goo blog サービス終了のお知らせ 

活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

長崎・五島のキリシタン史2

2015-01-23 10:59:02 | 活版印刷のふるさと紀行

 関ヶ原の戦いが1600年、五島でアルメイダが宣教を開始したのが1566年、この間は34年しかありません。ほぼ同時代でありながら、私たちは関ヶ原の方は「絵」として当時の情景が想像でるのに五島の方は「絵」を思い浮かべることが出来ません。映画やテレビがもたらしてくれるイメージによるものでしょうか。

着任早々のアルメイダは島民を前に3時間も日本のもろもろの宗教の間違いを指摘して、キリスト教こそと説いたといいます。聴き手の側はどうでしたでしょうか。 どんな表情をしていたのでしょう。場所は恐らく漁民の網小屋の一廓だったりしたのでしょうが、どんな雰囲気だったのか、集まった漁民たちの服装や態度、昼・夜の区分さえ思い浮かべることが難しい気がします。かろうじて私が「絵」としてイメージできるのは、遠藤周作の『沈黙』を篠田正浩監督が映像化した映画のシーンぐらいです。とにかく、日本側の記録がないので当時の五島について実情を」知ることが出来ないのは残念です。、

 では、来日したバテレンの側はどうでしたでしょうか。1709年といいますからそれから100有余年後、新井白石が江戸小石川のキリシタン屋敷で日本に密に入国を企てて屋久島で捕まったイタリア人宣教師ヨハン・バチスタ・シドッチの取り調べでその彼の教養の深さに驚いています。アルメイダもポルトガルの医師免許を持っておりました。かなりの知識人であッたことは確実です。そのアルメイダと漁や塩焼きを生業としている島民の間でどのようにして心の交流が持てたのでしょうか。アルメイダは医術によって島民の心をつかんだとされていますが、はたしてどうだったのでしょうか。

 アルメイダの後任神父たちの働きもあって徐々に改宗者も増え、教会が建ち、1569年には五島のキリシタンは300人を数えるようになりました。やがて後にキリシタン版の編集にも関係する養方軒パウロも宣教に携わるようにになります。五島にキリシタンが根付くようになったのです。(この項つづく)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎・五島のキリシタン史1

2015-01-22 10:20:33 | 活版印刷のふるさと紀行

 ひどい風邪をひいてダウンする前、1月13日でしたか、新宿の朝日カルチュアセンターで東大名誉教授五野井 隆史さんの『長崎・五島におけるキリシタンの歴史』の講義を受けました。

 今年は少し日本のキリシタン史をかじろうという殊勝な気持ち半分と、私を二度にわたって五島をひきまわして下さったSさんが昨秋から重篤な病で臥せってしまわれていることからもう少しいまのうちに五島について勉強しておきたいという考え半分からでした。

 五島はキリシタン版の印刷については直接関係がありません。しかし、今年9月ごろから始まるイコモス(国際記念物遺跡会議)による現地調査にも期待されている「長崎の教会群トキリスト教関連遺産」でも五島は大きなウエイトを占めていますし、なによりも私自身、五島に惹かれているところが大きいのは隠しようがありません。

 五野井さんの講義は遣唐使船や遣明船の寄港地だったり、倭寇の一部「五島倭人」の時代からはじまり、宣教師の来島、宣教活動そして弾圧、潜伏キリシタン、キリシタンの復活、明治になっての各地の教会建設と時代を追って丹念なものでした。たまたま、正月に五野井さんの『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館2014・9)を読んでおりましたので、「五島はそうだったのか」と興味深くききました。

 実際にいま、五島の島々を歩いてみますと、ひなびた漁村の小さな入り江に小さな教会が建っていて、明治のはじめ地元の人たちが教会建設に心血を注いだ話をあれこれ聞くことが出来ます。けれども私がもっと知りたいのは宣教師がはじめて現れたころの五島です。五島の宣教の最初は1566年1月、ルイス・デ・アルメイダと日本人ロウレンソが福江に上陸したときだといいます。五島の島主宇久純定がイエズス会のコスメ・デ・トルレスに派遣を依頼したのがきっかけと聞きました。当時島民の生活はカツオ・マグロ・イカなどの漁業と塩づくりだけの貧しさ、そのなかでいかに島主のすすめといってもアルメイダの話に耳を傾け、キリスト教に改宗する人が出るはずがありません。

