
「展示の吉行は、龍馬が近江屋で暗殺集団(見廻り組)と渡り合ったものなのか?」
いずれの疑問も以前に提起したものですが、改めて整理したいと思います。
最初の疑問は、今回展示されている太刀吉行は龍馬愛用のものとは別のものではないのかです。
この展示されている吉行は、刀身の反りが殆ど無く(0.15㎝)、刃文も「吉行」の作風である丁子乱(刃文の乱れの頭が丁子の蕾に似ていることから)と異なる、さらに龍馬研究の泰斗であった故平山道雄氏が、自らの著書『龍馬のすべて』の中で、北海道釧路市の大火(大正2年12月26日)での損傷を受ける前の吉行とその鞘の写真(この後の記事で掲載)を載せ、吉行の刀身を二尺二寸(約66.7㎝)、そして「敵の鋭い刀は、太刀打のところから六寸ばかり鞘を削り、三寸ばかり刀身を削って」と書き添えているのですが、展示されている吉行の刀身は71.5㎝とあります。僕は、目を皿のようにして、矯めつ眇めつして調べてみたのですが、三寸(約9.1㎝)ほど削り取られた痕跡らしきものを見つけることはできませんでした。
ここに挙げた写真は、今回展示されているものですが、僕は初めて目にしました。古い写真で、昭和4年(1929年)5月10日から東京の青山会館で開催された「土佐勤王遺墨展覧会」に出品した龍馬遺品の一部を写したものと考えられます。
なぜなら、やはり今回展示された資料の中に坂本弥太郎(後述)の書いた「出品目録控」があって、そこに写真奥に写っている「梅椿図」の掛軸、その前の刀掛けに並ぶ3口の刀身、そのいずれもが記載されているからです。
3口の刀身は、上から吉行、埋忠明寿(刀身70.3㎝、反り1.1㎝)、そして脇差(刀身52.7㎝、反り1.9㎝)。写真全体が黒ずんでいるので火災にあったものをそのまま展示したように見えてしまいますが、当時のカメラや印画紙、写真の経年劣化のなせる業であって、今回展示されている吉行の写真を貼り付けて、被災後に研ぎに出された吉行であること(後述)の証にしました。
一番下にある脇差が再発見されたのは、この写真の存在が分かったのが切っ掛けで、平成27年に北海道の個人宅で見つかりました。備前国の刀工二郎左衛門尉勝光(甥)と左京進宗光(叔父)との合作で、永正2年(1505年)8月に作られた室町時代の古刀です。弥太郎の「出品目録控」には、「此刀ハ龍馬ガ特ニ愛セシモノ也」の記載がありますが、佩用したとの記載が無いだけでなく、龍馬が身に帯びていた脇差は慶応2年初頭の最初の写真から次の記事に挙げる最後の写真まで常に同じ短刀(遺品には見当たらない)。ですから刀剣愛好家としての龍馬の蒐集品の一つであるようにも思えますが、そうでないかも知れない。
長刀吉行について同控で弥太郎は、「此刀ハ元ト西郷吉之助佩用ノモノニシテ坂本龍馬二贈ル爾来坂本之ヲ佩用ス」と誤った記述をしています。吉行は龍馬が郷里の兄権平に所望して、慶応3年2月に四侯会議への出席要請に土佐を訪れた西郷へ権平が龍馬へと託したもので、龍馬は6月に京都で西郷もしくはその使いの者から受け取っています。弥太郎は婿養子に入ったひと(龍馬の長姉千鶴とその夫高松順蔵との間の次男が直寛。その直寛の長女直意の婿養子が弥太郎。もと熊本県濱武弥平の次男)なので、このように龍馬について疎いところがあるのです。
同控には、さらに続けて「慶応三年十一月十五日坂本、中岡ト共二京都河原町ノ寓居二於テ刺客二遭ヒ突嗟ノ場合鞘ヲ払フ二暇ナク鞘ノ侭ニテ受ケタルハ即チ此ノ刀也」とありますが、この記載でもって正真正銘と太鼓判を押すのはどうなんですかね。
この続きは次の記事で。
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