の大の気に入り作品のみとのことでした。

 先日の仏週刊新聞シャルリー・エブト襲撃事件の火種になった、ムハンドの風刺画ほど直截ではなく、ラブと題した男女のイラスト、タイヤド オブ ライフ人生にうんざりと題したイラストなどいずれもじっと見つめているとほのぼのと作者の風刺したいものが伝わってくる感じでした。2月の26日までです。







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秘めやかに「福は内、鬼は外」

2015-02-03 20:35:23 | 活版印刷のふるさと紀行

 きょうは節分。たった今、「福は内、鬼は外」をやり終えたところです。と、いっても高層マンションのベランダだと福サンは入りにくいだろうし、もし、高所恐怖症の鬼サンだったら外へ出たがらないだろうしと家人と笑いあった次第です。

 七草粥、菖蒲湯、盆の迎え火、月見など、我が家は忘れない限り年中行事はマメに実行しています。子どもの小さいときに、なるべく体験させようとやっていたことがかろうじて今も続いているというのが正直なところです。

 最近、東京でも新年早々から「恵方巻き」の宣伝や予約ばかりが目立って肝心の豆まきが隅に押しやられている感じです。あれは土用の丑の日のウナギと同じで大阪の鮨屋さんの販売戦略から盛んになったと聞きます。当方は不慣れで巻きずしの丸かぶりは遠慮気味です。

 思い出すとその昔、節分の日、ホウロクと呼ぶパエリヤ鍋のお化けのような土器で母が大豆を炒ってくれたものです。その大豆を升に移してこぶしいっぱいに握りしめて部屋ごとで「福は内、鬼は外」と大声を張り上げて、兄弟で競って戸を閉めたものです。そして最後に自分の年齢プラス1粒の豆を食べました。

 さきほど撒いた我が家の豆は目黒のしゃれた店で求めたもの。きれいな福娘とかわいい鬼のイラストが印刷された三角の小袋に炒り豆が20粒ぐらい入っていて、それが12袋で1セットになっている仕組み。小さな福娘のお面入りです。これでは豪快な豆まきは望めません。ささやかで秘めやかな豆まき、ついでに齢の数プラスワンも割愛です。

 

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キリシタンだった黒田官兵衛

2015-01-28 14:38:59 | 活版印刷のふるさと紀行

 きょうの五野井隆史さんの講義は「キリシタン大名」についてでした。1563(永禄6)年に肥前横瀬浦でドン・バルトロメウの名で洗礼をで受けた大村純忠が日本最初のキリシタン大名で、1578(天正6)にはドン・フランシスコの大友宗麟、1582(天正!0)にドン・プロタジオの有馬晴信と続いたのは少年使節がらみで背景やエピソードのいくつかを私も知っています。

 きょうの講義はいわばキリシタン大名入門編でキリシタン大名というネーミングの由来、あるいはザビエルをはじめ来日宣教師が武家社会の階層をポルトガル語やスペイン語でどう表記したかというような内容が主体でした。

 たしかに大名といってもピンからがキリまであるわけですから慣れない日本で宣教師たちがヨーロッパでの階層を参考にしながら必死で序列をあらわす呼称を考えたことは想像にかたくありません。

 黒田官兵衛の洗礼名がドン・シメオンだったこと、高山右近の手引きで1584(天正12)年に受洗したことがよく知られていますが、彼も播磨時代は4万石、秀吉の九州平定後は12万石ですからキリシタン大名の一人といっていいでしょう。3年後には嫡男の長政がダミアン、弟の直之もミゲルとして洗礼を受けています。たしかルイス・フロイスの『日本史』に長政が豊後に着陣している官兵衛を訪ねてふたりで修道士から聴聞を受ける記述があったと思います。

 問題はほかのキリシタン大名と同じく秀吉がバテレン追放令を出したときの対応でした。秀吉から棄教を命じられなかったのは官兵衛ひとりだったという言い伝えもありますが、キリシタン故に九州平定の際の勲功で与えられる領地が減らされたのですから信用できません。

 ただ、心ならずも棄教させられたものの1604(慶長9)京都伏見で亡くなるまでキリシタンとしての心はもちつづけたとされ、葬儀は京都で仏式で、博多では教会でされたといいます。このへんのところは去年のNHKの大河には出ていなかったと思いますが。



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バダバダダバダバダと八丁堀を散歩する

2015-01-27 21:23:05 | 活版印刷のふるさと紀行

 久しぶりに暖かい日、八丁堀を歩きました。町歩きというのは不思議なものでその日の気分で新しい発見があります。

 きょうは亀島橋のたもとでにぎゃかに旗さしものを林立させた大船のイラストに目をとめました。幕府御用船「天地丸」とあります。このあたりに幕府の御用船を管理する御船手組屋敷というのがあって1600年代に向井将監忠勝など向井家が頭をつとめていたので将監河岸と呼んだと説明がありました。

 それよりずっとあと、明治の中頃に霊岸島汽船発着所がおかれてここから房総半島、伊豆半島、大島、八丈島あたりに通う船が出たことは知っていましたが、江戸時代の八丁堀界隈は池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』の与力・同心の組屋敷とは別の顔、新川あたりの酒問屋をはじめ問屋の町であり、亀島川は物流の船の行き来で賑やかな顏があったようです。「天地丸」もいまならさしづめ高速を飛ばすギンギラ銀のトラックみたいに派手な存在だったのでしょう。

