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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

聖なる楽しみ。-【19】-

2019年05月27日 | キリスト教
【知識の樹】ルーカス・クラナッハ


 彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

(ピリピ人への手紙、第3章19節)


 >>あるいは、いつも何かおいしいものを食べていないと幸せでないなら、これも困ったことです。食べ物が快楽や、慰めや、満足感のもとになっているからです。他の人たちがのめり込んでいるような娯楽には全然興味がないので、自分は関係ないという人がいるかもしれません。

 しかしあなたの楽しみはただ単に食べることかもしれません。人が周りにいてもいなくても関係ありません。もし自分が好きな物を食べ、食べたい時に食べ、食べたいだけ食べることができるなら、他の快楽を自由に拒絶できます。あなたにとって、素晴らしい夜の外出とは、豪華なレストランに行き、思う存分満喫することです。

 食べ過ぎたり、悪いものを食べたりすることは、他のどんな原因よりも病気や死を招くことになると多くの医師は認めています。そのことに注目する必要があります。

 食べ物はサタンが武器の一つとして用いて、私たちが神様に仕えようとする能力を滅ぼそうとすることに使うことがお分かりと思います。サタンは最初から存在しているのです。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 今回の第18章「食べ物と楽しみに足を引っ張られる」については、マーリンさんの文章に関連して、「ダイエット」ということについて何か書いてみたいと思いましたm(_ _)m

 クリスチャンが食欲に攻撃を受ける……というのは、時として確かにあることですが、一般的にいって、肥満の原因は遺伝的なものやその方の体質などに起因している場合が多いのではないでしょうか。

 つまり、痩せている方は痩せやすい遺伝子を持っていて、太っている方は太りやすい遺伝子を持っている、あるいは体質としては、少し物を食べただけで満腹中枢からすぐにサインが出る方と、十分たくさん食べても満腹中枢からサインが出ない、そのサインが伝わりにくいというか、何かそうしたことがあると思うんですよね。

 アメリカなどでは、太っていると「自己管理能力が低い」として、就職などにも差し障りが出ると聞いたりしますが、日本では太ってるって、そこまでマイナスには受け取られないというか、逆に好感を持って受け止められる場合も多いと思うんですけど、わたしの思い違いでしょうか(「いや、デブはデブってだけで、デブって言われて馬鹿にされんだよ!」とか、色々あるかもしれませんが、自分的にはそう思うというか^^;)

 マツコ・デラックスさんや渡辺直美さんやホンジャマカの石塚さん、ブルゾンちえみさんなど、芸能人の方でこれほど「いや、嫌いな人いないでしょ☆」っていうくらい広範囲に好感を持って受け止められる方はいないと思いますし、じゃあ健康以外に心配すべきことは何かというと――やっぱりそれは「人間関係の鏡」的なことなんじゃないかなっていう気がします。

 太っているということでなくても、人は色んなことでコンプレックスを持っているのが普通ですよね(当然わたしもそうです・笑)。そして、人間関係的なことでうまくいかなかった時、「自分は太っているからダメなんだ」、「容姿的に○△だから人に受け容れられないんだ」……などなど、その部分が解消されれば、きっと自分の人生はうまくいくようになると考える、というか。

 前に、女優の有村架純さんのお姉さんの有村藍里さんが整形手術を受けるテレビ番組を見たことがあったんですけど……その時、有村藍里さんがネットなどを通した人の言葉にどのくらい傷つき、整形を決意したか、また、その口元の整形についてもそう簡単な種類のものではなく、いかに痛みを伴うものであったか――といったことを見て、すごく気持ちわかるなあ、と思ったりしました

 そして、一度こうしたことが色々わかってみると、有村藍里さんの好感度は急上昇し、ツイッターのフォロワー数も以前以上に急増したということだったんですよね

 その、これはあくまでわたしが思うに、ということなんですけど……ある部分、コンプレックスというのは、むしろ逆に人から好かれる大きな要因になることがありますし、自分的には「生まれ変わったら美人に生まれたい」というより、「そうした容姿の優劣を気にしない人間として生まれたい」といったように思います(いえ、キリスト教的には生まれ変わりってないんですけどね^^;)。

 なんていうか、自分が容姿的にコンプレックスがあっても、人と比較して変に卑屈になるでもなく、あるいは「少なくともあの人よりはいく分かマシだ」といった変な優越感を持ったりですとか、そうした考え方をしない人間として生まれたいと言いますか。。。

 でも当然これはとても難しいことだと思いますし、顔のコンプレックスに関しては「整形」っていう手段があるにしても、お金のかかることなので結構そこを乗り越えるのって大変と思うのですが――「太っている・デブ」ということに関しては、今すぐにでも食欲を節制すればよい……ということになり、そういう意味でちょっと難しい部分があると思うんですよね

 つまり、「怠けている・努力してない」、「ただ堪え性がないだけ」、「もっと我慢すればいいだけ」……など、過酷なダイエットに嵌まってしまった方の中には、そうした幻聴が聞こえてくるという、そうした病気になってしまった方もいると聞いたことがあります。

