ガタンッ!
やがて戸襖が開く音が響き、信長らしき男の足が、自分の頭の前をドタドタと通って行った。植髮失敗
男の足がのべられた褥を踏み、その上で胡座をかくと
「では、殿、姫君様。ごゆるりとお休みなされませ──」
外に控えていた侍女たちは一礼し、素早く寝所の戸襖を閉めた。
侍女たちが寝所の前から離れると、室内は一気に静寂に包まれた。
あまりにも静か過ぎて、濃姫は、緊張と焦りとで高鳴る自分の心臓の音が外に漏れてしまうのではないかとすら思った。
それからややあって
「いつまで頭を下げておる。いい加減面を上げよ」
信長のあの妙に高い声が、濃姫の頭上に放たれた。
「…はい」
姫は一度深く頭を下げてから、ゆっくりと頭を上げていった。
「れながら、今夜より何卒よろしくお願い申し上げます。不束者ではございますが、殿の正室として精一杯──」
頭を完全に上げ切ったところで、濃姫は思わず目を見張った。
えと驚きが入り混じったような表情で、姫は目の前の相手をしげしげと眺める。
「…誰…」
「は?」
「…あなたは、誰なのです !?」
濃姫は狼狽した。
大広間で見たあの信長とは違う、別の男が目の前にいたのだ。
白い寝間着を無造作に纏ったその男は、目鼻立ちの整ったなかなか美男子である。
細身だが、適度に筋肉のついた力強そうな体格をしており、浅黒くやけた肌が何とも健康的に見えた。
洗髪したばかりなのか、肩まである黒髪は結い上げず、生乾きのまま後ろで一つに纏められた状態だった。
顔だけ見ると、どことなく信勝に似た雰囲気があったが、目の前の男の方が信勝よりも何倍も凛々しく、生き生きとしていた。
濃姫は訝しみつつも、男が放つ野性的な魅力にぽーっとなっていると
「その方、まさかさっきの今で、もう夫の顔を見忘れたと申すのか?」
男は立ち上がり、グイッと姫の前に顔を突き出した。
「お、夫 !?」
「他に誰に見えるというのじゃ? 言うてみよ、蝮の娘御殿」
その妙に粘っこい口調は確かに聞き覚えがあった。
俄には信じられなかったが、骨格といい、鋭い目元といい、広間で見た信長と全く同じである。
「まことに…信長様なのですか?」
「決まっておろうが。無礼なおなごよのう」
信長は不愉快そうに濃姫から顔を放すと、再び褥の上にドンッと腰を下ろした。
その反応を見て、信長本人と確信したのか
「こ…これは、大変失礼を致しました!」
濃姫は慌てて低頭した。
「気の悪い──。外の侍女たちも “ 殿 ” と呼んでいたではないか。何故 気付かぬ」
ぶすっとした面をして、信長はガシガシと頭を掻く。
「お許し下さいませ。…広間で見たお姿とは、あまりにも違いました故」
「平手の爺があまりにもそう言う故、久方ぶりに風呂に入ったのだ。
おかげで泥やがみな落ちてしもうて、身体中どこもかしこも真っ白じゃ」
確かに広間で見た信長は、顔も手足も泥まみれであった。
汚れが落ちただけで、こうも劇的に変わるとは…。
どれだけ “ 久方ぶりの風呂 ” だったのかと、濃姫は思わず表情を歪めた。
ただ、見違えるほど美しく清潔になった点については、唯一評価出来る部分ではあったが──。
「何じゃ、何故そんなにも儂のことをじっと見る?」
「…え」
濃姫は畳に手をつかえたまま、自分でも気付かぬ内に信長の顔を仰視していた。
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