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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神学的深遠。

2021年06月09日 | キリスト教


 ――何故この世には悪があるのか?という難問について、哲学者のゴットフリート・ライプニッツは、こんなふうに言っているそうです。


・悪の問題

 ライプニッツ自身が一番深く悩んだのは「悪の問題(Problem of evil)」というものである。次のような問題である。

・全知全能で完全に善なる神様が、最良のものとして、「無からの創造」でこの世界を作ったのなら、なぜこの世界には痛みや苦しみ(つまりは「悪いこと」)があるのだろうか?


 これはライプニッツが想定していた神が、西洋における一神教的な神、つまり「全知全能で完全に善なる神」であることから来る問題である。すなわち論理的には次のような可能性が議論される。

・もし痛みや苦しみがない世界を「作れなかった」、または痛みや苦しみのある現在の世界を「修正できない」のであれば、神は全能ではない。

・または世界を作る際にやがて痛みや苦しみが生まれると「予想できなかった」、もしくは痛みや苦しみのある現状を「知らない」、というのであれば神は全知ではない。

・または痛みや苦しみがあることを知りつつ、かつそれを修復できるにも拘らず「放置している」のであれば、神は道徳的に完全に善なる存在ではない。
 
 もし上の可能性のどれか一つでもが成り立つならば、「全知全能で完全に善なる神」は存在しない。そうなるとライプニッツが神の存在論的証明の部分で用いた核となる前提、神があらゆる側面について最上級の性質を持つという前提は成り立たなくなる。つまりライプニッツの神の存在証明は破綻する。ライプニッツはこの問題に生涯難渋した。

 ライプニッツ自身が与えた悪の問題への解答は、次のようなものである。神による世界の評価の基準は、人間と似たものであるとは限らず、こんな世界であっても、神の観点からすればやはり最良の世界なのであろう、というもの。また、悪いことは、神が善いことを決定したあとに、受動的にくっ付いてきた程度のものであり、まず悪いことが望まれたわけではない、ゆえにこれは道徳的に受容可能なものである、といったものである。ここでいう「善いこと」とは人間への自由意志の付与である。悪の問題はユダヤ・キリスト教圏において紀元前から議論されている問題だが、現在も宗教哲学や神学の領域で議論が続いている。

(ウィキペディア様よりm(_ _)m)


 前回とその前の記事で、ルワンダ内戦で起きたジェノサイドと、新疆ウイグル自治区の人々の悲劇について少し触れました(また、個人的にはアメリカがそう認定したように、新疆ウイグル自治区で起きていることはジェノサイドと思います)。

 ルワンダ内戦が起きた当時、突然襲いかかってきたフツ族の人々は、ツチ族の人々にとって<悪>以外の何者でもなかったと思いますし、ウイグル自治区の人々にとって、強制収容所へ強制連行する、あるいはそうすべく強力に監視する漢民族の人々というのは、<悪>以外の何者でもないと想像します。

 また、こうした人類全体の抱える<悪>の問題というのは、人間が今のような社会的存在に進化して以降、ずっとつきまとわれ続けているような問題であり、歴史上に起きたあるひとつかふたつの戦争を取り上げるというのでなく、戦争というもの自体がまず<悪>と呼んでいいものではないでしょうか(「善い戦争」などというものがあったとすれば、それはあくまで勝った側の言い分ということです)。

 あるいは、戦争といった大規模な殺戮・略奪問題でなかったにしても、わたしたちが毎日ニュースを見ていれば、誰かが誰かを殺した――といった報道を見ない日のほうが少ないのではないかと思います(実際、世界規模で見れば、今この瞬間も殺人事件といったものは起きているわけですから)。

 では、わたしたちはこうした<悪>の問題をどうしたらよいのか……ということについて、哲学者の人々は長く論じてきたそうなのですが、わたしもまだ勉強している途中ですので、机上の空論以上に、納得できる理論のようものについて書いたりすることは出来ません。

 ただ、前回とその前の記事とで、「あなたは何故それなのに神を信じているのか」という問題が生じるように思いましたので、あくまでこれはわたしが考える、個人的な意見としてこう思っている……くらいのことなのだと考えてもらえれば、といったように思います。

 突然話が飛躍するようですが、「広島や長崎に原爆が落ちたのは何故か」、というのは、「神がいるのならば何故……」という問題を論じるに当たって、先のライプニッツの上げた問いに、これほど当てはまるものも他にないのではないでしょうか。

「そのことを神が許可したから」とか、「神は全知全能なはずなのに、それを止める力があるにも関わらず、そうしなかったのは何故か」、「あれほどの悲劇や苦しみを広島や長崎の人々に与えておいて、見て見ぬ振りをしていたのであれば、そのような存在は神ではない」、ゆえに「この世に神は存在しない」……論理的に考えたとすれば、間違いなく絶対にそうです。

 キリスト教の神学校では、こうした教え方はしないと思いますが、こうした答えのでない問題について、わたし自身はそれを神学的深遠と呼ぶことにしています。これは、戦争といった大きい規模の悲劇でなくても、わたしたち人間すべての人生に、最低でも一度は――というより、大抵の場合は幾度でも――起きてくることです。

 わたしにも、個人的な問題として「神がいるのならば何故……」と感じることがありますし、それは他のどんな人もそうだと思います。そして、ここで聖書の「出エジプト記」から少し引用してみたいのですが、ノンクリスチャンの方にはわたしの言いたいことは伝わりにくいかもしれません(^^;)なんにしても、モーセが「わたしはある」という名の神に語られて、その言葉に従い、エジプトへ向かおうとした時のことです。


 >>主はミデヤンでモーセに仰せられた。

「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ」

 そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。

 主はモーセに仰せられた。

「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行なえ。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。
 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。
 主はこう仰せられる。
『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。
 そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す』」

 さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。

 そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。

「まことにあなたは私にとって血の花婿です」

 そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。

(出エジプト記、第4章19~26節)


 ここは聖書中でも、特に難解と呼ばれる箇所で、これからイスラエル民族を救うべく、エジプトに十の災いを下し、さらには紅海を割るという奇跡を行なう器であったモーセを、神は何故殺そうとしたのか……正直、意味がわかりません(^^;)

 それでも一応解釈のほうはいくつかあったりするわけですが、それはさておき、わたしたちに神を理解することは出来ない、また、わたしたちにとって、神を理解することは限界がある……というのは、間違いなく確かと思います。

 また、にも関わらず「クリスチャンが偽善でなく神を信じることが出来る理由」については次回以降に回しますが、<悪>という問題に関していえば、まずわたしたち自身が悪を内包した存在である――というのは、まず間違いのないところです。

 とりあえず、今という今日のこの日まで、わたしは刑務所に入るような罪だけは犯してきませんでした。けれどもそれは、日本という比較的平和な国に暮らしているそのお陰であって、自分の置かれた状況や環境、あるいは受けた教育の質などによって、人間が悪を犯す度合いといったものは、いかようにも変化するというのは、誰しもが認めるところと思います。

 太平洋戦争中、また戦争直後、「毎日食べ物のことしか考えていなかった」、「また、人間が明日食べるものが何もないとなれば、いかに餓鬼道に落ちやすいか」、「今の物質的に豊かな人々に論理でなく実感として理解してもらうことは難しい」……そのようにおっしゃっている作家さんの言葉を聞いたことがあります。またそうなれば、「持っている他の人から自分や、自分の身内の人に与えるために奪う」というために、善なる道徳観など、ギリギリの状況に追い込まれれば、すぐにもどこかへいってしまうことでしょう(あるいは、激しく葛藤したのちに、結果としては同じ罪を犯してしまうか)。あるいは、人に怪我を負わせたり、殺すことさえして食べ物を奪うことに対しても、なんら罪悪感を覚えない可能性すらあるかもしれません。

 こう考えていくと、今この瞬間、醜くおどろおどろしい花を咲かせていなかったとしても、わたしたちひとりひとりの心に、悪の根、それがいつか育って大輪の花を咲かせるかもしれない種のようなものは、わたしたちひとりひとりの中に十分ばらまかれている、ということになります。

 わたしが考えるに、わたしが今この瞬間、裁判にかけられて刑務所にいないのは、一重に運が良かったというそのためと思います。そして、わたしがイエス・キリストを信じ、祈るのは、「おお神よ、このような運のいい時代にわたしを誕生させ、罪を犯さないためのそこそこいい教育も受けさせてくださって、本当にありがとうございます!」といった、そのようなことのためではありません(もちろんそうした部分もありますが、根源的には違うという意味です)。

 教会で毎週唱えられる主の祈りの中に、「わたしたちを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ」という言葉がありますが、「わたしをも、他のすべての人々をも、そのようになさってくださる神こそ、真実なるまことの神です」ということです。

 もちろん、今現在世界のすべてにおいて、そのようになってはいません。またいつかそのようになる、世界を回復させうる見込みのようなものもないように思います。また、こうした神学的深遠に関わる問題について祈っていると、まるで自分の祈りの声がブラックホールにでも吸い込まれるように、まるで無意味で虚しいことのようにしか思えないこともあります。

 ですが、神さま、イエス・キリストの臨在する光り輝く世界というのでしょうか。わたしたち人間が内包する<悪>が一切存在しない世界(すべての悪が一掃された世界)、そこが天国でもあるわけですし、わたしたちは生きている間は己の内に悪というものを抱えつつ、時に隣人のなす悪に耐えたり苦しんだりということも経験し、自分もまた「そのような目に遭ったから」というので、また別の人に同じ悪を加えてみたりと……何かそんなことの繰り返しによって生きている――そう考えていくと人間というのはまったく、救いようのないどうしようもない存在以外の何者でもないのではないでしょうか。

 神さまはよく、「こんな悪に陥りやすいゴミなど見捨ててしまおう」とお思いにならないものだなと思うことがありますが、けれども、神さまの見方とわたしたち人間の見方が、これもまた違うので、イエスさまは「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書、第43章4節)と、そのようにおっしゃってくださるのだと思います。

 結局のところ、人間の限界ある知恵によってでは答えの出ない問題でもありますので、今回はこのあたりで文章のほうを終わりにしておこうと思うのですが――次回はたぶん、「神は、脳がつくった」という本に関連して、こうしたこととも関わりのあることを書いてみようと思っていますm(_ _)m

 それではまた~!!
 




 >>いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、
 その名を聖ととなえられる方が、
 こう仰せられる。
「わたしは、高く聖なるところに住み、
 心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
 へりくだった人の霊を生かし、
 砕かれた人の心を生かすためである。

 わたしはいつまでも争わず、
 いつも怒ってはいない。
 わたしから出る霊と、
 わたしが造ったたましいが衰え果てるから。

 彼のむさぼりの罪のために、
 わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
 しかし、彼はなおそむいて、
 自分の思う道を行った。

 わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。
 わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、
 慰めを報いよう。

 わたしはくちびるの実を創造した者。
 平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。
 わたしは彼をいやそう」と主は仰せられる。

 しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。
 静まることができず、
 水が海草と泥を吐き出すからである。

「悪者どもには平安がない」と
 私の神は仰せられる。

(イザヤ書、第57章15~21節)






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