神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

自己愛と囲い込み、そして出刃包丁。

2021年01月26日 | キリスト教
【いつもとは違う雰囲気ではじまった3分クッキング】


「自己愛と囲い込み、そして出刃包丁?一体のなんのこっちゃら☆」というタイトルですが、一応順番に説明してみたいと思います(^^;)

 以前、こうしたお話を聞いたことがありました。長く引きこもってる息子さんがいて、そのお父さんというのがわりと世間体を気にする方だったらしく……「自分の息子が引きこもってるのは、息子自身に問題があるのであって、自分や妻の育て方が悪かったからではない」――といったことを、親戚や隣近所の親しい方などに話して聞かせたらしいのです。

 それでまあ、なんというか、親戚が家に遊びに来ている時とか、あるいは電話などで、息子さんが聞いている可能性があるにも関わらず、「それが嫌なら外に出て働けい!」とばかり、むしろ大声でそのことを話したくて堪らない――といった態度だったらしく。。。

 ほどなく、この息子さんはいたたまれなくなって家から出ていったそうですが、「時々、テレビの引きこもりの息子が親父を刺した、親父が息子を刺したっていうようなニュースがあるだろ?うちも一歩間違えば同じだったと思う」、「ただ、あの親父はオレにとって殺すほどの値打ちもない人間だったし」、「あんな親父を殺して刑務所生活なんていうのも割が合わないと思って」……とのことでした。

 話は変わりますが、「囲い込み」ということについて、もうひとつわかりやすい例について書きたいと思います。

 とある男性A氏が、フィリピンの女性と結婚したのですが、結婚して数年後、彼女と離婚して別の女性と結婚したいと考えるようになったそうです。実はこの時、すでに相手女性とは不倫関係になっていて――A氏としては、あとはただ現在の奥さんと離婚すればいい……といった考えだったらしく。。。

 ところで、このフィリピンの女性は日本語があまり上手ではなく、自分の旦那さんや身近な友人の方とであればともかく、初対面の人などとはあまりうまく会話ができないとのことで、時々悩むことがあったといいます。ところが、ですね。この時このA氏、その部分をうまく逆手にとって、自分の親戚筋や共通のつきあいのある友人などに、「今の妻は△□だから別れることにした」といったように、吹聴してまわったといいます。

 これがようするに「囲い込み」ということで――そもそも、外国の女性と結婚したことをあまり快く思ってなかった親戚の人々などは、「ああ、そりゃ良かったね」くらいの反応だったといいます。けれども、このことを奥さんが知った時、烈火の如く怒ったそうなんですよね。もちろん、誰がどう聞いたって「そりゃそーだろ☆」って話ではあるのですが、何より、この奥さんとしては怒りのもって行き場がなかったわけです。

「まさか、向こうがそう言ってまわったあとで、「実際にはあの人の浮気が原因だ」と、親戚の全員に電話するってわけにもいかない」、「もし、向こうが他に好きな人が出来た。別れて欲しいと言っただけでも、結構な喧嘩にはなったと思う」、「でも、これほど苦々しい気持ちや、「心底あいつが憎い」といった気持ちにまではならなかっただろう」……ということでした。

 この「囲い込み」っていうのは、たぶんいじめなどでも同じなのかなと思います。相手に弁明する機会を奪っておいて、どんどん囲い込んで追い詰めていく――といった意味あいにおいて。

 そしてここで、「自己愛」ということに話を移したいと思います。

 わたし、この話を聞いた時、引きこもりの息子さんのことを、親戚などに色々言って、「だから自分は悪くないんだ」といったように仕向けていったこのお父さんの行動は、おそらく自己愛が根底にあるのではないかと思いました。本当は、親戚や隣近所の人に対してではなく、息子さん本人と真摯に向き合って、「それで、おまえは実のところ毎日部屋に閉じこもって何を考えてるんだ?」とでも、少しずつ聞いていくべきだったのではないでしょうか。

