
主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
(ローマ人への手紙、第13章14節)
>>肉(罪に汚れた人間の本質)は、まるで駄々をこねている甘えっ子のように振る舞います。喜び、興奮、刺激、慰め、気楽といったこの世のものを駄々をこねて欲しがるばかりか、今すぐに欲しいと騒ぎ立てるのです。
霊的必要性など無視して、私たちの五感を満足させようとやっきになります。見た目がよく、響きがよく、味がよく、感じがいいものは何であるかいつも捜し回っているのです。肉は常に、その欲求を満たすために、鼻をピクピクいわせています。そして、私たちが肉の欲求を満足させればさせるほど、私たちを操ろうと迫ってきます。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
>>私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行っています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
(ローマ人への手紙、第7章15~25節)
肉の弱さゆえに、わたしたちが誘惑される事柄というのは、この世に数限りなくあると思います。
こうした事柄について、「わたしにはまったく心当たりがない」という方はよほどの偽善者でもない限りおられないと思うのですが(笑)、<肉>という言葉を聞くと=<肉欲>、何か性的な汚れのことを連想される方がもしかしたら多いかもしれません。
もちろん、<肉>のうちにはそうした事柄も含まれるのですが、ここでもわかりやすくするために、自分的に再びまたインターネットのことを取り上げてみたいと思います



任天堂のゲーム機のことを「悪魔の箱(デビルズボックス)」とアメリカの人は呼ぶことがあるらしいのですが、そのくらい夢中になってゲームをする、それこそ放っておいたら24時間ぶっ通しで気づいたらゲームをしていた……という経験は、ゲーム好きの方ならあると思うんですよね(わたしの場合はせいぜいのところを言って連続16時間とか、そんな感じだったんですけど^^;)。
わたしはもうゲームって全然しなくなっちゃったんですけど、というのも、RPGゲームとか、クリアするまでに軽く60時間とかかかっちゃうと思うので――そうした時間を別のことにあてる、という習慣が出来てしまったからなんですよね。。。
ただ、自分がゲームに熱中している最高潮のいい時に、誰かから中断するよう言われたりしたら、欲求不満のあまり怒りだすかぶんむくれるかしたのではないかと思います


けれども、この連載の他の回でも取り上げたように、クリスチャンの場合はイエスさまのことを押しのけた最上位に他の事柄があった場合、すなわちそれが偶像礼拝である……ということがあるので、その点については注意が必要なんですよね。マーリンさんがテレビやラジオ、読書やゴルフのことで神さまから注意を受けた時、その後テレビやラジオをまったく見なくなったとか、ゴルフをしなくなったということではなく――イエスさまに対する関心が最上位に来ていて、神さまのことを中心にした状態でゲームをしたりテレビを見たりゴルフをしたりするのは決して悪いことではないわけです。
もちろん、インターネットというのは、イエスさまの福音を伝えるための強力な宣教の武器なので、その点ではおおいに用いるというのが神さまの御心に適ったことなのですが、そうしたこととはまったく関係のない領域において、使いようによってはほとんど悪魔の道具ではないか……と感じることが時としてあります

出会い系のサイトで出会った人におかしなところに連れこまれて殺される、人の悪口や陰口を「みんなやってることだから」とばかり書き連ねる、他に無料で見られるエロサイトなどもたくさんあるみたいなので、親にバレないように履歴を消す方法をこれもまたインターネットで検索するなど、使いようによっては諸刃の剣というか、そんな悪いところや負の部分もあるとわかっているけれども、インターネットのない生活はもう考えられない――という方は、わたし含め、とても多いと思います。
今はマッチングアプリというのがあるらしく、そうした出会いによってとても仲のいい友達が出来たとか、マッチングアプリでなくても、SNSなどで知りあってその後結婚された方もいらっしゃいますし、仮にもしわたしに息子がいて、「どうも何か時々エロ系のサイトを覗いているらしい」とわかっても、個人的にはそれが悪いこととは思いません(^^;)
ただ、マーリンさんもおっしゃっておられるように、その時わたしたちが「どの程度そのことにのめりこんだか」が問題だっていうことなんですよね。とりあえずわたし、ネットでは人の悪口って書きこんだことありませんけれども、いわゆる炎上っていうんでしょうか

あるいは、どなたかのブログで意見が対立して喧嘩になっている……といった場合、そんなに読んでいて楽しいと思いませんし、あれ、自分が巻きこまれたりしたら相当大変だし引きずるなっていうのは容易に想像がつきます(^^;)
たとえば、ネット上で自分の敵のようになっている人が次、何か書き込んでたらこっちでも言い返してやらなくちゃ……みたいに、他のことをしている時にもそのことが頭の片隅にあって、ちょっとイライラしてたり、「次こう言ってきたらこんなふうに書いて言い負かしてやろう







こういうのって精神衛生上よくないですし、クリスチャンの場合は何より、イエスさまのことを最上位において、神さまの成し遂げてくださった御業に目を留めてさえいたら――あとはどんな問題が起きてきても感謝と賛美を捧げよう……というのが信仰の基本姿勢ですから、そうしたことは当然<雑念>に分類して捨てなくちゃいけないわけです(^^;)
わたしもそうですが、人って頭や心の中に悩みごとがあると、パソコン上にブラウザの画面がいくつも立ち上がってるみたいになると思います。つまり、神さま、イエスさまのことを考える聖なる清い気持ちのブラウザの画面の他に、同列で他の関心事についてもブラウザが立ち上がっている状態……と言いますか。
でももう、神さま、イエスさまのことを中心にした第一ブラウザの他に、同時に汚い、穢れたブラウザのようなものが同時に立ち上がっているのがわたしにとって普通の状態だ――といった場合、わたしも人のことはあれこれ言えませんが、それでもやはりそうした人の<罪の状態>からわたしたちを救うためにこそイエスさまは十字架にかかってくださったわけですし、そのあたりは自分の心をよく点検して悔い改めるべきところについては悔い改める……といったように、はっきりと意志を固めて変えていく必要があると思うのです。
>>私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。
死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
(ローマ人への手紙、第8章35、37~39節)
>>この世と調子を合わせてはいけません。
いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙、第12章2節)
>>だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(コリント人への手紙第二、第5章17節)
今回の第13章、「「ノー」と「イエス」の言い方」は、マーリンさんによるとてもいい言葉、文章がたくさん詰まっているので、そちらについては本の文章のほうを読んでいただくとして……今回はその中からいくつか重要な部分を最後に抜き書きしてみたいと思いますm(_ _)m(もちろん、マーリンさんの文章はどこもすべて超重要であったりはするんですけど^^;)
>>私は悔い改め、自分自身に対して、「ノー」といい、聖霊様に対して「イエス」ということを学ばなければなりませんでした。
確かに肉の思いを拒絶するのはたやすいことではありません!肉を長い間優先してきた者は、自分自身にはっきり物を言うことを学ばなければなりません。(自分にだって!もうすでにこの世の人たちは私たちクリスチャンをキチガイだと思っているのですから、この際どう思われたっていいではありませんか!)しかし、肉に対しては、順序だてて、きちんと戦う準備をする必要があります。
>>祈りの専念のため強くなる一つの方法は、神様との会話が本当に楽しいもので、喜びに満ち、それに没頭し、魅了されるよう学ぶことです。最初は、祈りはつまらないもので、疲れ、魅了されるどころか、退屈なものであると思うかもしれません。そして、時間の無駄であると肉に思わせがちです。
しかし、決してあきらめてはいけません。喜んで祈りに励むことができるように必ず学ぶことができるからです。肉はただ単に霊に逆らっているだけで、神様は決して心を乱してはおられません。あなたの祈りを本当に喜んでいて下さるのです!あなたが忍耐強くあるならば、神様は私たちを助けて下さいます。
あなたが祈りに喜びを見い出したら、神様と新しい関係を築くことができます。神様との会話を築き上げるに従って、喜びが新たなる方向に広がっていくことでしょう。
>>力強い霊と、喜んでする霊には大きな違いがあります。弱いクリスチャンは往々にして、喜んでする霊は持っています。この霊と弱い肉が一緒になると、「もし疲れていなかったら、起きるんだけど」とか、「あまり大変じゃなかったら、この悪い習慣を辞めたっていいんだが」とか、「もっと時間があったら、いや、もっと良く分かったら、みことばを学んだっていいんだが」と言い訳するのです。力強い霊は、「今こそ行動しなければならない。今まで肉の言うなりになってきて、むずかしいかもしれないが、神様の力でやってのけよう」と言うはずです。
>>もし私たちが、何がしかの方法で、肉を喜ばせる習慣にのめり込んでいるなら、早くそれに気づき、神様に告白する必要があります。そう告白することによって、習慣が、良心のレベルにまで引き上げられるからです。その良心のレベルで決定が下されますから、とても大事なことです。何度も、何度も、もうすでに私たちの本能になっている事柄を選択するよう迫られるでしょう。確かに、これは闘いですが、このような経過を通ってはじめて、力強い霊が培われ、最終的には、私たちに解放がもたらされるのです。
>>肉の欲を諦めると、霊的な物を受け入れる余裕がでできます。神様は私たちに聖霊様を賜物として与えてくださました。私たちが肉の欲を拒否する度に、聖霊様に私たちを少しずつ明け渡していくことができるのです。聖霊様の取り扱いによって、穏やかで、優しい聖霊様が私たちのなかで働き、聖霊様の力が、新しい方法で、満ちあふれ、私たちは実を結ぶことができます。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
そうなんですよね。ちょっとノンクリスチャンの方には理解が難しいと思うのですが、わたしも「喜んでする霊」は持っているものの、力強い霊は持っていないタイプの「生ぬるい」クリスチャンといっていいと思います(^^;)
でも、マーリンさんのおっしゃっている>>「肉の欲を諦めると、霊的な物を受け入れる余裕がでてきます」という言葉の意味、霊的原則については、とてもよく理解しています。なんだか、「自分が今熱中しているものを諦めろ

