教会へ
1
昏(くら)い道を通っていた
どこを歩いているのか
どこへ向かっているのか
わからない
そのくせ
自分の足だけに頼っていたのだった
けれど ほんとうは灯(あか)りが恋しかったのだ
冷えたこころを温めてくれる手がほしかったのだ
孤独はいやじゃないと強がっていたが
ときおり
呻(うめ)くようなせつなさがこみあげてきた
わたしは立ち止まった
いや 立ち尽くしたのだった
しんそこ生きることに疲れていた
いっぽうで
まだもがき足りないではないか
そういう声がきこえたのだった
ニヒルぶった顔に
まだ血の気があるではないか
なにもかも放りだす前に
まだ試みていないことがあるではないか
死のうとする前に
生きようと歯を食いしばったことがあるのか
と
―すべて疲れた人、重荷を負っている人は
わたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。*
わたしはついに
教会の扉を開けたのだった
ちょっとだけ ほんのちょっとだけ
勇気を出して
ちょっとだけ ほんのちょっとだけ
把手(とって)をつかむ指に力をこめて
*新約聖書「マタイの福音書(ふくいんしょ)」11章28節
2
幼かったとき、母に連れられてキリスト教会へ行ったことがある。母は、離婚を決意して、地方から東京へと、子ども二人を連れて出た。心細かったにちがいない。どうしても心のよりどころがほしかったのだと思う。
それはわたしの初めての教会体験だった。明るく、温かなところだったなという記憶が頭の奥にある。
わたしの意思で教会を訪れたのは、それから二十年あまり後になるか。
自分の力をあてにしきれなくなったとき、クリスチャンの医師とクリスチャンの友人とから、同じタイミングで「教会へ行ってみませんか?」と背中を押されたのだ。
ぼろぼろのわたしの影が、目に映っていたのだろう。
わたしは、日曜の朝、ドキドキしながら近くの教会へ向かったのだった。
●ご訪問ありがとうございます。
生き方に迷って教会を訪れる人が、
いまも少なからずいます。
私自身の心細さを思い出しながら、
その人がイエス・キリストの手を
つかみ、にぎりかえしてもらう日が
早く来ることを祈っています。