  悪いことに純定の大病、島の大火、平戸からの海賊の来襲、そのほかミステリアスな事件が頻発して100日経っても入信する人はおらず、しまいには宣教の話を聞く人もいなくなったといいます。まさにアルメイダの危機です。(この項つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日記についての考察

2015-01-10 10:53:44 | 活版印刷のふるさと紀行

 あなたは日記をつけていますか。正月早々だからというわけではありません。実は昨日、ギンザ・グラフィック・ギャラリー第341回企画展のオープンングパーティで『日記』で驚かされましたのでその報告。

 「浅葉克己のタイポグラフィ展」が今回の企画展のタイトル、いまさら紹介するまでもありませんが、浅葉さんは日本のアートディレクターの大御所、JAGDA(日本グラフィックデザイナーズ協会)の会長で30年近く前に東京タイポディレクターズクラブを設立、タイポグラフィーとグラフィックデザインが醸し出す鮮烈な作品で数々の賞を受けておられます。

 今回は会場の大半を占める新作をふくめ数々の作品や記録写真などで浅葉克己の世界を知ることができますが、なんといっても私は壁面狭しと展示されている日記の展示に心を奪われてしまったのです。いままでこの日記でADCやTDC,あるいはJAGDAで受賞されていますから知らないわけではありませんでしたが、今回の量には圧倒されました。

 大きなダイアリーの見開きに緻密なペン字で記された文章にイラスト、写真、新聞の訃報記事まで貼られていてその丹念さ、構成の美しさ、まさに「参った」です。いったい多忙な制作活動のなかで何十年とこんな日記を書きつづけられるものでしょうか。

 会場のコーナーに上製本に仕立てられた日記の合本何冊かの横に毎日の日記のラフスケッチまでありました。ご当人にはうかがいそこねましたが、毎日の日記はそれほどの周到さで書かれたものだったのです。さらに驚いたのは、小学校5年生の時のざら紙ノートの日記も添えられていましたが、それがなんと文章とイラストに部分的には筆文字まで入って見事なデザイン設計、まさにミニチュア版なのです、三つ子の魂?いやいや、その才能恐るべしです。

 私は博文館の三年連用日記と30年以上つきあっていますが、とても、とても、見るからに稚拙な生活行動日記になっています。ときには朝日の天声人語ふうを気取ろうとしたこともありましたがムリでした。とにかく「百聞は一見に如かず」ギンザ・グラフィック・ギャラリーに足を運んでください。1月31日までです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初顔合わせは七福神詣で

2015-01-09 10:52:16 | 活版印刷のふるさと紀行

 神田川大曲塾の新年会は恒例で有志の七福神詣でから始まりました。正式には印刷文化懇話会神田川大曲塾という長ったらしい名前の印刷文化の研究グループですが曲がりなりにも今年で10年目を迎えることができました。メンバーは印刷・出版畑の人はもちろんカメラマンやデザイナー、主婦まで多士済々、ワイワイガヤガヤ研究発表をしたり、外部講師を招いて勉強会を開いたり、体験学習と称する旅行に出かけたりしております。

 さて、今年は江戸最初の七福神巡りコースといわれる「山手七福神」を参詣しました。地下鉄南北線の白金高輪駅に集まって毘沙門天の覚林寺を皮切りに瑞聖寺の布袋尊、妙円寺で福禄寿尊、寿老尊と白金台で四福神様に対面、次に目黒に入って大円寺の大黒天、蟠龍寺弁財天、目黒不動,源泉寺の恵比寿神にお参りしました。途中で雅叙園や大鳥神社に立ち寄ったりしたので約3時間半、1万3000歩の行程でした。