そして、そんな状態からでも心から悔い改め、今さらながらな形で神さまに聞き従ったという場合であってさえ――イエスさまは緑と水のあるオアシスへとわたしたちを導いてくださるという、とても恵み深い方であられるのです

つまり、クリスチャンが肉の欲を中心にして生き、その後どうしようもないどん詰まりの状態へ至って初めて神さまに助けを求めたような場合でも……心から悔い改め、再び聖霊さまを中心にした生活を送りたいと心から願うなら、イエスさまは助けてくださいますし、再び聖霊さまも力強く働いてくださるようになるでしょう。
けれども、悔恨の中で大体次のようなことは馬鹿な罪人であるわたしにもわかるわけです。「もし、最初から自分の肉の欲求を捨ててイエスさまに聞き従えていたら、こうした惨めなことは経験せずに済んだはずだし、神さまが用意しておられたであろう第一の、最高の恵みの計画に自分は与ることが出来たはずなのに……

真のクリスチャンの方というのはそのすべてが、どこの肉の国籍を有している方でも、「わたしは霊的にはイスラエル人です」ということを告白されることと思いますが、旧約聖書は要約して言うと、神さまに選ばれたイスラエルの民たちがいかに神さまに聞き従えなかったかの背信の歴史書といっていいと思います。
けれども今は、この旧約聖書に預言されたイエスさまがすでに来られた新約時代ですから、聞き従えなかったイスラエルの民が最終的に国を追われて世界中に散りぢりになってしまったようにではなく……聖霊さまを通したイエスさまからの救いと支えが、本人にその気持ちさえあるなら、日々24時間与えられ続けているわけです(あの、今さらながらかもしれませんが、これがどんなに凄いことかわかりますか?^^;)
つまり、わたしたちがのめりこんでいた、「適度に」ではなく「過ぎた快楽」のようなものを手放す時――むしろイエスさまはそれに勝るもっと良いものを与えてくださるということなのです。そして、イエスさまの聖なる囲いの中で「聖なる良いこと」に触れ続けていることが出来るほうが……かつての罪にまみれた自分と比較して、遥かに喜びに満ち溢れていることが出来るとわかるのです。
これは実体験として本当にそうですし、仮にもしわたしがもう一度蟻地獄にでも巻きこまれるような形で自分の罪に落ちたとしても――カンダタさん(笑)が再び地獄に落ちてしまったようにではなく、イエスさまは再び何度でも、わたしたちに悔い改める心さえあるのなら、必ず同じように助けてくださいます。
ただし、かつての地獄の底のような苦しみやつらさを思いだすなら、また同じ状態に墜ちたいと願う方はいないでしょうし、むしろイエスさまの十字架の血潮の力の寛容さ、そのことを喜び賛美することで、先の苦しみはイエスさまの永遠の命の水の流れによって、忘れ去られてしまうくらいなのです。
>>古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(コリント人への手紙第二、第5章17節)
かつてあった、古い悪しき習慣はイエスさまから流れてくる永遠の生ける水に洗い流されていきます。そして罪の洗いと心・精神・魂・霊の更新をもって、これからはイエスさまのためにすべてを捧げていく決心をすることが出来るようになっていくと思います。
では、次回は第14章「競争に戻れ!」より、引き続きマーリンさんの教えを深く学んでいきたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!

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