
という言葉が、つい先日見た映画の中に出てきました

海外の、キリスト教の思想が密接に絡まったような内容だったのですが、「確かに言われてみるとそうだなあ」……みたいに思ったというか。
もっとも、クリスチャンの場合、イエスさまを信じて聖霊さまの内住を経験したその瞬間から、「イエス・キリストの神性」を否定することはないことから――神さまの実在を疑うとか、「イエス・キリストは本当に神の子なのかどうか」ということで苦悩することはほとんどないとは思います。
ちょっとこの部分がおそらく、ノンクリスチャンの方には理解不能なところで、第一次世界大戦や第二次世界大戦のような神の存在をまったく否定して不思議でない過酷な状況がいくら許されようとも……「神さまがいらっしゃるなら何故


たとえば、浦上天主堂に原爆が落ちた時、被爆した信者の方々が、それでもなお礼拝を守ろうとするのを見て……治療に当たっていたお医者さんが、「この期に及んで何故神など信じていられるのか」と思い、最初は腹が立った、みたいにおっしゃっているのをテレビのドキュメンタリーで見たことがありました。でもその後、「あの時自分はこの上もない人間の尊厳を見たのだ」といったように考えが変わっていったと。
原爆が落ちたというほどのむごい悲劇でなくても、戦争、災害、新型コロナウイルスといった感染症など――どんな問題が起きてもクリスチャンといった人々は揺るぎなく神を信じ、イエス・キリストが神の子であること自体については一切否定することなく、疑うということがありません。神さまの実在を信じられなくなったり、イエスさまの神性を否定したくなる誘惑に駆られたとすれば、それは教会でイエスさまが主であることを受け容れる祈りをしたけれども、聖霊さまの内住を経験しなかったか、あるいは激しい霊的攻撃を受けているかのいずれかであろう……といったようにキリスト教徒は考えます(^^;)。
では、「神が実在すること」と、「イエス・キリストが神の子であること」を信者たちが聖霊のバプテスマを受けたゆえに一切疑わないのだとすれば、キリスト教徒、クリスチャンは一体何で苦悩し、疑うというのか?ということになりますよね。
クリスチャンにも当然、他の宗教を信じている人々と同様に「この世的苦労」や「この世的苦悩」といったものが存在します。イエスさまを主と信じて受け容れ、聖霊さまの内住を経験したにも関わらず、「この世的成功」や「この世的快楽」といったものに惑わされるあまり、教会から遠ざかったり、聖書も読まず讃美歌も歌うことなく何年も過ごすであるとか、そうしたことはあると思うんですよね。また、イエスさまをいかに信じていようとも、クリスチャンと呼ばれる人々も肉体的には不老不死でなく、病気にもなれば、いずれ死を迎えるということにもなります。また、交通事故にも違反切符を切られることとも無縁だ……何故なら神さまに毎日祈っているから!!ということもなく、事故に遭うこともあれば、スピードの出しすぎでパトカーに車を停められることだってあります

もちろん、信者たちにとってイエスさまは最強の神である方なのですが、それは彼がこの穢れた世にやって来られ、弱さの極みを我々人間のために経験してくださったからでした。一度は自分を信じた人々や、信頼していた弟子にまで裏切られ、十字架上では御父なる神とまで完全な霊的断絶を経験され……見捨てられた人の悲惨の極み、この上もない肉体的・霊的孤独を感じるまでに、我々人間をひとり残さず愛してくださったからでした。
しかも、ここまでなさってくださった上、イエスさまは復活してのち、自分を信じる者たちに聖霊まで送ってくださいました。これは、我々の霊に神さまの言葉が文字(律法)によらず刻まれたということであり、このことのゆえに、肉体上はどんな問題が許されようとも、信者たちはイエス・キリストの神性や、死後の永遠の天国について疑うことがないわけですが、それでも肉体にある間は、色々な試練や人生上の諸問題といったことには遭遇することになるわけです。
親から虐待された、家族の中で孤立し、孤独を感じている、不登校、引きこもり、職場での同僚や上司とのトラブル、病気や怪我、突然の思ってもみない災厄など……世の中には色々なことがあります。けれども、「懐疑家ほど良い信仰者となる」と言われるように、疑い深い人ほど、信じてのちは良い信仰者となり、神から離れることがない――というのも本当のことだと思います。つまり、深く重い問題を抱えているからこそ人は神という存在を求めるのであり、わたしもそうでしたが、日本ではキリスト教についてありとあらゆる悪い噂があるため、「まあ、キリスト教の神は本当の神ではない」と、わたしも実際のところ全否定しているところから信じたのです。
わたし自身はそのことを「神さまが召されたから」といったようにも、「ただのちょっとした偶然」とも思わず、本当に運が良かった、あるいは、イエスさまが他の人みなにもそうしてくださるように、砂漠の中から小さなゴマ粒でも見つけるように「なんでこんなところにゴマが?」といったように拾い上げてくださったから救われることが出来た……といったような出来事だったと思います。
けれど、砂漠の中からゴマを見分けられるほど目の良い方が、地上の人類のありとあらゆる苦しみや悲しみについて、これほど大きなものが目に入っていないはずがないのに、この地上は何故遥か昔より変わらないままなのか――ということ、こうした種類のことが、おそらくはクリスチャンにとっての苦悩であり、「何故なのかわからない」という疑いにも似た気持ちが心に生じる事柄でないかという気がします。
でも、「何故なのかはわからないけれども」、「そのような試練や問題が許されるのが何故なのかわからないけれども」、クリスチャンと呼ばれる人々はとにかく祈っています。何故なら、「それが何故なのか理由がわかったら神を信じよう」とか、「問題を必ず解決してくださる保証があれば、そのような神にであれば祈ってもよい」ということであれば……おそらくわたし自身、永遠に祈りはじめるようなことはないでしょうし、そうした態度で祈っていたとすれば、結局のところ長続きすることはないだろうと思われるからです。
こういった理由から、キリスト教徒、クリスチャンといった人々は、時々ノンクリスチャンの方からは偽善的に見えることがあるかもしれません。でも、神さまへの感謝は、基本的にあらゆる心配を跳ね飛ばすのに必要不可欠なものだと思います。どんな小さなことにも感謝の念を持つ……ということは、宗教の別なく、無神論の方にも人気のある考え方と思うのですが、マーリン・キャロザース先生の、「良いことも悪いことも神さまに感謝する」教えは、そうした一般論よりも遥かに飛び抜けていると思います。
あ、かなり前に「歯科通院しています」みたいに書いたのですが、ちょっと時間かかりましたが、歯がぴったり入りました。このこともイエスさまに聖霊さまを通して感謝していたら、「ここの歯医者さんか、この歯科医の先生と同じか、それ以上の技術のある先生じゃないとここまで良くはならなかっただろう

こんなことは小さなことかもしれませんが、歯のどこかが痛いと他のすべてが台無しなるように……イエスさまを信じることは本当に素晴らしいです。何故なら、「あなたの歯痛がわたしと一体なんの関わりがあるというのだ。そのような小さなことはひとりで耐え忍び、もっと大きな世界平和についてでも祈りなさい」というのではなく、「そうだよね~。歯が痛いと、他にどんな素晴らしいことや楽しいことがあっても台無しだよね~。今助けてやるから待っとき!!

そして、このことは聖霊さまの内住を受けたクリスチャンすべてが毎日のように経験していることであり、そんな小さなことでも心配してくださる神さまの愛に感動する信仰生活を送れる人々は本当に幸せでないかと思っています。
もちろんわたしも、世界平和について、イスラエルのことやウクライナのこと、国内外にある大きな問題について、同時に祈っていたりするわけですけれども

それではまた~!!

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