
【聖三位一体】マザッチョ
「1秒1秒、主に感謝♪(^^)」っていうのは、少し(かなり?)難しいことのような気がしますが、マーリン・キャロザースさんの「感謝と讃美の教え」の実践っていうのは、究極、そういうことなのかなって思うんですよね。
「じゃー、あんたは毎日一日24時間1秒1秒神さまに感謝し褒め称えてるってえのかい?
」っていうと、そんなこともなく、ちょっとしたことでイラっとしたりとか、不安に駆られたり怖くなったり、「あー、今日は一日中神さまに感謝できて良かったあ
」なんていうことは、まあまずほとんどないと言っていいような。。。
でも、それが人生の基本姿勢というか、外の天候に関係なく、人の心の中というのは晴れてたり、かと思えば曇ったり、雨が降ったり雷が鳴りはじめたり……ただ、そのたびにハッとして「そうだ!こんな時こそ主に感謝
」と思ってその基本姿勢に帰るということの繰り返しのような気がします。
もちろん、相手や誰かに怒りを発散したり、ひどい場合は神さまに文句を言ってしまったり、不満をつぶやくところまでいってから、「ううん、こんな時こそ主に感謝!!」となることもありますよね。
>>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章28節)
じゃあ、その「神さまに感謝し讃美する」というのは、結局のところ自己満足で、自分のため、自分の益のためでしかないのかというとそういうことではなく、「イエスさまに感謝し讃美する」というのは、人間の創造の目的に適ったことだから、ということでもあると思うんですよね。
聖書には>>神は愛です。(ヨハネの手紙第一、第4章16節)とありますが、神さまは人間を御自身で愛されるために創られました。
そして「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書、第43章4節)と、これもまた聖書に書かれているとおり、そのような目で神さまはわたしたち人間を見ておられる……ということなのだと思います。また、「御民を御自身の瞳のように守られた」など、人間のことをとても大切に扱ってくださることもわかります。
ただ、「そのように実感できない」という方のほうが多いというのはあるんじゃないかな、とは思うんですよね(^^;)
>>神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
(ヨハネの福音書、第3章16~17節)
とも聖書にはあるわけですけれども、このことも「いまひとつよくわからない
」というノンクリスチャンの方は多いかもしれません。
けれど、神さまの愛というのは聖霊さまの解き明かしを通して、心の目の曇りが取れるようにわかってくることなのではないでしょうか。
わたしも以前は、このことがよくわかりませんでした。というより、自分の息子を十字架にかけることで全人類の贖いがなされる……という、そのような残酷なことを通してしか、人の救いの達成がなされないということに、深い畏敬を感じるのと同時に「それを決断できた神を果たして愛の神と呼べるのだろうか」、「呼んでいいものなのだろうか」という矛盾が普通に考えた場合であればあるかもれません。
けれど、ここにこそ愛があるというのは、本当のことなのです。
かなり想像の難しいことですが、仮にわたしが自分の子……いえ、自分の子でなかったとしても、自分の姪、親戚の子、さらにはまったくの赤の他人の子供でも、その成長を見守り、愛してきた存在を十字架につける、彼(彼女)さえ犠牲になれば、それ以外の人類が子々孫々まで救われるのだ……とわかっていても、それは絶対にできません。
これも想像の難しいことですが、むしろ自分がその身代わりになりたいと願う人のほうが多いのではないでしょうか。おそらく、これを聞くと笑う方がたくさんいらっしゃるでしょうけれども、自分の飼っているペットだって、心から愛したもののことは十字架になどかけたくありません。
ですが、宇宙を創造し天地を創造された神は、このことを人類に対する計画として立て、かつ実行し、完遂されました。
正直なところをいって、イエス・キリストの御生涯というのは、極めて人間的な見方をすれば、悲惨極まりないものだったという気がします。貧しい生まれと育ち、それに華々しく福音宣教を開始したというよりも、イエスさまは御自身の語ることを本当の意味では悟らない、悟ることのできない無知な聴衆を相手に話をし、しかもそれらの人々がのちに自分を十字架にかける、あるいは信じた人々が悲しみに胸を貫き通されるともわかっていて――すべて「御父の御心のとおりに」事をなしてゆかれたのです。
さらに、このような無知な会衆を教えられ、教えられただけでなく、あらゆる病いや患いを癒され、また悪霊といったものに縛られている人々をも解放してゆかれました。その後、弟子の裏切りにあい、十字架刑という想像を絶する残酷な刑の頂点で、自分をこのような「世」という場所に送りだされた父なる神との霊的な断絶まで経験され……そして息を引き取り亡くなられたのです。
イエスさまはこの三日後に復活され、今も永遠に生きておられ、天においても個々の御自身を信じる者(クリスチャン)の信仰の中でも生きておられるわけですけれども、このことが聖霊さまを通して真理であることがわかるというのは――神さまの立てられたその完璧な御計画のゆえに、驚嘆し、思わず口を噤みたくなってしまうようなことです。
つまり、霊的に深いところで感じる畏れから、ということですけれども、神さまはこの福音の奥義を知った人々に、「ひとりでも多くの人にこのことを知らせなさい」ということ以外は、ほとんど何もお命じにならなかったといっても良いくらいではないでしょうか。
けれど、特に仏教以外の宗教――時にその仏教系の宗教でさえも――日本では非常に語ることが難しいという現実があります。それでも、わたしたちは喜んでいます。イエスさまが十字架にかかってくださったことで、神さまの愛がわかったこと、今を生きる一秒一秒を神さまに感謝し喜び、褒め称えるというのは……それほどの霊的に深いところから泉がわき溢れるのにも似て、表面的な心の喜びではなく、いつまでも心の奥底から枯れない生きた泉がわき出ることを喜ぶという、そうしたことなのです。
それではまた~!!
「1秒1秒、主に感謝♪(^^)」っていうのは、少し(かなり?)難しいことのような気がしますが、マーリン・キャロザースさんの「感謝と讃美の教え」の実践っていうのは、究極、そういうことなのかなって思うんですよね。
「じゃー、あんたは毎日一日24時間1秒1秒神さまに感謝し褒め称えてるってえのかい?


