goo blog サービス終了のお知らせ 

活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

500年前のヴェネツィアで

2015-04-14 09:59:48 | 活版印刷のふるさと紀行

 この肖像画の主はバルダッサール・カスティリオーネという長ったらしい名前のイタリア人で、描いたのがラファエロときますからかなりの有名人です。彼はルネッサンス期に外交官として活躍しましたが、もう一つの顔が作家、上流階級の子女たるものの社交や教養のあり方について書いた『宮廷人』はヨーロッパで長くもてはやされたといいます。 1529年に亡くなっていますから日本では秀吉が生まれるちょっと前の人です。

 さて、この『宮廷人』がヴェネツィアで出版されたのは1528年とされています。グーテンベルクが印刷術を発明したのが1450年ごろで、またたくまにヨーロッパ中に活版印刷がひろまったのはよく知られていることですが、なかでもヴェネツィアは1500年代に入るや否やイタリア中で出版される印刷物の半数以上を生み出すいんさつの町になりました。。

 それだけに、ヴネッイアの印刷所の忙しさたるや大変なものであったらしいのです。職人が15人ぐらいいる印刷所で4~5台の印刷機を動かしている場合を例にとると、労働時間は1日12時間は当たり前、16時間も活字ケースや印刷機の前に立ち続け、昼食にあてるのはせいぜい30分、ようやく夜業を終えると雇い主も雇われ人もサンマルコ広場やリアルト橋周辺の居酒屋に飛びこんで精魂つきはてたわが身を癒したといいます。

 まさか、私は写字工を失業させた新技術、活版印刷がヴェネツィアでこんな形で展開していたとは知りませんでした。もっと印刷工にあステータスがあってゆったりと新技術の印刷に取り組んでいたと思っておりました。実はこうした500年前のヴネツィアの印刷所(書籍商を兼ねていることが多かったらしい)のことを知ったのは、最近出たラウラ・レプリの『書物の夢、印刷の旅』-ルネサンス期出版文化の富と虚栄-柱本元彦訳,青土社によったのです。

  この本の著者ラウラ・レプリはイタリアきっての名編集者でバルダッサール・カスティリオーネの『宮廷人』の原稿が家令によってヴネツィアの印刷・出版街に持ち込まれるところの状況描写から、部数や値段の交渉を経て印刷所が決まり、入稿前の編集作業や校正などの本になるまでの経過を当時の印刷所や出版界の動静を記述する間に散りばめた出版印刷史と見ることもできるのです。著者ラウラ・レプリがルネッサンス時代に自分と同じ編集者や校正マンがいたと述懐するところで笑ってしまいましたが、実はもっと示唆に富んだ箇所がたくさんありました。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出す「武勲桜」

2015-04-02 14:18:37 | 活版印刷のふるさと紀行

 

                                                     

                             

サクラが今日あたりで終わりだといいます。開花宣言からまだ、1週間も経たない気がするのでアッケない感じです。上野や千鳥ヶ淵の花見風景に刺激されたわけではありませんが、散りぎわの美しさをめでてやろうと晴海から勝鬨の水辺を歩いてみました。少し遠出するつもりなら、大横川や仙台堀川や清澄公園があるのに、あいかわらずの怠惰ぶりです。 それに花見の喧騒はあまり好きではありません。

 そうはいってもふるさとの岡崎が東海道きってのサクラの名勝地でしたし、文京区の家では風呂場から西片の夜桜が楽しめるものですから結構おつきあいは深いほうです。

 フラフラ歩いているうちに思い出したのが「武勲桜」です。私の通った小学校は高台で、大きな運動場のある校庭の四方がサクラでした。その小学校の校門につづく坂道に苗木を植えたのですが、それが武勲桜という名前でした。たぶん、第二次大戦がはじまっていてマレー半島に日本軍が上陸したり、落下傘部隊の映画に興奮していたころだったと思います。

 もっと赫々たる戦果をあげようというのだったのでしょうか、もっと武勲をたててほしいという願いだったのでしょうか、いずれにしても戦意向上を目的としていたのでしょう。その後どうなったかは確かめておりませんが、おそらく戦災で消滅してしまったことでしょう。花見客の喧騒が苦手でも、外国人の花見客が多いような平和な花見は大歓迎。武勲桜はゴメンです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ユニバーサルデザインの展覧会