 わたし的に、ダイエットということに関して思うのは――もちろん、痩せていたほうが健康ということに関してはいいと思うんですけど、結局のところ太めの容姿を「人が見てどう思うか」、「人にどう見られるか」という問題であるような気がしています(^^;)

 なので、学校や職場においてなど、まわりの方がそうしたことについて何も言わなかったとすれば、そのまま特に何も気にしないで過ごす……という場合のほうが多いのではないでしょうか。けれどもそうではなく、何かの拍子に人から「太っている・デブ」といったことを指摘され、それで大好きな甘いものと決別したり、食べ物を節制することを考えはじめる――ということになると思うんですよね

 ええと、これはあくまでわたし個人の考えなんですけど、世の中には「太っている・痩せている」といったことより遥かに重要なことがたくさんあると思います。つまり、「そんなことには関係なく個性や性格のほうを受け入れてもらえる」環境にさえあれば、仮にダイエットを決意したとしても、それほど病的になることはないと思いますし、拒食症(過食症)といったことにもならなくて済むのではないでしょうか。

 かなり以前、テレビで「ダイエット合宿」というのをやってるのを見たことがあるんですけど、あれ、なんかすごくいいなって思いました♪参加されるのはみんな太ってる方ばかりなので、「悩みが一緒」ということですぐ仲間意識が生まれて和みますし、トレーニング中の苦しいことも一緒なので、その部分ではお互いに励ましあったり……それで、わたしの見たダイエット合宿では、休みの日に戸外でバーベキューか何かをやってたような気がします(笑)

 田舎の自然の多い場所なので、トレーニングとしてあたりを走ったり散歩したりするのも気持ちがいいですし、昼間したトレーニングですっかり疲れきって夜はぐっすり眠る――といった環境である一定の期間過ごして帰られるわけですけど……正直、テレビが密着していた女性は、合宿後、体重にはそんなに変化なかった気がします(^^;)

 でも、本人は顔色もよく元気そうで、「ダイエット合宿、楽しかった、友達もできて良かった♪」みたいにおっしゃっていて――あくまで自分的に、ということですけど、人生で大切なのは、「太っている・痩せている」といったこと以上にそうした「人生の質を決定すること」なんじゃないかなって思った、というか。

 都会を離れて田舎の自然の多い場所で健康的に過ごす……そうしたいい時間を仲間・友達と思える人と過ごす機会のようなものが定期的にあれば、都会のほうで何か嫌なことがあってもこちらでデトックスすればいい――みたいな循環を繰り返していければ、多少のことには折れずに立ち向かえるだろう、というか(^^;)

 なんにしてもこの時、自然の中でバーベキューしてるお肉とかがなんかすごく美味しそうでした(笑)だから、ダイエット云々よりも、美味しいものを誰かと一緒に食べてわあわあ騒いでなんか楽しい……みたいになれてたら、太っているとかなんとかいうことよりも、人生の質のほうが遥かに上がっているわけですから、ダイエットよりもこちらを中心にしつつ、その他多少食べ物のことも健康のために気をつける――みたいになれたほうが、幸せな人生っていう気がするんですよね。。。


 >>食べずめに食べている人でも、食物に捕われている状態から解放されることができます。神様との交わりを増すにしたがって、勝利は必ずやってきます。主は私たちが祈り会を持ち、聖書勉強をし、主を証しする機会を設け、他のクリスチャンと共に礼拝するときを与えてくださっています。

 一旦、聖霊様がこれらの分野に働かれると、私たちが食べ物に支配されないで、楽しんで食べることができるよう助けてくださいます。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 キリスト教の旧約聖書の時代、また、イエスさまが地上で過ごされた時代と今では、食事事情等が当然異なるわけですけど、ヨハネの福音書第4章32節でイエスさまは、「あなたがたの知らない食物がある」とおっしゃっています。

 つまりそれは、わたしたちが神さまに対して祈りや賛美、礼拝などを通して捧げる霊的食物であり、また、神さまのほうでもわたしたちに聖霊さまによってこの霊的食物を祈りや賛美、礼拝などを通して与えてくださるということですよね。


 >>私たちが神様との交わりに深く入るに従って、心からの願いが多くかなえられます。いのちのパンで晩餐会を持ち、生ける水から飲むことを学ぶと、そのことに満足を覚えます。

 やがて、以前のもの(食欲や、欲望を抑制できなかったこと)は過ぎ去り、見よ、すべてのものは新しくなるのです!

