神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

無限の愛。-【2】-

2017年02月02日 | キリスト教
【ゲルニカ】パブロ・ピカソ


 たぶん、このブログ全体の記事として、今まで一番多く読まれてるっぽいのが、実は「あの頃はフリードリヒがいた」だったりします

 それでわたし今、「イエスの渇き」という本を読んでいるのですが、その中にこうした文章があるのを見つけました。。。


 >>アウシュビッツでの祈り

 第二次世界大戦中ユダヤ人虐殺が行われていたとき、一人の若い女性は彼女なりに神はわたしたちを必要とされることを理解しました。1943年11月、アムステルダムの29歳のユダヤ人エッティ・ヒレスムはアウシュビッツで亡くなりました。次のような言葉で終わる感動的な日記を残しています。「わたしたちはこんなにも多くの傷に注がれる香油となることができる」

 彼女の霊的変遷には驚くべきものがあります。神ご自身が彼女を徐々に神の渇きに導かれたのです。神が住まわれる心の内的泉から水を汲みに行きました。そこにひざまずいて人びとの苦しみへの共感の生きた水をわきあがらせました。神を助けることができると確信し、神のために一人ひとりの家を神の住まわれる至聖所としたいと思いました。

「神さま、お約束します。わたしはできるだけ多くの人びとのうちにあなたの居場所を見つけましょう。まだ空き家がたくさんあります、そこにあなたを貴賓としてお連れしましょう」

 アウシュビッツのナチ強制収容所のガス室で定期的に行われた人類の苦悩がエッティを通りぬけたとき、彼女の命と神への信仰は決して消えることはありませんでした。

「本質的に命はすばらしい、時として邪悪な道にそれることがあっても神の過ちではない。それはわたしたち人間の過ちである。これがわたしの最後の言葉。今死を前にして、またたとえポーランドに家族といっしょに送り返されることになっても」

 ある日曜日の朝、彼女は美しい祈りを書きました。

「神さま、今はおそろしい恐怖の時です。今晩はじめてわたしは暗闇の中に横たわり、人びとの苦しみが後から後から繰り広げられるのを見ました。神さま、一つのこと、とても小さなことですがお約束します。明日について心配しないで今日を過ごすこと。それにはちょっとした工夫、実践が必要です。毎日、その日の労苦はその日で足りる。

 神さま、わたしはあなたを助けたい、わたしのうちにあなたが生きつづけられるように。でもまえもって保証はできません。一つのことがますますはっきりしてきます。あなたがわたしたちを助けるのではなく、わたしたちがあなたを助けることによって、わたしたちは自分自身を助けるのだということが。これがこの時代にわたしたちができること、そして本当に大切なこととは、神さま、わたしのうちに、そして、たぶんほかの人びとのうちにも、あなたが多少なりとも生きつづけられることなのではないでしょうか。

(『イエスの渇き~小さきテレーズとマザー・テレサ~』ジャック・ゴティエさん著、伊従信子さん訳/女子パウロ会刊)


 いえ、あのような絶望的な状況の中……このような祈りを捧げることが出来るって、彼女の神さまへの信仰の深さと愛に、心からの感動と涙を覚えます


 >>本質的に命はすばらしい、時として邪悪な道にそれることがあっても神の過ちではない。それはわたしたち人間の過ちである。


 元の情報が不正確で申し訳ないのですが(汗)、確かガス室って、処刑する人間の心理的及び物理的負担を減らすことを目的に使用することが検討されたって言いますよね。つまり、銃殺刑というのでは、(こういう言い方はどうかと思うのでずが)手間がかかりすぎるし、処刑する側の心理的負担も重い。その点ガス室なら……ということで、あのような残酷なことがどんどんエスカレートしていった側面があるのではないかということでした。

 これもまたNHKで見た番組だったと思うのですが、やっぱりあれだけたくさんのユダヤ人の方が処刑場所へ集められてきたわけですから、その中で移動途中、あるいは収容所では赤ちゃんも当然生まれて……その子たちもまたすぐに死ぬ運命にあったわけですけど、やっぱり「世話をしたところですぐ死ぬのにどうする」というのではなく、「赤ん坊を見ていて世話をせずになどいられるものですか!」という女性が、ご自身も死ぬ直前まで赤ちゃんのお世話をしたりということがあった、とのことでした。

 やっぱり、なんていうか、赤ちゃんって生命の塊そのものっていうところがありますよね。けれど、自分もいずれ死ぬし、この子たちもみんな死にゆく運命なのだとわかっていても、出来るだけのことをせずにはいられない……そして、この時アウシュビッツを生き伸びた人々がそうしたことを後世の人々に伝えたって、本当にすごいことだと思います

 アメリカではトランプ政権が誕生し、欧州でも民族間の対立が難しい問題としてさらに新しい局面を迎えているように思います。先日ネットで、「こういう時こそ我々は過去から学ぶべきだ」と、アウシュビッツを生き延びたおじいさんが話しているのを見て……もちろん、わたしに特に何か出来ることがあるというわけではないですけど(汗)、色々と考えさせられました。


 >>イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。

「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」

 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。

「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」

 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。

「人に惑わされないように気をつけなさい。

 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

(マタイの福音書、第24章1~13節)

 
 アウシュビッツは遠い昔の出来事ではなく、おそらく再び似たようなことが起きてくるだろうと言われていますよね。

 そしてその時に迫害されるのは、わたしたちクリスチャンではないかと……実際、イスラム教を信じている方のご家族は多産ですし、近い将来人口的にはキリスト教圏の信仰熱心な人々の数よりも、ムスリムの方のほうがそれをさらに上回ると言います。

 そして、イスラム教信者の方というのはとても信仰熱心ですから、数の上でムスリムの方が上回った場合――イスラム教信者の方を悪く言いたいわけではないのですが、「キリスト教から回心したら命は助けてやる」、「そうすれば、おまえだけでなくおまえの家族の命も助けてやろう」……といったことが、実際に現実として起きてくるのではないでしょうか。

 日本の場合は、自ら「わたしはクリスチャンです」と名乗っている時点で、信仰深い方の率のほうが高いと思うのですが、そのあたり、欧米の場合は「両親が洗礼を受けさせてくれたが、わたし自身はキリストを信じているわけではない」とか「キリスト教と仏教とギリシャ哲学を混ぜたものがわたしの宗教だ」など、人によって本当に多様なのではないかという気がします。

 そしてそこに、何かの圧力が加わったとすれば、いわゆるキリスト教から「転ぶ」方の数というのは物凄く多くなる可能性があるのではないでしょうか。

 欧州では、シリアやアフガニスタンの難民の方などを受け入れ、その人々が性犯罪や殺人などを犯すという事件があって、その後政策のほうをどうするのだろう……と思ったりしています。ムスリムの方はひとつのところに根付くと、人口的にはあっという間に増えるでしょうし、労働に従事してもらうことで国も経済的に潤うとか、そううまくいくだろうか、というか、それよりもマイナスのことが多く積み重なっていったら、戦争になる大きな契機が生まれるということにもなりかねない気がします。

 日本に入ってくる情報ってアメリカ経由のことが多くて、欧州からの情報はその次といった扱いなので、ちょっと向こうに住まれてる方が皮膚感覚的にこの問題についてどう思っているのか、トランプ政権のことより掴みにくいところがあるんですけど、わたし自身はいずれ大きな戦争に発展しかねない種、あるいは聖書の終末の扉を開くかもしれない種というのは、すでに世界中に蒔かれているような気がしてなりません。

 なんにしても、わたし自身は祈ることより他に出来ることは何もないので、自分的には携挙希望だけど、その前に戦争が起きるのを間のあたりにするのは嫌だから、その前に死んだほうがいいのかな……いや、迫害に遭っても信仰を守り通せるようにしなくちゃ!など、たまに考えたりしております(え?たまにじゃダメだよ!笑)

 ただ、エッティさんのように、仮に自分が最悪な状況に置かれたとしても、彼女のように神さまにより頼む生涯を終えることが出来たならと、そのように望んでいます

 それではまた~!!




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