2015-03-26 10:50:48 | 活版印刷のふるさと紀行

 東京は一昨日、3月23日が桜の開花日でした。沖縄から北海道まで桜前線到達が次々にリレーされ、それがテレビで伝えられる日本の風土は実に恵まれています。まだ、足を運んでいませんが房総ではツクシが終わり、そろそろタケノコのシーズンかも知れません。タケノコといえば、「春の筍ご飯」という博多の駅弁を 味わいました。 副菜もふくめていかにも春らしいほのかな薄味で美味、おおいに結構、「ごちそうさま」でした。

 同じ日、印刷博物館のP&Pギャラリーで『みんなにうれしいカタチ展』をのぞいてみました。日本発ユニバーサルデザイン2015というサブタイトルが示すようにユニバーサルデザインの展覧会でした。

 ユニバーサルデザインが日本で本格的に紹介されてから15年経つそうですが、高齢化社会の到来で非常に身近かになったバリアフリーほど知られておりません。どうも混同されがちですが、ユニバーサルデザインは高齢者や障害者にやさしいバリアフリーとちがって私たちみんながさまざまな場所で、様々な状況を体験する場合を想定して、どうしたらみんなにうれしいカタチになるかを追求することを指します。

 すでに市販されている製品や開発デザイナーの計画段階のものなど実際にその場で見るだけでなく、さわってナルホドと体感できる興味深い展示でした。右利きの人にとっては至極あたりまえのものが、左利きの人にとってはいかに使い勝手がわるいか、ならば、こういう製品があれば左利きの人にとってどんなにかうれしいだろうと実感できました。

 例えば、右利きの私には想像もつかなかったことですが、トランプで遊ぶ場合、市販の普通のトランプでは左利きの人だと、文字の部分が見えなくなってしまいます。

右の写真の右端のように文字処理がされていると    

左利きの人にも使いやすいトランプになるのです。そのほか、大規模災害を想定して、ふだん日常使いをしている製品がまさかのときに災害対策用に早変わりするような製品も目をひきました。

 

 

                           



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もっと知りたいペドロ・ラモン神父のこと

2015-03-25 17:33:17 | 活版印刷のふるさと紀行

 ペドロ・ラモンはスペイン人のイエズス会神父で1577年(天正5)にのちに天正遣欧少年使節とともにヨーロッパに行ったメスキータ神父と共に来日しました。途中、マカオに行っていた期間はあるものの、1611年に長崎で没するまで、日本での宣教や日本人修道士の育成につとめたなかなかの人物です。

 けれども、私の印象はかならずしもよくありません。1587年生月から出した書簡で「ヴァリニャーノがローマに派遣してその行く先々で歓迎された少年使節たちは決してそんな厚遇を受けるような日本の高貴な生まれの少年たちではない」と内部告発をした神父とされているからです。

 唐突にペドロ・ラモンについてもっと知りたいといいだしたのにはワケがあります。昨日は朝日カルチュアセンターで五野井隆史先生に大友宗麟(義鎮)の講義を聴く日でした。大友家の系図や資料・史料を使って実に懇切な講義でしたが、当然、お話のなかに伊東マンショの伊東家の系図も出て来て少年使節にも触れられました。

 少年使節派遣のプランはヴァリニャーノが短時日でたてたもので、大友宗麟はそれをまったく知らなかったし、まして使節の代表とも目される伊東マンショが自分の名代とされていることなど露ほども知らなかったというのが定説になっています。もちろん、五野井先生も松田毅一先生はじめ使節についての研究家みなさん同意見です。