でも、それが人生の基本姿勢というか、外の天候に関係なく、人の心の中というのは晴れてたり、かと思えば曇ったり、雨が降ったり雷が鳴りはじめたり……ただ、そのたびにハッとして「そうだ!こんな時こそ主に感謝

もちろん、相手や誰かに怒りを発散したり、ひどい場合は神さまに文句を言ってしまったり、不満をつぶやくところまでいってから、「ううん、こんな時こそ主に感謝!!」となることもありますよね。
>>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章28節)
じゃあ、その「神さまに感謝し讃美する」というのは、結局のところ自己満足で、自分のため、自分の益のためでしかないのかというとそういうことではなく、「イエスさまに感謝し讃美する」というのは、人間の創造の目的に適ったことだから、ということでもあると思うんですよね。
聖書には>>神は愛です。(ヨハネの手紙第一、第4章16節)とありますが、神さまは人間を御自身で愛されるために創られました。
そして「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書、第43章4節)と、これもまた聖書に書かれているとおり、そのような目で神さまはわたしたち人間を見ておられる……ということなのだと思います。また、「御民を御自身の瞳のように守られた」など、人間のことをとても大切に扱ってくださることもわかります。
ただ、「そのように実感できない」という方のほうが多いというのはあるんじゃないかな、とは思うんですよね(^^;)
>>神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
(ヨハネの福音書、第3章16~17節)
とも聖書にはあるわけですけれども、このことも「いまひとつよくわからない

けれど、神さまの愛というのは聖霊さまの解き明かしを通して、心の目の曇りが取れるようにわかってくることなのではないでしょうか。
わたしも以前は、このことがよくわかりませんでした。というより、自分の息子を十字架にかけることで全人類の贖いがなされる……という、そのような残酷なことを通してしか、人の救いの達成がなされないということに、深い畏敬を感じるのと同時に「それを決断できた神を果たして愛の神と呼べるのだろうか」、「呼んでいいものなのだろうか」という矛盾が普通に考えた場合であればあるかもれません。
けれど、ここにこそ愛があるというのは、本当のことなのです。
かなり想像の難しいことですが、仮にわたしが自分の子……いえ、自分の子でなかったとしても、自分の姪、親戚の子、さらにはまったくの赤の他人の子供でも、その成長を見守り、愛してきた存在を十字架につける、彼(彼女)さえ犠牲になれば、それ以外の人類が子々孫々まで救われるのだ……とわかっていても、それは絶対にできません。
これも想像の難しいことですが、むしろ自分がその身代わりになりたいと願う人のほうが多いのではないでしょうか。おそらく、これを聞くと笑う方がたくさんいらっしゃるでしょうけれども、自分の飼っているペットだって、心から愛したもののことは十字架になどかけたくありません。
ですが、宇宙を創造し天地を創造された神は、このことを人類に対する計画として立て、かつ実行し、完遂されました。
正直なところをいって、イエス・キリストの御生涯というのは、極めて人間的な見方をすれば、悲惨極まりないものだったという気がします。貧しい生まれと育ち、それに華々しく福音宣教を開始したというよりも、イエスさまは御自身の語ることを本当の意味では悟らない、悟ることのできない無知な聴衆を相手に話をし、しかもそれらの人々がのちに自分を十字架にかける、あるいは信じた人々が悲しみに胸を貫き通されるともわかっていて――すべて「御父の御心のとおりに」事をなしてゆかれたのです。
さらに、このような無知な会衆を教えられ、教えられただけでなく、あらゆる病いや患いを癒され、また悪霊といったものに縛られている人々をも解放してゆかれました。その後、弟子の裏切りにあい、十字架刑という想像を絶する残酷な刑の頂点で、自分をこのような「世」という場所に送りだされた父なる神との霊的な断絶まで経験され……そして息を引き取り亡くなられたのです。
イエスさまはこの三日後に復活され、今も永遠に生きておられ、天においても個々の御自身を信じる者(クリスチャン)の信仰の中でも生きておられるわけですけれども、このことが聖霊さまを通して真理であることがわかるというのは――神さまの立てられたその完璧な御計画のゆえに、驚嘆し、思わず口を噤みたくなってしまうようなことです。
つまり、霊的に深いところで感じる畏れから、ということですけれども、神さまはこの福音の奥義を知った人々に、「ひとりでも多くの人にこのことを知らせなさい」ということ以外は、ほとんど何もお命じにならなかったといっても良いくらいではないでしょうか。
けれど、特に仏教以外の宗教――時にその仏教系の宗教でさえも――日本では非常に語ることが難しいという現実があります。それでも、わたしたちは喜んでいます。イエスさまが十字架にかかってくださったことで、神さまの愛がわかったこと、今を生きる一秒一秒を神さまに感謝し喜び、褒め称えるというのは……それほどの霊的に深いところから泉がわき溢れるのにも似て、表面的な心の喜びではなく、いつまでも心の奥底から枯れない生きた泉がわき出ることを喜ぶという、そうしたことなのです。
それではまた~!!

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