「科学的命題」と「価値的命題」
~安斎育郎氏(学者)の講演から~
・・・そこで、科学と宗教のかかわりなどについて考える
上でも、・・考えてみたいんですね。
「私たちは人生で2種類の命題を扱う」と書いてあります。
命題というのは、私たちの判断を文章とか式とかで表現
したもの、それを命題と言うんですね。
人生の上で出会う命題には大きく分けて2種類あるだろう
というので、ここでは「科学的命題あるいは客観的命題」と
言ってもいい。
いっぽう「価値的命題あるいは主観的命題と言ってもいい」
だろうというので、その二つに分けてあるんですね。
「科学的命題群」というのは、その命題が正しいか正しく
ないかということを客観的に決めることができるような命題
であります。例を考えてみれば「直径に円周率をかければ、
円周の長さを計算できる」。これは客観的に決められるでし
ょう。
それはもう、正しいか正しくないかということを客観的に
判定することができる。
こういう事実と照らし合わせて正しいか正しくないかとい
うことを決めるような問題は「科学的命題群」と呼ばれるわ
けで、そういうことだけだったならば、この世の中は割に簡
単で、事実に照らして合っているかどうかが判定基準だとい
うなら・・・。
ところが、世の中には「価値的命題群」というのがあって、
その命題の真偽、正しいか正しくないかということが価値観
に依存するために、一義的に正しいとか正しくないとか決め
られないような命題群が山ほどあるんですね。
「ピカソの絵は非常にすばらしい」というのは、僕はYESと
答える・・、僕の友達には、どこがいいんだと言っている人
はごまんといますからね。
これは、どういう絵に価値を見出し、どういう絵に価値を
見出さないかという価値の選択の問題であって、一人ひとり
違って構わないわけでしょう。
こういうのはまさに「価値的命題」ですね。
「核兵器は廃絶されるべきである」。僕はYESと答えるけ
れども、アメリカのブッシュ大統領はNOと答えますね。
アメリカは核兵器を持ち、その抑止力によって戦争を抑
えつけることこそが意味のあることなんだから、核兵器の
存在に価値を見出しているんですね。
だから、科学から答えが一義的に出てくるのではなくて、
その存在に価値を認めるか認めないかという、その人の判断
によって正しいと思うか正しくないと思うかが違ってくるん
ですよね。
参照URL:
www.city.setagaya.tokyo.jp/kiki/taisakuhonnbu/sinpo/kouen.html
【シンプルで重要なこと】
「科学的命題」と「価値的命題」とがある、という安斎育郎氏の分析・見識は、忘れがちだが、シンプルかつ重要な指摘だと思う。
たしかに「価値的命題」は、1人1人違って当然なんだろう。”歩んできた道”も違えば、”日常の現実”も1人1人異なるのだから。
そうならば、「価値的命題」について語るのは、貴重な体験・教訓的経験話を除けば、あまり意味がないのではないか。
そこで、好むと好まざるに関わらず使っている「価値的命題」より、「科学的命題」(じっくり考える方面)に自分としては関心が向くのです。