 大友宗麟とヴァリニャーノは臼杵でかなり親交を重ね、宗麟が敬愛してやまないザビエルの列福・列聖についてもふたりは同じように熱望していたといいます。1587年ペドロ・ラモンが内部告発に踏み切ったとされたときは臼杵の修練院院長でしたから宗麟の身辺に通じていたはずですが、宗麟が亡くなったのが6月、その同じ6月ゴアまで帰ってきた少年使節はマルチノがヴァリにヤーノに感謝する演説をし、ドラードが日本人として最初に金属活字を使った印刷をしています。内部告発は10月ですが、ラモンの耳にはどの程度少年使節派遣の成功が伝わっていたでしょうか。単にヴァリニャーノ、憎しでもなかったでしょうし、ヴァチカンはじめ少年使節をもてはやした筋に真相を知らせようとしたのか、それとも宗麟を憐れんだのかどうもラモンの真意はわかりかねます。

 






 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

印刷史のなかの活字の話

2015-03-23 15:22:56 | 活版印刷のふるさと紀行

 めぐりあいとでもいったらいいのでしょうか、思わぬときに思わぬ形でめぐり合った本の紹介です。著者は鈴木広光さんタイトルは『日本語活字印刷史』、版元は名古屋大学出版会、奥付けの発行日が2015年2月15日とありますから、まだ出たばっかりといえます。

 帯に書字の論理、活字の論理とあって一瞬、「むずかしそう」と思ったものの、ちょうど秀英体活字の講演を聴いたばかりだったし、キリシタン版活字の国字について探偵まがいでああでもない、こうでもないと考えている折から勉強させてもらうことにしました。それに鈴木広光先生は10年前の印刷懇話会スタートのときとか、昨年、八木書店の『キリシタンと出版』の記念講演会でも持論を拝聴しているのでぜひにと思った次第です。

「漢字と仮名による多様な書字活動は、いかにして活字化されたのか。技術のみならず文字の性質や書記洋式・言語生活等に注目し、嵯峨本など古活字版から、宣教師らによる明朝体活字鋳造を経て、近代日本の活字組版まで、グローバルな視野で描き出す」。と帯にありましたが、印刷出版とミッション・プレスの関わり合いから筆をおこし、はやくも序章で日本イエズス会の活字製作に触れているのがうれしかったのです。

 とくに、嵯峨本『伊勢物語』の活字と印刷技法をキリシタン版との関連については、私が敬愛している森上修先生の学説と重なっているので味わい深く読みました。但し、同じ章で紹介されている国字がリスボンでという豊島正之先生説の方はまだ、納得できないで首をひねっているところです。

 正直にいいますと、まだ、全部を読みおえておりません。ただ、鈴木広光先生がこの本のなかで活字と印刷についてどのような視角で論じられているか、その論理が少しずつわかって来るような気がしています。同好の士にぜひともお勧めしたい本です。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謎が多い千々石ミゲルの墓

2015-03-21 09:53:14 | 活版印刷のふるさと紀行

 

 浅田昌彦さんのメモによるとまだ、今回の正式な調査報告書はあがっていないし、あらためて遺構調査が進まない限り、千々石ミゲルの墓と断定はできない模様です。しかし、諫早市多良見町で昔から土地の人に「ゲンバさん」と呼ばれていた墓についてかなりのことがわかって来ました。

 ゲンバさんと呼ばれていたのは墓石の裏に「千々石玄蕃允」と彫ってあるからで、浅田さんは墓に刻まれているふたつの戒名、本住院と自性院が自家の過去帳にあることを発見し、千々石と浅田家とのつながりを確認されたといいいます。

 高さ1メートル80センチ、幅1メートル20センチの墓石の周辺は昭和40年代の大水害と江戸時代からの堆積土で寛永年間の建立当時に戻すだけでもたいへんでしたが、ボランティアのたらみ歴史愛好会や千々石ミゲル研究会の協力で着実に進み、墓石の周囲に1辺3メートル近い正方形の基壇や従者の墓とみられる小さな墓石もみつかったといいます。

 問題は残念ながら現段階ではキリスト教関連の遺物は発掘されていないとのことです。私はそれだけでミゲルの墓ではないというつもりはありませんが、基壇の存在や敷地の規模から領主級の墓地ということから疑問を持ちます。