 ふっとみると隣に「堀部安兵衛武庸之碑」がありました。赤穂義士のひとりとして三十四歳で没しているとは。若かったのですね。

        それと、八丁堀には昔から親しくしている印刷屋さんがたくさんありました。過去形なのは廃業されたり、、亡くなられた方がいらっしゃるからですが、みなさん誇り高い職人さんでした。

 やや巻き舌の東京弁で手持ちの珍しい欧文活字を披露してくれた人、自慢のポスターの刷りを仕事場の奥からひっぱりだして見せてくれた人、みんな底抜けに明るくて八丁堀の印刷屋さんでした。         

私は八丁堀とはなんとなく気が合うのです。楽しい雰囲気で気軽に 飲み食いできる店がたくさんありますし、若い人が多いし、東京駅も目の前です。笑われそうですが、フランス映画の「男と女」の、あのバダバダダバダというスキャットのところを歩きながらつい、口ずさんでしまいます。

 



 

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南島原市 がんばれ

2015-01-25 13:57:45 | 活版印刷のふるさと紀行

 南島原市といってもまだ私にはピンと来ません。「キリシタン印刷街道」と名付けて、はじめて加津佐町、口之津町、南有馬町、北有馬町、有家町、西有家町などを訪ね歩いていたころはアタマに長崎県南高来郡と郡名がのっかっていたからです。そんなことはどうでもよいのですが、その南島原市加津佐町の松藤幸利さんから新年第一便が届きました。

 中身はつい、先日1月16日でしたか「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のユネスコへの推薦が決定して、南島原市のガイド事業に熱心に取り組んでおられる近況報告と長崎放送が19日に放映した特別番組おいしい南島原「キリシタン王国」の録画DVDでした。「キリシタン王国」は南島原有馬の日野江城、島原の乱の原城の紹介が主でしたが、わかりやすくてなかなかの出来でした。

 私の最大関心事、天正少年使節やヴァリニャーノ神父、キリシタン版や活版印刷機ももちろん登場しました。とくに私が興味をもった一つはは昨年4月に南有馬にオープンしたという「有馬キリシタン遺産記念館」の紹介でした。キリシタン版の印刷機のレプリカ、加津佐で最初に印刷された『サントスの御作業の内抜き書』ももちろん展示されていますが、原城や日野江城の発掘にかかわる展示物はぜひゆっくり見たいものです。

 興味をもったもうひとつは地元有馬小学校でクリスマスイベントとして行われたというフェスティビタスナタリス2014のパレードです。聖火を掲げ、頬を紅潮させながらバテレンルックでラテン語のグレゴリオ聖歌を歌いながらの児童の行列は400年前を髣髴とさせてくれました。(上の写真は有馬キリシタン遺産記念館ホームページから)。 昨年の12月6日に行われたものです。

 前回まで3回にわたって紹介した五島のキリシタン史が地味で暗い翳の多いのに反して、キリシタン大名有馬晴信の下でのある時期の信者たちの営みは華美で明るく、まさに「キリシタン王国」であったといえます。この「キリシタン王国」の番組の最後には市長も登場して世界遺産推進の抱負を語っています。、町の歴史、先祖の文化遺産を大事にする自治体に心から応援したい気持ちです。がんばれ、南島原市。



 


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長崎・五島のキリシタン史3

2015-01-24 15:47:32 | 活版印刷のふるさと紀行

 五島にキリスト教が根付いたといっても、日本で最初に洗礼を受けてキリシタン大名となった大村純忠の領内のように、領主が率先して信者になり、家臣団や領民がそのあとに続くような形にはなりませんでした。アルメイダや平戸の琵琶法師といわれたロウレンソ了斎が播いた種が順調に育ったとはいえないのです。

 五野井さんによると障害として立ちはだかったのは領主純玄のキリシタンの迫害が教会の焼き打ちや洗礼の禁止にまで及んだことだといいます。それでも秀吉の死去前後には五島のキリシタンは2000人以上を数えるようになったといいますから島民の信仰への取り組みぶりがわかります。しかし、それは」長続きしません。1622年の来島イタリア人神父の処刑を皮切りに厳しい弾圧が始まったからです。キリシタンの摘発、捕縛、処刑、密告に脅え、心ならずも踏絵による宗門改めに屈す島民が続出、1630年代のなかばには五島にキリシタンはいなくなったと思われます。

 五島のキリシタンの歴史が特筆されるようになるのは、1797(寛政9)年、ときの領主五島盛運が大村領主に領民の移住を申し入れたときからです。わずか3年ほどの間に3000人ほど五島に移住してきた大村領外海(そとめ)の農民がキリシタンだったために、160年間穴のあいていた五島に、ふたたびキリシタンの祈りが唱えられるようになったのです。 けれども厳しい弾圧下です。それが見逃されるはずはありません。捕縛され、入牢を強いられたり、仏教徒たちの迫害にも耐えねばなりませんでした。

 「切支丹禁制」の高札を明治政府がはずしたのが1873年、1877年に五島にふたたび宣教師が来島、宣教が開始されました。1880年の福江島、堂崎天主堂を皮切りに、久賀島の浜脇教会、福江島玉之浦の井持ヶ浦教会など続々と教会が建つようになります。かつてこのブログで紹介したように鉄川与助による教会群が姿をあらわすようになったのは1910年代からです。また、いずれ稿をあらためて記すことにしますが、外海から移り住んだ潜伏キリシタンの影響でその子孫にあたるみなさんが五島の隠れキリシタンとして伝統的な信仰儀式をいまも続けておられます。

 いずれにしても「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がユネスコの世界遺産になり、記録の少ない五島のキリシタン史にもっと光が当たることを望みますし、まだ、訪れたことのない方には五島訪問をおすすめいたします。

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