 神様は私たちに食べ物と交わりの賜物を与えてくださいました。それによって、体も霊も健康になるためです。もう一度このことを心に留め、敵の手から奪い返すことです。私たちがイエスさまのお手本に習い、神様に喜ばれ、益のあるバランスの取れた方法で食事や交わりを楽しむことを学ばなければなりません。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 食べ物のことやパーティを楽しむといったことは、この世のこととしていずれ過ぎ去りますが、地上で持ったイエスさまとの交わりというのは、そのまま天上(天国)でも継続されます。

 その天上の思いに常に満たされているなら、地上に属する欲望的なことというのは、それよりも下なものである……ということは理解できるものの、肉体や心といったものが天上的な思いに支配されているのではなく、地上のことにばかり繋がれて支配されがちなのは、わたしたちが肉体に属する以上はある部分仕方がない……ということでもあるかもしれません。けれどもイエスさまは、そうしたわたしたちの肉にある弱さについても、十分理解してくださった上で助けてくださる方なのです。

 つまり、そのようなわたしたちの肉にある弱さについても理解してくださるこの方に対して、いつでも聖霊さまを通して祈ることの出来る特権がクリスチャンにはあるのです。

「神さま、なかなか食欲をコントロールすることが出来ないので、どうかそんな弱いわたしを聖霊さまを通して助けてください」といったように祈ったり、あるいは、いついつまでに何キロ痩せたいといった目標がある場合は、「何月何日までに△キロ痩せたいです。また、どんなふうに痩せたらいいかわからないので、その方法も神さまが教えてください」など、具体的に祈っていきます。

 たぶん、ノンクリスチャンの方がここを読んだ場合、「ダイエット?そんなことのために神に祈るって、不敬じゃない?」と感じられるかもしれませんが、イエスさまに対しては本当になんでも祈っていいのです!「誰それさんが明日、交通事故に遭って骨折しますように」といった、誰がどう聞いても神さまの御心にかなわない祈りでない限りは……。

 マーリンさんも本の中に書かれているとおり、人類はまず、エヴァ(イヴ)が神さまが食べてはいけないという善悪の知識の実を蛇の誘惑によって食べ、エヴァが夫のアダムにもこの実を食べさせたことから――すべてが完璧に整えられたエデンの園を追い出されるということになりました。

 ですから、「たかが食欲」といって馬鹿に出来ないことはここからも理解できると思います。前回は金銭欲と浪費のお話でしたが、食欲にせよ金銭欲にせよ、わたしたちは「そこを攻撃されると弱い」という部分を必ず何かしら持っているものなのですから。

 また、教会でイエスさまのことを信じ受け容れたクリスチャンがまず受ける取り扱いは、そうした弱味がどこにあるかを知らされることであり、主の整えの御手が入っていく途中で、サタン(悪魔)のほうでもわたしたちを信仰の道から躓かせようとして、その弱い部分を殊更強く攻撃してくるということがよくあると思います。

 そして、その弱い部分がイエスさまの助けによって強められていく過程があると思うのですが、わたしたちが何度自分の欲望に負けて躓こうとも、イエスさまがわたしたちを見捨てられることは決してありません。

 ショッピング中毒やギャンブル中毒、アルコール中毒や、そうしたことに伴う借金地獄などなど、一般的には病院などに通院したり、あるいは入院して治療を受けてもなかなか治らないとされるこうした事柄についても、唯一イエスさまに霊的解放を祈ったら癒された、また、サタンがそこをいくら攻撃して誘惑してこようとも、イエスさまが信仰の盾によって守ってくださり、敵の頭を踏み砕いてくださると信じるなら、躓いても何度でも立ち上がり、神さまの保護、その守りの中で安らかに憩うことが出来るようになっていくと思います。

「そんな奴はいねえよ」と思われるかもしれませんが、仮にわたしが北をショッピングの欲望によって攻撃され、南をギャンブルしたい欲望によって攻撃され、東からは食べたいものを食べたいだけ食べたいという欲望に攻撃され、西からは不法薬物を使用したいという欲望に攻撃され……といった、四面楚歌の惨めな状態にあってさえ、主イエス・キリストにはその十字架の血潮によってわたしを赦し、肉的にも霊的にも解放し、癒す力が絶対的に存在するのです。

 もちろん、もしわたしが仮に「何月何日までに△キロ痩せたいです、神さま」と祈ったところで、痩せられない可能性はあります。それはもしかしたらわたしが食べ物の誘惑に結局のところ負けてしまったり、トレーニングをさぼった結果かもしれませんが、イエスさまが開いてくださるのは、わたしたちが思い願うよりも遥かに高い道である場合のほうが多いのです。

 つまり、ダイエットなどせずとも、「あなたにはこんな素晴らしい、いいところがある」と祈りの中で語ってくださることで、体重や体型のことなど気にならなくなったり、ダイエットに使うエネルギーを別の道に向けることを示してくださって、そのことに夢中になっているうちに、食欲がどうこうなどというのは取るに足りないことになった……など、イエスさまが開いてくださるのは常に、わたしたちが思ってもみなかった、新しい素晴らしい道である場合が多いのです。


 >>わたしの目にはあなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している。

(イザヤ書、第43章4節)


 神さまはわたしたちの体重がいわゆる適正体重でなくても愛してくださいますし、そのことをよくわからせてくださった上で、そんなことを気にするよりも、人生にはもっと楽しい、素晴らしいことがたくさんあるということに気づかせてくださる方でもあるのです。

 では、次回は第19章「退職から横道に逸れる」より、引き続き学んでいきたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!





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