 伊東マンショは帰国後早くに病死、原マンショはマカオに移され、中浦ジュリアンは逆さ吊りの処刑、ひとりミゲルは棄教して千々石清左衛門に逆戻り、大村喜前に仕えたが、その喜前にも領民からも疎まれて薄倖だったミゲルがそんな領主級の墓におさまっているとはどうしても考えられません。私はミゲルは最後まで棄教はしなかったし、彼の墓所は土を盛っただけの土まんじゅうで江戸時代まで原型を保ってはいなかったと想いたいのです。





コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千々石ミゲルの墓

2015-03-20 17:36:24 | 活版印刷のふるさと紀行


 つい、1ヶ月ほど前のことです。以前、私が『千々石ミゲル』を書くとき長崎弁の表現でお世話になった大村出身のE女史から電話をもらいました。「千々石ミゲルの墓が地元で話題をさらっていますよ」と。

 あれは10年前、たまたま諫早に講演に行ったときでした。夜、市長さんはじめ町の方々と一杯の席を共にしていると飛び込んで来たのが「千々石ミゲルの墓発見」のニュースでした。翌朝の新聞の切り抜きが上の写真です。とにかく地元の興奮は大変で、私がミゲルを本にしようと思っていた気持ちを後押ししてくれました。

 発見したのは大村の大石一久という石造物の大家で、その後、出された本、『千々石ミゲルの墓』も飛びついて読ませてもらいました。Eさんともこの件で話し合ったことから今回の電話になったのでしょう。さっそ、彼女に紹介してもらって、浅田昌彦さんと連絡が取れました。千々石ミゲルのご子孫で地主、昨年9月に6日間もかけ大勢の研究家とミゲルの石碑周辺の発掘調査をされたご本人です。

 なんでもNHK長崎放送局が「千々石ミゲルの謎 石碑が語る新事実」と題してイブニング長崎という番組でとりあげたのが火付け役になったようでした。

 浅田さんから送っていただいた資料によると、浅田さんも、最初の発見者の大石一久さんも非常に慎重、冷静で「まだ、これがミゲルの墓だと断定はできません」とおっしゃっていますし、まだまだ調査は続くようです。しかし、私にとっては最大関心事です。なぜかというと私の『千々石ミゲル』ではミゲル夫妻は土まんじゅうの墓の下で眠っています。こんどの発掘調査では「領主級の立派な墓」dというではありませんか。 現場も見ないでモノをいってはいけませんが、ミゲルの墓について次回ももう少し話したいと思います。 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハンモさんの『絵本の絵を読み解く』

2015-03-18 05:23:33 | 活版印刷のふるさと紀行

 

 

たったいま、ハンモさんのこの本を読み終えました。ハンモさんとはイラストレーターでグラフィックデザイナー、装幀作家の杉浦範茂さんの仲間うちでの愛称を倣ってのことです。

 悪い癖で、私はいつもどおり「おわりに」から読みはじめました。ありました。この本が書かれた動機がそこに。まだ、彼が駆け出しのころある絵本評論家に「温かい家庭で育った作家の絵」と読み解かれたのだそうです。絵本は”絵”を読め、なるほどというわけです

 書名どおり、この本は「スーホの白い馬」、「はじめてのおつかい」、「あおくんときいろちゃん」、「もりのなか」…日本の名作絵本、海外の名作絵本24冊の絵を彼の人間に対する優しい愛情と深いまなざしと洞察力で読み解いた上に自身の創作感、経験談、人生観まで織り込んでいます。絵を読み解きながら軽妙な文章で自分史がチョコチョコと顏を出すあたり心憎い読み物ともいえます。

 私にはレオ・レオーニの『あおくんときいろちゃん』の項がいちばん興味ぶかかったのです。レオーニの抽象イラストに斬りこんだところと印刷の「特色」について論じているところです。これは余分ですがレオーニが絵本作家、イラストレーター、グラフイックデザイナーというところがハンモさんそっくりです。違うところはレオーニさんは経済学博士で絵やデザインは独学だそうですが、ハンモさんは東京芸術大学図案科の出身、1998年には紫綬褒章を受けています。