 でも、そうするよりも、「自分は悪くない、息子のことは正しく教育した、私に非はない」といったように話を持っていくほうが、もちろんこのお父さんにとってラクだったでしょうし、そうすることである部分(一時期的にせよ)スッキリする部分もあったのでしょう。

 また、A氏に関してはこのお父さん以上に弁明の余地はない気がします(^^;)

 わたしも、時々話を聞いていて思うに――「実は不倫している」、「今の妻と別れて本当は愛人と結婚したい」方というのは、実際のところ結構いると思います。でも、大抵の男の人はずるいので、それを行動に移すまでの勇気がなく、先延ばしにしがちというのか、「そうできたらいいんだが……」と思いつつ、いつしか愛人に愛想を尽かされるなど、そうした話というのは世間には掃いて捨てるほどあるものなのでしょう。

 ところでA氏に関してですが、この方の場合もやはり同じで、自分が悪いにも関わらず、やっぱり実際離婚したとなると、会社の上司や同僚にも説明しなくちゃいけないし、親戚などからも「なんでだ!?」みたいに当然聞かれることになるわけですよね。そういう時に、「いやあ、実はオレの不倫が原因でね」みたいに言える人というのは、ドラマなどと違ってあまりいらっしゃらないと思います。

 そこで、世間体を気にしていないようで気にするA氏は考えた。「フィリピン人の女性をもらったはいいけれど、実は△□だった」とか、自分にとって都合のいい理屈を周囲に話して聞かせ、「だから離婚したといっても、自分に非はない」というのでしょうか。何かそんなふうに話を持っていこうとしたものと思われます。

 これはもう本当に、完璧な自己愛ですよね(^^;)

 さらにここで最後に出刃包丁ですが(笑)、引きこもりのこの息子さんが出刃包丁でお父さんを切りつけたり、あるいはこのフィリピンの女性が夫に対して気が狂ったように出刃包丁を振り回したとしても――他人の家庭の話として聞く分には、「むしろそっちのほうが当然なんじゃねーの?」と思える部分が、かなりのところある気がします。

 ここでちょっと話のほうが飛ぶのですが、「囲い込みと自己愛」ということについて、このふたつのケースをわたしが思いだしたのは、実は某新聞発行の記事を読んでのことでした。アメリカという国がテロリストをやっつけてまわっているのは、「自分を傷つけられた」ことに対して「自己の尊厳を回復するために」やっているという意味では自己愛である、と。そして、アメリカから逃げ場がどこにもない形で囲い込まれ、やっつけられている国々や、そのとばっちりを受けた人々は、決して米国を許すことはないだろう、と。

 う゛~ん。とても短い記事だったのですが、自分的にすごく考えさせられるところがありました。やっぱり人間、「自分の身が一番可愛い」というのか、「結局のところ人間というのはどこまでいっても自分本位のエゴイスト」っていう部分は、誰しもあるとは思うんですよ。

 でも、先のお父さんやA氏ほどでなくても――「『わたしのこの行動は決して自己愛に発するものではない』と言い切れる行動を、今までの人生で一体何回くらいとったことがありますか?」なんて聞かれた場合、わたし自身、なんとも心許ないなと思いました(^^;)

 また、学校や職場などにおけるいじめなどもそうでしょうが、「自分に面倒がやってこない限り関わりたくない」といったように思うことで……自分も誰かを追いつめる「囲い込み」という行動に参加していないと言い切れるかどうかなど、暫し考えてしまったので、こうして記事にしてみることにしました。。。

 ところで、イエスさまは自己愛の人でなかった、人類史上稀に見る人物だったのではないでしょうか。自分以外の、すべての人類が救われるために十字架におかかりになり、究極の自己犠牲をわたしたちのために支払ってくださいました


 >>『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。

 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。(※1ミリオン=約1500メートル。2ミリオン=約3000メートル)。

 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。

 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。 

(マタイの福音書、第5章38~48節)


 この方を神として、また人生の師として仰ぎ見つつ、その生涯に倣う者とされていきたいと願います

 それではまた~!!






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