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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

思い込みと共同幻想。

2017年05月02日 | キリスト教


 ひとつの哲学的(?)な考え方として、わたしたちの世界は個々の思い込みと共同幻想から成り立っている……という考え方があるそうです。

 つまり、多くの人の脳は物事を判断する80%以上を視覚に頼っていて、お互いに「そこに~~(例:柱時計や公園や森の木々など)がある」と認めているからこそ、それを<現実>なのだと認識するということですよね。

 けれど、たとえば仮に「わたしにだけ見えるハエ」というのがいたとした場合、とても大変なことになるかと思います(^^;)

 それがごはん茶碗に止まるのを見てはテーブルを揺り動かしたり、ひとりでハエ叩きを持って気違いみたいに部屋中を追ってみたり……まわりの人もそうしたわたしの様子を見て「あいつは頭がおかしくなった」と言うのはまず間違いないと思います。

 他の人にとっては<現実>ではないハエが、わたしにだけは<現実>だというのは、非常に困ったことだというか

 これは極端な例だったかもしれませんが、人の「思い込みと共同幻想」に悩まされるというのは、日常生活に意外に結構あると思うんですよね。

 たとえば、人の噂話や悪口などがそのいい例かもしれません。

 学校でも職場でも(あるいは家庭でも)、どこでもいいのですが、そうした場所の人間関係として5、6人以上の人が集まっていたとしますと、大抵の何か大なり小なりの<共同幻想>というのは生じえます。

 学校であれば転校生、職場であれば新人さんが新しく入ってきたとすると、まずは容姿だけをパッと見て「~~そう」ということは大抵の方が不思議と似たようなことを同時に感じとります。「あら、イケメンね」、「美人だな」、「真面目そう」、「チャラいな」、「何かスポーツやってそう」、「絶対こいつインドア派だな」……など、視覚を通した情報によって脳が色々なことを判断します。

 けれどその後、一緒に話す機会があった時などに「絶対そうだと思った!」とか「意外にこの人って△□なんだな」といったように、今度は別の情報が入ることによって脳の判断というのは変わってくるものですよね。

 ところが、学校でも職場でも「口数が少なくて何を考えているのかわからないタイプ」の人というは大体ひとりくらいはいるものなのではないでしょうか。

 こうなると、多くの場合、その人に対する集団の<共同幻想>というのが起きてきます。

 簡単にいえば、「きっとこいつはこんな奴に違いない」とか「こう思っているに違いない」といった本当は当たっているかどうかわからない判断に頼ってたり、あるいは「みんながこう言っているから」というのを「自分もなんとなくそう感じていた」というので、それが真実正しい<現実>であるかのように思い込み……こうしたところからいじめであるとか、そうしたことがはじまるというのは結構あることなのではないでしょうか。

 ところで話は変わりますが、キリスト教でも仏教でもイスラム教でも、何か特定の宗教を信じている人の集団を「○△が神である」という<共同幻想>を持っている団体だと考える人々がいます。

 キリスト教であれば父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊とからなる三位一体の神、イスラム教であればアッラーが唯一神であると考えるという、それが<共同幻想>だというわけですね。

 いえ、わたしこのことについて何か反論したいとか思ってこの記事を書いているわけでもなく(^^;)、<共同幻想>と聞くと何か特殊な幻想についてある特定の人々が抱いていると思いがちですが、何もそれが神さまのことでなくても、わたしたちの日常生活自体が常にいつも、この<共同幻想>によって支えられているらしい……ということなんです。

 そして、ここはキリスト教に纏わることについて何か書くといった主旨のブログですので、もし聖書に書かれていることが真実であり、イエスさまが地上に再臨された場合――クリスチャンと呼ばれる人々が<共同幻想>として抱いていることがその瞬間<現実>となり、他の人々が抱いてきた<共同幻想>が打ち破られるという、そういうことになるかもしれません。


 >>御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と子羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

(黙示録、第22章1~5節)

 >>主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

(テサロニケ人への手紙第一、第4章16~17節)


 イエスさまが今度は雲に乗って地上に来られる時、携挙ということが起きて、イエスさまのことを真実信じているクリスチャンの人々は生きたまま一挙に雲の中へ引き上げられると言われています。

 その時、地上にはあらゆる災害や飢饉などが臨んで恐ろしいことになっており、ただイエスさまを信じている人々だけが救われると言われているんですよね。正直、わたしも自分がキリスト教徒になってみるまでは、噂でだけ聞いていたこの種の選民思想には嫌悪感を覚えていたといっていいと思います。

 けれど、真実に正しい教えを受けると、「ああ、そういうことなんだ」、「わたしはキリスト教というものを一方的におかしな宗教と決めつけていた」といったように理解ができるようになってくるというか(※ただし、キリスト教の教えを奉じている異端の偽宗教というのが多くありますので、見分けというのは非常に重要です)。

 おそらく、ここだけを読んでみると二千年以上昔に十字架につけられた男がその三日後に復活したと信じ、それだけでなく彼が次に地上へやって来る時には雲に乗ってくるという……そんなことを信じているというほうが、絶対に頭がオカシイ☆と感じる方がおられるかもしれません。

 それでも、アメリカではこのことを全人口の60%(わたしの記憶違いでなければ、65%か67%くらいだったと思います)以上の人々が、イエス・キリストの再臨、彼が雲に乗って再び地上に来られるということを信じているというデータがあるんですよね。

 わたしがこのことをテレビのニュースで見たのはかなり前のことですが、おそらく今もこの数字にそう変わりはないと思います(ちなみに、アメリカの中でキリスト教を信じている人々に取ったアンケートというのではなくて、アメリカ全体で取ったアンケートということでした)。

 アメリカ人というと、日本人以上に功利的・効率的・論理的にものを考える人々というイメージがありますが、一度宗教ということが絡むとまったく別の顔をみせる人々がいるというのは――かなり不思議なように感じますけれど、世界各地、どこの国にも多くの場合クリスチャンの方がいて、仮に違う文化を持っていてもイエス・キリストを信じているという価値観で一致できるというのは、神さまの与えてくださった最高の恵みのひとつであるように感じます。

 それではまた~!!





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