 やはり巻末に絵本作家や児童書のイラスト作家としての主なしごとが70点ばかり紹介されていますが、その前にある「ブックデザイナーの仕事」は本の装丁をしていらっしゃるお若い方にはさんこうになるのではないでしょうか。いずれ、彼自身の絵本作家としての作品、ブックデザインやレイアウトを主体とするエディトーリアル関係の主な仕事も本にしてほしいものです。 大事なことを忘れました。この『絵本の絵を読み解く』は読書サポート発行03-6869-3785です。


 

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

400年前の活字を再現してくれた天草高校に感動2

2015-03-15 21:42:30 | 活版印刷のふるさと紀行

 天草工業高校のキリシタン版活字の鋳造や印刷再現という破天荒?の挑戦を初めて知ったのは昨年末発行の印刷博物館のPrintingMuseumNews55号でした。

 さっそく2月の印刷図書館クラブ木曜例会でも「えらい高校もあるもんやな」と大きな話題になりました。私としてはじっとしてはおられません。たまたま印刷博物館で会合があった日に学芸員中西さんにお願いして紹介記事執筆者の同館石橋圭一さんにお目にかかることができました。幸運にも3月7日の大曲塾秀英体講演会に天草工業高校で実際に再現を指導された西村洋信先生が出席してくださるというではありませんか。

 その当日、今春から霞が関に出向しておられるという西村先生に親しくお目にかかることが出来、生徒のみなさんと4年がかりでキリシタン版活字の再現に当たられた話をうかがうことが出来ました。

 母型製作のための金型製作、活字合金づくり、鋳込み,成形、そして完成した活字を使って組版、さらに実際の印刷、こう書くのは簡単ですがおそらく大変な研究・調査と実際の製作現場の苦闘があったことは想像にかたくありません。私は西村先生の手を何度も握らざるを得ませんでした。こんな感動はここしばらく味わったことがありません。まさに感激の夜でした。

 おそらく印刷博物館の5月のヴァチカン展には天草高校の成果品が展示されることと思いますが会場では実際に手を触れることはできないと思い先生に頼み込んで生徒さんたち自作のモールドに」さわらせてもらったのでした。ひとつだけ、欲張りなことをいわせてもらうと、次回の機械科3年生の「課題研究」で「国字」の再現にチャレンジしてもらえるとどんなにうれしいか。

 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

400年前の活字を再現してくれた天草高校に感動

2015-03-14 00:15:24 | 活版印刷のふるさと紀行

 大袈裟にいいますと、 近頃、これほどうれしかったことはありません。ここに掲げたのは天草市河浦町「コレジヨ館」にある日本最初の活版印刷機のレプリカです。天正遣欧使節によって最初はいまの長崎県南島原市加津佐でキリシタン版を印刷したのですが、つぎにここ、河浦に移ってのちに「天草版」ともよばれる活版印刷の本が印刷されたのです。

 それは1590年代のはじめのことですから、いまから430年近い前の話になるのですが、ほぼ、同時代の家康の駿河版活字は現存するのに、このキリシタン版を印刷した活字は島原や天草や長崎など、かつての印刷所の所在地はじめ、どこでも、いまだに1本も見つかっていないのです。 少なくとも何万字もあったはずなのにいまだにどこからも出て来ないのです。

 鉛合金ですから腐ってしまったことはないでしょうし、いくら禁教の対象といっても全部が全部海に投げ捨てられたとも考えられません。のちの島原の乱のときに鉄砲の弾に化けたと笑わせる人もいますがマサカです。

 そこで私はいままで何度もこの活字探しを夢見て、書いたり、話したりしてきました。昨年『印刷雑誌』4月号にも

「もっと欲張りなこというとしたら(株)モリサワの本木活字の鋳造再現実験のようにキリシタン版の国字づくりにいどんでくださるひとはいないだろうか、キリシタン版に使われた活字の遺物捜しキャンペーンとともに私の夢である。」

と書きました。

 それが、なんとウカツな、もう4年も前から天草コレジヨゆかりの地、天草市の県立天草工業高校の生徒さんがキリシタン版活字の再現にチャレンジしていたとは。驚いたし、うれしかったし、感動した顛末は次回に。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする