「この度は御婚礼の儀、恙無のう相済みましたる由、心よりお喜び申し上げます。
この同盟によって、織田家の繁栄もますますもって揺るぎなく──」
翌日の昼四つ(午前10時頃)。
婚礼三日目のこの日、那古屋城・表御殿の大広間では「御披露目の儀」が執り行われていた。脫髮先兆
親族や一門が主だった昨日とは打って変わり、広間の下段には織田家の家臣たちがズラッと居並んでいる。
新郎新婦たる信長と濃姫を上段に迎えて相対し、家臣一同から婚姻の祝いを夫妻に申し上げるのである。
濃姫は、桐と鳳凰が刺繍された美しい萌黄色の打掛を纏って、上段の左側に控えていたが、
右側の信長の席は、いつものことながら空いていた。
婚礼最後の儀式も見事にすっぽかされたのである。
幸い儀式の間、家臣たちは顔を上げることが許されない為、昨日ほど大きな騒ぎにはならなかったが、
濃姫や信秀、政秀を始めとする家老たちは、『またしてもか…』と、皆呆れ切った顔で儀式に臨んでいた。
この日をもって長々しい婚礼の儀は一通り終わり、濃姫は名実共に信長の妻となった。
三保野などは相変わらず濃姫を“姫様”と呼んだが、他の者たちは通例に従って『お方様』と呼称を改め、
まだ十五歳の若き姫を、那古屋城の奥向きを一手に束ねる女主人として、更にも増して重んじたのである。
濃姫自身も奥方となった自覚が湧いて来たのか、以後は皆々同様に信長のことを“殿”と呼び、
美濃に送る手紙にも自分の名を“帰蝶”ではなく、必ず“濃”と署名するように心掛けた。
これは単に自覚だけの問題ではなく、自分はもはや美濃にいた頃の幼き姫ではなくなり、
今や立派な大人の女性になったのだという、自身の成長ぶりを道三や小見の方に伝える為の、密かな見栄であった。
「姫様、この衣など如何でございましょう?お色も華やかで上品にございます」
「いや、もっと地味な色の方が良い。出来る限り質素な物が」
「地味で質素にございますか?」
「そうじゃ。…三保野、そっちの反物も見せてたもれ」
「は、はい」
婚儀から数日後のある麗らかな日。
濃姫は御座所の居間に大量の反物を運び込ませて、三保野と共にそれらを一つ一つ広げて眺めていた。
しかしどうも姫が気に入るような物は見当たらないようである。
「これも駄目じゃ。どれもこれも美し過ぎる」
「当たり前でございます。ここにある反物は全て、お輿入れに際して美濃のお方様が持たせて下された物ですから」
嫁入りの持参品に質素な物など選ぶはずはないと、三保野は真面目顔で言った。
「それもそうよのう…。やはり新たに用意させるしかないか」
「あの──失礼ながら姫様」
「何じゃ?」
「急に反物など広げて、いったい何をなされたいのでございます?私には皆目検討が付かぬのですが」
三保野が当惑しているのを見て、濃姫はやれやれと首を横に振った。
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