前回の KISHIDA-DO(その4)で、戦時中での娘に関する事も少し書いたが、
太平洋戦争時に、ハラボジハルモニが、どの様にして来たかを分かる範囲で細かく書こうと思う。
まず、、、、
1942年頃(と、思うが、、、)、疎開もあって、大阪市浪速區芦原町から、大阪府布施市(現在の大阪府東大阪市)に引っ越しをする。
ここが私のルーツとなる場所、タイトルにもなる「KISHIDA-DO(岸田堂)」だ。
ここはまだ、あたり一面 畑で、何にもない地帯だったとの事。(なので、疎開場所に選んだみたい)
そんな、1943年には 大阪府布施市にて、7番目の子供が産まれる。(私の親父とそっくりな叔父になります(笑))
また、この時期、、、、、以前にこのブログにも書いた済州島に住んでいる勇男叔父さんも一時日本に住んでいた。
1937年生まれの四男と勇男叔父さんが同級生だった事もあったので、よく喧嘩したと言ってたわ(笑)
しかしながら、勇男叔父さんの身内で占い師が居てるみたいで、「卵が爆発する夢をみた、縁起でもないから済州島に帰ってこい!」との事で数年間だけ日本で生活し、大阪と済州島とを結ぶ阪済航路の「君が代丸」に乗って、早々に済州島に帰る事になる。
1945年3月13日、14日に大阪大空襲。
辺り一面焼け野原。
大阪大空襲の時は疎開した布施、岸田堂は空襲がなく、次男が家の屋根上に上ると、大阪市内が真っ赤に燃えているのが見えたとの話もある。
その次男も予科練対象で、日の丸特攻隊でお国の為に捧げる対象者、此花区の司令部も空襲が来て、戦闘機から機関銃バババババと撃たれて死に物狂いで逃げたみたいだ。
建物に入ってかなりの地下まで逃げたらしい。そこが司令本部だったみたいで、何とか生き延びたが、深い地下から地上に上がると、死に物狂いで建物入ったその建物が爆撃でもうなく、青空が見えていたとの事。
次男は辛うじて実家に帰り、1週間寝込んだとの話である(伯父から実際に聞いた実話)
身近に戦争体験がある方の話は後世に残さないと、、、、、、、、。
大阪にある「ソカイ道路」は疎開するが為の道路。
大阪市内は殆どが廃墟。
混沌とした時期が一定期間進むのであった。
その頃、、、、
疎開なのか、避難なのか、望郷なのかは定かではないが、ハラボジ、ハルモニは家族全員で済州島に帰る事を決断する。
家にある全ての物をドラム缶に入れると言う作業。これに関しては家族全員で夜通し行ったそうだ。
大阪 布施岸田堂で使っていたお茶碗、スプーンなど、全ての物を整理。
全ての物を整理した後、最後に残ったのは卓袱台(ちゃぶ台)と数円…..その他は全て済州島に帰る為、ドラム缶に入れたと言う。
さぁ、済州島に帰る準備も出来たから、ハラボジ、ハルモニの故郷である済州島に帰るぞ!!としていたのだが、、、、
乗らないと行けない船が沈没するという事件が起き、済州行きが延期になってしまった。
ここでの沈没した船と言うのは「第二 君が代丸」の事だと推測され、、、
この、「第二 君が代丸」は、1945年4月、安治川付近にあったところをアメリカ軍の空襲を受け沈没した。
大阪と済州島とを結ぶ阪済航路の「君が代丸」は、みんな普通に「君が代丸」と言っていたが、航路をよく行き来してたのは、正式に言うと「第二 君が代丸」なのである。
(※君が代丸の事を同胞は군대환(군대완)と呼んでいた。詳細は以前のブログを参照してください)
(余談だが、貨客船から引退し、貨物船として動いていた「(第一)君が代丸」は、1945年5月23日に大分県姫島付近で、アメリカ軍の飢餓作戦により敷設された機雷に接触して沈没した。)
1945年3月13,14で大阪大空襲、そして、主要箇所も空爆、、、、、4月には「(第二)君が代丸」も沈没。
徹底したアメリカ軍の空爆であった事が上記内容からも予想が出来る。
先ほど、勇男叔父さんの身内で占い師が居てるみたいで、「卵が爆発する夢をみた、縁起でもないから済州島に帰ってこい!」で、勇男叔父さん達は、早々に船便がある時に済州島に帰ったと書いたが、、、、
その後、広島と長崎に原爆が落とされる。
後付けになるが、勇男叔父さんの身内で占い師の「卵が爆発する夢をみた」と言うのは、この原爆だったかも知れない。
そして、
1945年 8月15日、、、、、
ご存知の通り、、、、、日本からの見ると終戦、朝鮮からすると祖国解放、植民地時代の終了。
戦争が終わったが、マイナスからのスタートとなり、混沌とした時期となるが、
同胞たちは大いに喜んだと思う。
今まで抑圧された同胞は「解放国民」だと難癖つけたりして、やんちゃした輩もおったそうな。(アカンな、、、でも気持ちも分からんでもないが、、、、)
さぁ、朝鮮が植民地から解放された!となったら、
1945年10月15~16日には 在日本朝鮮人連盟が結成。
(色々とここともつながりが出てくるので、アップしまっさ)
1945年 10月3日 在日本朝鮮人連盟が左派的な団体な事もあり、それと対立する右派団体の在日本朝鮮居留民団が結成
(この団体も色々とつながりがあるかも知れんので、アップしまっさ)
そんな中、1946年には 大阪府布施市にて、ハラボジ、ハルモニの8番目の子供が女の子で産まれる。
(身内から言えば、豊中のコモっす)
待望の娘!!!!(#^.^#)
かなり喜んだに違いはなかろう(笑)
1947年、、、、戦後でごった返している、日本・大阪、、、、、
そして朝鮮半島は植民地時代から解放となったが、未だ混沌とした時期ではあるが….
既に故国も植民地から解放された事もあり、
1946年に産まれた末娘も赤子ではあるが、首も座り何とか船便に乗れるくらいになったこの1947年頃、、、、
ハラボジ・ハルモニは、二度目の祖国・済州島への帰国を試みる。
1回目の帰国の試みであった1945年の時は乗ろうとしていた船が沈没、そして終戦、その後の混沌とした社会、、、、
そして1946年に末娘が産まれた事もあり、済州島に帰る機会を探っていたハラボジとハルモニ。
帰る時期をある程度探っていた時、やっと済州島に帰る事が出来るぞ!!なったが、、、、
1946年に産まれた末娘が足に病気か怪我をしたのか、これの治療でまた済州島に帰る事は延期。
末娘の足の病気も完治し、1948年の上半期、、、、、3度目の正直、、、、、よし!済州島に行くぞ!!とした時、済州島では、南朝鮮地域による1948年5月10日の単独選挙に反対する反政府勢力が蜂起し、俗に言う「済州4.3事件」が勃発。
「済州4.3事件」によって、済州島には帰る事は危ないとなりまして、またまた延期。
ハラボジ・ハルモニの故郷「済州島」に帰りたくても帰れない状況、「済州島4.3事件」のほとぼりがさめるまで、現在住んでいる大阪・布施でひとまず生活をする事になり、、、、、、
朝鮮半島の動向も見ながら大阪 布施の岸田堂で生活をするが、、、、、結果、このまま定住へと踏み切る事にしたのかどうかは分からないが、定住へと進む事になるのである。
(1948年4月3日に起こった「済州島4.3事件」は、1954年9月に終結した事を併せてここに書いておく)
あと、日本で住み、済州島に帰る事が出来なかった頃には、家で犬を飼っていたとの事。
大の犬好きなハラボジだった事もあり、飼っていたとの事で、初代の飼い犬は「シロ」と言う名前でめっちゃ賢い犬だったとの事。
(1928年生まれの長男の息子(次男)が、
親父(1928年生まれの長男)が、ハラボジは犬好きだったと話していたとの事。
また、「シロ」は賢い犬だったと話してたの事を、長男の息子(次男)が直々に聞いたとの事だ。)
そして、二代目は「ジョン」
どの時期に飼っていたのかは不明だが、私が持っている一枚の写真から推測するには、末娘が2~3歳くらいなので、このブログ時期枠に該当すると予測できる。
(写真を見せる事出来たら、一目瞭然なんだが、、、、、(笑))
一方、、、、、
1948年のその様な「済州4.3事件」が起きた時、日本では津々浦々(韓国語っぽく言うなら:坊坊曲曲)には、 600にもなる民族学校、国語講習所があったのだが、米軍政GHQ(連合軍総司令部)の指示を貰った日本政府が民族学校に対する弾圧たる弾圧を行う。
1948年 4月26日 大阪府廳にまでたどり着いた、民族学校閉鎖反対のデモ隊である同胞達...
2万人も超えるデモ隊、、、人民集会、人民大会と言う名の下に、、、、
これはエライこっちゃと大阪府は「戒厳令」を宣布
このデモにはハルモニも参加したみたいだが、定かではない。
しっかりと分かっているのは私の親父(三男)が参加した事。
少年だった私の親父(三男)は、人民集会があるとの事で、岸田堂から布施駅に向かっていたとの事。
その時、布施駅に向かっていた時、六堂の辻(おおよそ三ノ瀬公園あたりっぽい)の所で、棒先に針みたいなのをつけた道具で吸い殻を刺しては拾い、それを何回も繰り返して吸い殻を集めて新しいタバコにする事で、道行く人達にタバコ一本〇〇円と売っていた少年が居てた。
それが、在日同胞の一部はよくご存じの金太一少年だ。

(この画像の画像は、呉圭祥著「ドキュメント在日本朝鮮人連盟1945-1949(岩波書店)」からお借りしました)
その金太一少年は少年だった私の親父(三男)からしたら3歳ほど年上。
そんな年上の金太一少年に向かって少年だった親父は、、、、
「こんな激動の時代になにしてんねん!はよ一緒に人民大会参加するぞ!」と金太一少年を一緒に連れて行ったらしい。
(金太一少年は人民大会には参加しないと親に言ってたとの後日談があるみたいだ。そうなるとうちの親父が、、、、、)
デモに参加して、大阪府庁の知事室まで入り込んだ親父。
これらを鎮圧する日本の警官。
警察の棍棒、放水も浴びながらもデモは続く、、、、
デモ隊達を力で鎮圧しようと威脅射擊をした銃弾が、親父が連れて行った金太一少年の頭に当たり、金太一少年はその場で倒れ病院へ。
親父は放水浴びながらもしぶとく戦い、最終的には追い出された。
水浸しの服で4月下旬の夜は寒かったとの事。
森ノ宮付近から歩いて布施まで帰るのが本当にしんどかったみたい。
そんな中、親父は布施に向かって歩いていたら、お尻がもぞもぞするとな。
肛門からもぞもぞするからなんやこれ?と手で触ってみて引っ張ったら、大きなサナダ虫やったとの事。
ブルブル震えながら森ノ宮から布施まで歩いて、実家に着いたのが早朝4時。
家に着いて休憩したその数時間後、半ば強引に連れて行った金太一少年が銃で撃たれて亡くなったとの情報が親父の耳に入った。
阪神教育闘争、金太一少年、、、、、
金太一少年はこの一件にて、現在、東京青山霊園の無名戦士の墓で合祀されておられる。
私も何回か手を合わしに行きました。
(アボジの一件もあった事もありで、金太一少年と私のあだ名同じやった事もありで)
合掌
(つづく)