 七福神信仰は室町時代の中ごろにはじまり、江戸時代の中期に庶民に定着したといわれますが、平成になっても参詣客が多くてびっくりさせられます。このコースで楽しかったのはお参りする各寺で、それぞれの福神様のダルマさんが求められることです。おみくじつきですから今年の運勢が7通りもためすことができます。もっとも、私の場合、蟠龍寺の弁財天様の胎内から出たおみくじがなんと唯一の「末吉」、 -のどけしと見えし うなばら かぜたちて 小舟危う沖津しらなみーとありました。ほかが大吉や吉でもわが敬愛する弁天様にこうういわれちゃ、心してがんばらないと。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

箱根駅伝・歌舞伎座・高校サッカー

2015-01-02 22:16:21 | 活版印刷のふるさと紀行

 1日は賀詞交換会のお屠蘇が過ぎてダウン。目が覚めてテレビの『相棒』をみましたが前宣伝のほどはなくがっかり。要するに制作者の力の入れ過ぎではないでしょうか。身に覚えがありますが、肩に力が入り過ぎるとかえってひとりよがりになってしまいます。

 そして2日は午前中は箱根駅伝の往路に釘づけ、青山学院の5区の神野君の力走には驚きました。肩に力がはいっていない表情、、走りっぷりには感心しました。今年もWは応援むなしく往路6位、力を入れて応援した同郷の選手も残念ながら順位をひとつ落としてしまって無念。

 午後は「壽初春大歌舞伎」やはり『一本刀土俵入り』が最高。河竹繁俊先生の「歌舞伎は民衆が作った最高のドラマ」を思い出した次第。

 帰宅してがっかりしたのは高校サッカーの2回戦の結果を知ったとき。期待していたのに中京高校が敗退してしまったのです。さっそくごくろうさまメール発信。

 もう1日、ゆっくりして4日からスタートするつもり、あくまでつもり。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

活字発祥の碑の前で年を送る

2014-12-31 15:59:29 | 活版印刷のふるさと紀行

 平成26年、2014年も今日で終わりです。その大晦日、午後になって築」地・銀座に出向きました。築地で足を向けたのは「活字発祥の碑」のところです。 

 ここは平野富二、まだ富次郎と名乗っていたはずですが、彼が「築地二丁目に百二十余坪購入、仮工場建設…」としている長崎新塾出張活版製造所、のちの東京築地活版製造所を建設したところです。、1873年(明治6年)6月のことです。8月にはじめて新聞に平野富二の名で移転広告が出ています。

 その前年に陰暦から太陽暦になりましたし、徴兵令が発布されて『徴兵告諭』といがう大量の布告の印刷がありましたのでまさにタイムリーな動きであったといえます。また、同じ年の11月には「東京日々新聞」が平野の活字を採用しています。私はまさにこの明治6年が日本の金属活字を使った活版印刷の事業化のスタート地点だと思います。

 それから150年ちょっとで、まさか印刷がこれほどの凋落を示すとは誰も予想できなかったと思います。印刷図書館の印刷倶楽部の会合でもしばしば話題になりますが、とくに出版物の印刷が全盛期の4割ぐらいはダウンしています。「活字発祥の碑」の碑文の晴れやかさと合わせて考えさせられることしきりです。

 偶然ですが築地の通りで懐かしい後輩D君と出会いました。まだ紙のカタログが断然有力だったころ、制作現場で苦労を共にしました。とくにきつかったのは深夜近くまでの商品撮影の立会いでした。クライアント側からの立会いはきびしい眼鏡女史でした。撮影が終わって、呼んでおいたハイヤーに乗っていただいて女史を送り出すと二人で顏を見合わせてため息をついたものです。あの種のカタログもおそらく今は電子メディアに切り替わっているはずです。

 そういえば碑のとなりに小さな手打ちそばの店が出来ていました。「年越しそば」の看板が出ていて覗き込んだ店内は満員、5.6人が行列をつくっておりました。

 あんまり冴えない報告になってしまいましたが、ご愛読ありがとうございました。2015年、来年もよろしくお願いいたします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京タワー遠景

2014-12-28 13:34:22 | 活版印刷のふるさと紀行

 


 いよいよ今年もあと4日、なにもかもが思うに任せないのに人並みにあわただしい気分に駆られています。このところ西片にはときどき顔を出すだけで、もっぱら豊洲で寝起きをしています。

 豊洲が気に入っている点は生まれてこのかたウォーター・フロントに縁がなかったものですから,晴海運河沿いや隅田川沿いを歩く心地よさ、高層ビルが多いだけに周辺緑地が多く意外に緑が楽しめること、ララポートやトリトンのようにウインドウショッピングのできる大きな施設が近いこと、ちょっと歩けば深川のような下町情緒にも触れられるし勝鬨橋を渡れば銀座という地の利も便利です。

 これは計算に入れていませんでしたが、夜、パソコンから目をあげるとベランダ越しに広がる夜景がきれいです。写真の中央の光が東京タワーです。ですからタワーをはさんで画面右の方が築地や銀座左が晴海、東京湾方面です。東京タワーの点灯時間が変則で真夜中に目をあげると消えていたり、夜明け近くまでついていたり、かなりこまめに色が変わるのも豊洲で知りました。この夜景、ニューヨークにも似ていますし、ドバイのクリーク越しの風景にも似ています。

 話は突然変わりますが、私はNHKラジオの「深夜便」ファンで、毎晩、聞きながらモノ書きをしております。たったいま、五木寛之さんの「歌の旅びと」で鳥取がとりあげられていました。それで思い出したのです。鳥取砂丘でモード撮影がありました。カメラは」佐々木照男さんでした。3日間の滞在中ホテルのそばの飲み屋に通いました。店まで自転車で通勤しているというかわいい娘さんはわれわれを砂丘で仕事をしていると信じて疑いませんでした。撮影の立会いで日焼けしていたから無理もありません。あの娘さんはいま、高校生ぐらいの母親になっているでしょう。遠くを見る思いで目をあげたら東京タワーは消えていました。





 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黄葉・紅葉,一転「大雪」

2014-12-18 11:31:36 | 活版印刷のふるさと紀行

 足助に香嵐渓の紅葉を訪ね、黄葉もいいなあと思ったのがつい昨日のように思われますが、あれからほぼ1ヶ月、とはいうもののまだ師走の声を聞いたばかり、なのにテレビが北海道や東北、北陸の大雪被害を伝えています。 そうしたら今朝は名古屋の積雪風景を映しだしておりました。名古屋の奥座敷の足助、あの黄葉もおそらく雪をかぶっているのにちがいありません。そういえば足助の宿の名前を「百人草」と誤記していました。「百年草」の誤りです。ごめんなさい。ご指摘感謝。

 さて、ほぼ1ヶ月、ブログに穴をあけてしまいました。衆院選挙は関係ありませんでしたが、個人的には大腸の内視鏡検査を受けたりして結構、結果が出るまで心配の日々でした。おかげさまで結果はOKでしたが、ポリープをとったので、安静のため1日入院をさせられました。生まれてはじめての入院体験でした。安心したからには、 そろそろ賀状にもかからねばなりませんし、締め切りを延ばしてもらった原稿にとりかからねばなりません。

 ところで足助の百年草に訪ねてくださった先輩のKさんが「「ミネアサヒ」という新米を送ってくださいました。コシヒカリの親戚だそうですが、「無農薬で、三河の太陽を存分に浴びた自慢の米」という折り紙つきだけに、そのウマイこと。これに元気づけられて年末をひと頑張りすることにします。

 その先輩は足助近くの野口というところに住んでおられるのですが、野口雨情のご先祖とゆかりの土地らしいのです。雨情のご子息とは同級生でしたから、こんどその辺について聞いてみたいと思います。



 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あれは秀吉の茶羽織だったか

2014-12-07 11:17:21 | 活版印刷のふるさと紀行

 3日目は名古屋の徳川美術館の蓬左文庫で催されている『古典文学の世界 大名文化と古典』が訪問目的でした。、国宝の源氏物語絵巻はもちろんのこと、おそらく江戸時代の大名家で大事に収蔵され大名家子女の学習対象になったはずの古典作品が見られるというので張り切って入館しました。

 最初に尾張徳川家の蔵書目録に「サスガー」と感心してから、四書五經、白氏文集、三国志など中国古典の世界を見てまわりました。いつか印刷博物館の勉強会で「本場の中国や韓国よりも日本の方に保存状態の良い渡来蔵書が残っている」と聞いたことがありましたが、朝鮮王朝時代の『五経大全』などを見ると「なるほど」と思った次第。

 次が日本古典の展示です。『古事記』や『続日本記』など歴史書に始まって、『竹取物語』、『伊勢物語』から『土佐日記』や『方丈記』など室町から江戸にかけての時代物がズラリと並んでいました。おもしろかったのは姫君たちの調度本として絵本風の『源氏物語』や『つれづれ草』がかわいらしい書棚箪笥とともに展示されていました。おそらく、テレビの時代ものには姫君の読書シーンなど出て来ませんが、調度とあるからには絵本がアクセサリーだったのでしょうか、それともこれで勉強したのでしょうか。

 個人的には徳川美術館本館の企画展示『装いの美』が印象に残りました。-大名のおしゃれーというサブタイトルがついていましたが、古くは大名が身に付けた直衣や狩衣のような装束から子女の小袖や化粧道具、明治初期の大礼服やイブニングドレスまで「よくぞ保存されていたものだ」と感心しました。

 とくに記憶に残ったのは、たしか秀吉が着たという「辻ケ花染」の茶羽織の美しさでした。案内してくださったが学芸員の方が、布地物、とくに絹物の修復が難しいのは、「繭のちがい」にあると説明されていました。宮中で皇后陛下がなさっている養蚕でとれるような日本古来の在来種からとった絹糸でないとだめだという話でした。辻ヶ花染のような染色技法すら途絶えてしまったこうした名品が是非、いつまでも残ってほしいものです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古書ミュージアム「西尾市岩瀬文庫」

2014-12-06 10:28:01 | 活版印刷のふるさと紀行

  次に、私たち印刷文化史の研究グループ「神田川大曲塾、」研修旅行一行が訪ねた先が、日本初の古書ミュージアムと銘打つ西尾市岩瀬文庫でした。このめずらしい図書館?、博物館?は明治時代に愛知県西尾市で肥料商として産をなした岩瀬弥助という人が蒐集した8万点にも及ぶ蔵書の私設図書館が原点と聞きました。

 それを示す煉瓦造りの旧書庫の隣に近代的な岩瀬文庫の建物、閲覧室と常設展示室を有する本館がありました。驚いたのは図書館らしくない採光いっぱいの建物もさることながら、建物の内外あちこちに収蔵図書から選んだ資料がレプリカふうにコラージュされていたことです。

 熱心に館内案内をして文庫活動を紹介してくださった学芸員の名刺の所属が西尾市教育委員会文化振興課とありましたが、市内の小・中学生の課外学習で古書のいろいろ、出版や印刷の歴史などについて展示や映像をつかってわかりやすくレクチュアしておられるので。

 私たちに関係の深い印刷出版分野では印刷の歴史や活字のこと、装丁などについて図解パネルで説明されているのをうれしく拝見してきました。蔵書では後奈良天皇直筆の重要文化財の『般若心経』、江戸時代の博物図鑑ともいえる『本草図説』、朝廷の歴史本ともいうべき『続史愚抄』のような稀覯本から近代の洋装本までじっくり腰を落着けて閲覧したい宝の山とみました。

 名古屋から西尾までは名鉄で、西尾駅からバスまたはタクシーで10分ちょっと。ぜひ、訪ねてほしい古書ミュージアムです。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする