
「エトワール」
昔は「舞台の踊り子」と云っていたのですが、何時の頃からか、
このような呼び名に変わりました。
もっとも「スターの踊り子」と云う別名がありましたから、スター
すなわちエトワール(星)と呼ばれるようになったものと思われます。
エトワールとは、パリのオペラ座でプリンシパル(主役を踊る踊り
子)のなかでも特に花形だけに与えられる称号だそうです。
脂の乗ったドガ42、3歳(1876-7年)のときの作品ですが、
僅かに58×42cmの小品です。
しかし、そのコンポジションと云うか空間処理の巧みさが、絵に
実物以上の大きさを感じさせます。
僕が初めてこの図版を眼にしたのは中学生の頃だと思うのですが、
煌くような甘美なエトワールに魅入られて以来幾星霜、やっと今年
実物と向合うことができました。
横浜美術館「ドガ展」(9/18~12/31)にて。
パステル画へと僕を誘った絵ですから、心ときめくのは当然のこと。
でもそれはパッションと云うより、感慨にふけると云う表現が相応
しいものでしたが。
未だご覧になっていない方、12/9、12/16は休館ですが、後は大晦日
までやっています(10:00~18:00、金曜日は20:00まで)ので、この
機会に是非足をお運びください。
「エトワール」は、今回が日本初公開。僕等の足腰が丈夫なうちに
再び巡ってくるかどうか。と云うわけで、お見逃し無く。
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東電の福島第一原発所長が本社の意向に反して海水注入を中断し
なかったことをリーク(?)しましたね。
それに対して東電首脳は「現地の安全を考える上で技術的には妥当
な判断」であったとして評価しているのですから何をかいわんや
です。その独断で行われたことの報告が今に至るまで遅れたこと
に対して何らかの処分が必要と云うのは論点がずれているとしか
云いようがありません。
要は本社どころか官邸もこのこと(海水注入の継続)は周知のことであ
って、国会で追及されたものだから、屋上屋を架すことであっても、
取りあえず追及をかわす思惑でもって表沙汰にしたのでしょう。
タイトルのセントオフ(scent off)とは、このようなことを云います。
英国の狐狩りに由来するもので、逃がした狐を馬に乗った紳士・淑女
が猟犬とともに追いかけるゲームにおいて、狐の匂いを付けた人形
を持って囮となり追手の追跡を目晦ます役目のひとをセントオフと
云います。転じて「追跡をまく」の意味を持つ情報操作術になりま
した。
でもね、諺としては「上手の手から水が漏れる」と云うより「藪をつつ
いて蛇を出す」の方が相応しいのですが、ふとしたところか化けの皮が
剝がれるものです。
それが、このこと(海水注入の中断が無かったこと)を伝えられた原子力
安全委員会委員長の班目氏から引き出した次の一言。
“中断がなかったのなら、私は一体何だったのでしょう”
興味深い言葉ですよね、これって。中断があった、と云うことですから。
そして、この言葉の枕には更に興味深い次の発言が。
“私が「真水を海水にかえたら臨界が起こる」と発言したような情報が
流れたことは大変遺憾。ただ訂正してもらったので、それ以上のことを
申し上げることはない”
「真水を海水にかえる」ときと云う箇所がピカッピカッと点滅しています。
<
東電(のみならず官邸も)が海水注入を続けたのは、以前に指示に従って
中断したら、とんだことになったからでしょう。
あわてた首相は、稚拙なアリバイ工作。
首相の国会答弁を聞く限りにおいては、“私が止めたことは全くない、
報告が上がっていないものを止めろとか止めるなというはずがない”と、
「注水の中止」を「海水注入の中止」に意図的にすり替えています。
前者であれば、午後3時前の真水が尽きた後の海水注入を止めさせたこと
になるのですが、後者であれば、午後7時4分に始まった海水注入を午後
7時25分に停止させたことを指します。
再開(午後8時20分)するまでの55分間の停止期間を自民党は追及の
矛先としていましたが、先にも述べたようにメルトダウン、水素爆発が
起きた後では55分間の海水注入中断は大した悪影響は無いのです。
そんなことより、水素爆発の誘因となったメルトダウンを防げなかった
午後3時前の海水注入が出来なかったこと、つまり首相による注水中止
の指示が大問題なのです。
野党はこのことを徹底的に調査し、真相究明に臨むべきです。
稚拙な嘘で塗り固めた、水棺・石棺ならぬ「ウソ菅」では遺漏の防ぎよ
うは無いのだ!
の報告はなかった”と答弁しましたが、そうでは無かったことが判明
しました。
それは、東電の清水社長が5月2日の参院予算委員会で、海水注入指示
の時間を“真水停止(午後2時53分)の前だ”と証言しているから
です。
東電は真水が尽きそうなので海水注入を3月12日の正午頃に決定し、
午後2時50分頃に実施することに決めたそうです。
原子力緊急事態ですから、原子力災害対策特別措置法15条に基づき
首相に報告する義務があります。ですから直ちに報告した筈なのですが、
原子力安全委員会と保安院に“準備が整い次第、炉内に海水を注入する
予定である”とファックスしたのが、午後3時20分頃と云います。
午後6時過ぎに安全委員会、保安院、東京電力に海水注入の検討を
指示した、とも時間的に矛盾します。
「直ちに」でなければならないのに、何と30分も遅れています。
その間、注水できなかったことが1号機の水素爆発(午後3時36分)を
引き起こしたと見るのが自然ですので、実際は午後3時前に報告がな
されたものと思えます。(午後3時20分頃に報告というのは口裏合わ
せとしか思えません。)
この報告を受けて官邸では海水注入による再臨界の可能性について検討
し(午後6時では無く、午後3時頃)、班目氏の意見を受けて(捻じ曲げら
れて“再臨界の可能性がある”とされましたが)海水注入に待ったをかけ
たのが本当のところだと思います。
が“海水注入による再臨界の可能性などを官邸で検討している”と首相
からの指示があるまで中止するよう要請したからとされています。
東電は今日に至って、稼働中であった1~3号機が全てメルトダウンして
いることを認めましたが、あくまでもデータ解析を経ての公表であって、
当初から専門家の間で囁かれていた(途中交代させられた保安院委員も口を
滑らした)ようにメルトダウンが想定内のものだったことは明らか。
東電は全電源喪失直後からメルトダウンに至らないように懸命の注水作業を
続けていた筈で、圧力容器の気圧が高いためにその注入に苦労していたか
らこそベントも必要だった筈なのです。
そのベントを邪魔したのが首相の現地視察であったことは言を俟ちません。
少し放射線でも浴びせてやればよかったのに、と僕は思うのですが、そう
も行かずに首相が飛び立つまではベントが出来ず、そのため注水に支障が
あったのも事実。そしてそれがメルトダウンへと繋がり、水素爆発を誘因
し、大量の放射性物質を空へ海へと撒き散らし、大量の瓦礫が事態の収束
を妨げているという現実。
そういった元凶を覆い隠すためには、海水注入時点での再臨界の可能性云々
にせざるを得なかったのです。
専門家の意見によれば、メルトダウン、水素爆発が起きた後では55分間
の海水注入中断は大した悪影響は無いとのことですから、ますます偽装工作
の疑いが濃くなります。
かように首相自身がメルトダウンしているのですから、如何ともし難いの
です。
ことだ。何が起きたんだ”と大声を上げたのだと思います。
しかし真水の注入を中止したことにより、原子炉の冷却ができなくなって
大量の水素が発生し、結果水素爆発を引き起こすことになったのが明々白々
となって、こりゃ大変なことになった(あくまでも保身第一の首相自身に
とってですが)と感じた首相(その周辺の人々も)が、己にとって都合の良い
ストーリー作りに懸命とならざるを得なくなった。
そしてその日の午後6時過ぎに安全委員会、保安院、東京電力に海水注入の
検討を指示することになります。
真水が尽きたので注水を中断した、そこで海水の注入が可能かどうか検討
させることにした、という筋書きです。
東電は午後7時4分から海水注入を始めました。が、7時25分には停止
しています。(再開は8時20分。)
この中断、班目氏の“再臨界の可能性はゼロではない”の答申を受けての
ものとされていますが、先に述べたタイミングでの発言である筈です。
なぜなら専門家の大方の見方は、燃料棒を等間隔に並べた状態でないと
ウランと水が一定の比率にならないので再臨界は起きにくいと云うもの
だからです。メルトダウンの状態では再臨界の可能性はほぼゼロなのです。
ですから海水注入に躊躇する必要などなかったのです。
捻じ曲げられて“再臨界の危険性がある”(班目氏からの抗議を受けて
“再臨界の可能性はゼロではない”と後日訂正された)とされたのも
何かまずいことを糊塗するためのものであったことは確か。
ではそのまずいこととは何か、とういことになりますが、それがメルト
ダウンであったと思うのです。
再臨界は、原子炉の自動停止に伴って核燃料棒間を遮蔽するようにな
っていますので起こりにくいのですが、メルトダウンとなって核燃料
が溶けて底にたまるようになると、注水した水は中性子を減速させて
核分裂反応を起こしやすくします。そして次々と核分裂の連鎖反応を
引き起こして再臨界となります。
この説明があったので、あわてた首相が注水を止めるように東電に指示
したと見るのが自然なのです。
しかし、真水の注水を中止した直後に水素爆発を引き起こした。
メルトダウンした場合の再臨界の起きる確率は、ゼロでは無いが、極めて
低いもの、と云うのが原子力の専門家の一致する意見です。ですから班目
氏もそのような発言をした筈なのです。
しかし、例によって物事を深く考えない首相は、注水を止めた場合の危険
性に考えが及ぶことなく直ぐに中止の指示を出したのでしょう。
昨日の衆議院東日本大震災復興特別委員会では海水注入が一時中断した
ことや、首相の視察が原因でベントが遅れたことの追及に終始していた
感がありますが、一連の経過から判断すると、メルトダウンが起きる可
能性が十二分にあることの報告を受けての首相の判断ミスの結果である
ように思えます。
東電はやっと1号機から3号機までの稼働中であった全ての炉心溶融を
認めましたが、冷却用の全電源を喪失して、その復旧の見通しも立たな
い状況にあって、メルトダウンは時間の問題であった筈です。
1号機は12日午前7時頃、2号機は自動停止の約101時間後(15
日午後7時頃)、3号機は約60時間後(14日午前2時頃)にそれぞれ
メルトダウン。
であればこそ、水の注入が必要になるわけで、実際に東電は3月12日
の午後2時53分まで真水の注入を行っていたのです。
それが中止となった背景には、原子力安全委員会の班目春樹委員長の
“再臨界の可能性がある”の答申があったように思うのです。
この答申がなされたのは、12日午後3時36分に1号機で水素爆発が
起きた後とされていますが、議事録が残されていない以上、額面通りに
受け取ることはできません。
水素爆発が起きたときに首相が班目氏に“これはどういうことだ。何が
起きたんだ”と大声を上げたそうですから、(班目氏から)云われたように
(東電に指示することを)したのに最悪の結果を招いたじゃないか、との
恨み節としか聞こえませんからね。
5月2日に以下のものを楽天市場で購入したのですが、
①プリンター(Canon PIXUS MG5130)
②プリンター接続用USBケーブル (USB2.0 A-B)
③プリンター用Bluetoothユニット(BU-30)
すぐ(4日)に届いたのは①で、次いで(8日)届いたのが③。
なのに肝心要の②が中々届きません。このケーブルでパソコン
に繋がないとプリンターのインストール作業ができないのです。
イライラしながら待つこと暫し、やっと昨日(12日)に届きました。
早速インストールを行ったのですが、Bluetoothでの無線接続
が巧く行きません。あちこち(盲滅法という表現が相応しい
のですが)手を入れていたら、ケーブルを接続した場合の印刷
もできなくなってしまいました。
手におえなくなって、Canonのカスタマーサービスに縋り付いた
のですが、これまた要領を得ない受け答えに終始。
仕方なく打ち切って、問題点をよく整理してからやり直して
みることにしました。
そして今日、そうではないかと閃いたところのことを試して
みたところ、有線でも無線でも印刷ができるようになりました。
一言マニュアル(しかも電子マニュアル)で触れていれば、その
ようなミスを犯さずに済んだ事柄です。
手を抜くと碌なことにならないのは、事の大小に係わらず、古今
東西、様々な場面で実証済み。僕の場合は昨晩寝そびれた位の
極めて些細な被害で済みましたが、福島原発事故の方は益々混迷
の度合いを深め、被害を極めて深刻なものとしつつあります。
専門家は兎角、そのような事(場面)には至らぬ筈だと決めてかか
り、そこを手抜く。そして事が起きてから、その些細と思っていた
穴の大きさ、深さに気付かされる。
6億円余りの現金強奪事件、警報システムが配備されていなかっ
たそうですね。それで商いしているというのに、吃驚唖然!
なんだ、
それまでのPCではCPUの動作速度もメモリーやディスクの容量も
不足してしまうので、結局PCを買い換えざるを得なくなるのです。
ですから専門家(高度の仕事で使用)でない限りは、欲張った高価なもの
は買わないほうが良いと思います。
それでもWindowsXPは使い勝手が良くて、約十年間も使用することが
できたのですから、購入時の価格(約16万円)から考えてもコスト
パフォーマンスはかなりの好成績です。
三代目(Windows7)は、半分にも届かない価格でありながら、メモリー
容量で15倍強、ディスク容量で35倍弱、CPUの速度は調べていま
せんので何とも云えませんが、相当速くなっているでしょうから、
ここしばらくモタモタ感にうんざりしていた僕にとっては久し振りの
サクサク感を堪能できることになります。
古いPCですが、初代は廃棄しますが、二代目はそうも行かない事情が
あってしばらく(結構長期間?)手許に置いておかなければなりません。
データはメモリースティックなどを使って移すことができますが、OS
が64ビットに変っていますので、それまで使用していたソフトウェア
が動きません。ですから、それらのソフトを使用するときには二代目の
出番となるのです。(インターネットに接続して使わないようにします
ので、InternetExplolerやOutlookExpress、それにセキュリティソフト
などを削除することができますので、メモリーとディスクに十分な空き
容量を確保でき、動作環境は確然に良くなります。)
これからマニュアルを片手に様々なインストール作業を行っていくこと
になりますが、その過程でプリンター(無線で利用可、コピー機能付)も
適当なものを選んで買い換えようと思っています。
10年後、僕自身の生存も定かではありませんが、三代目はその頃まで
生き長らえるかしらん。
以前(「団塊の世代雑感98」)触れましたが、これまでほぼ十年間
使用してきたPC、あれこれ手当てを施してヨレヨレながらも使っ
てきたのですが、到頭にっちもさっちも行かなくなって、仕方なし
に新しいPC購入に踏み切りました。
今夏は節電に心掛けなければなりませんから、バッテリーが利かなく
なっていたこともあり、買い替え時でもあったわけです。
そのPCが先ほど届きました。薄っぺらなマニュアルしか添付されて
いませんので少々不安ですが、僕のGWは新しいPCを利用できる
ようにするための諸手続きに忙殺されることになりそうです。
もっとも現在のような世情ですから、相応しい時間の使い方なのかも。
表題にあるように、三代目のPCになります。(購入動機からすると
三台目と云うよりも代替わりを示す三代目の方が相応しいのです。)
いずれもノート型です。
仕事の関係上、CP/MとかMS-DOSと云った簡単なOS(Operating System)
しか搭載していなかった初期の時代からPCを使用してきましたが、
とても個人が購入できるような値段では無く、やっと購入できるよう
になったのはWindows95の出たての頃(1995年)。それでもあれこれの
オプションを付けて50万円近くも掛かりました。これだけの装備なら
十年近くは大丈夫だろう、なんて甘い見通しは、日進月歩の世界に
おいてはいともたやすく覆されて、WindowsXPが登場した時(2001年)に
二代目を購入することに。
橋」が僕は好きです。(どちらも広告に載っていたものです。)
安西は文章も巧みで、『東京百年』には作品ごとにその制作への思いが
簡潔に述べられています。
「日銀屋上ドーム」には「三越での展覧会の帰りがけにふと見上げて、
私はこれを発見した。ニコライ堂や博物館のように特別にこれを売物
にしている訳ではないから東京でも知らぬ人、気が付かぬ人が多いだ
ろう。それ丈に私は早速これを第二作めに取上げた。ルネッサンス様
式のこの建物は、冬のやゝ西に傾いた日を浴びて立体感が加わり、緑
青の丸屋根も白い石の壁面も輝いて、空は深く青かった。日本銀行は
明治十五年に設立され、現在の建物は明治初期の代表的建築物の一つ
で、東京駅と同じ辰野金吾氏の設計である。六年の歳月を費し明治十
六年に竣工した。私の東京シリーズはいわゆる東京名所ではない。史
跡でもない。東京百景とも云わない。だから右のような故事来歴には
とらわれず、画人のこの目で見て、美しい、面白い、と思った所を取
り上げるのである」(抜粋)とあります。
制作された二月の冬空の青と、日が落ちるのが速いので午後の何時頃
なのか分かりませんが、西日に照らされてくっきりとその輝きを放つ
丸屋根の緑青とその下の壁面の白が絶妙の空間の中で醸し出すハーモ
ニーの美しさ。素敵な絵です。
「品川の八ツ山橋」には「この橋までが元の東京市であった。この橋
は明治初期の古い橋である。御殿山と共に桜の名所であったから、花
の頃は黒いモダンな橋として画材にもなった、最初の機関車も同時に
憶い浮ぶ。展覧会の搬入画を馬力車に乗せてゴトゴトと通ったことも
ある。終戦後は羽田からの客に、橋のアーチに大きくウェルカムとロ
ーマ字が掲げられた事もある。これに並んで陸橋がもう一つ出来、高
速道路が海の方を通るようになり、この橋の通行は今は少ない。がこ
の下の東海道線は、数々の上り下り線が引っ切りなしに機(はた)を織
る如く、否輪転機の如く走って、夜の闇に写生をしているとガアッと
云う音に目が眩んで引込まれ墜ちそうであった」(抜粋)。
一月の闇夜に浮かぶ黒々とした鋼鉄の鉄橋とホームや駅舎の寒々と煌
々とした灯りの対比が美しい、夜景として理想的な絵です。なんとも
懐かしい情景でもあります。
この2作品、以下の「安西啓明 ~描かれた東京~」の案内で見る
ことができます。もっとも実物とは微妙に色合いが異なりますが。
http://www.ota-bunka.or.jp/gallery/post-106.html
「国電新旧蒲田駅」(S37)、「羽田空港の対岸」(S38)、「森ヶ崎海苔
干場」(S38)、「池上本門寺総門」(S40)といった大田区に縁のある作品
も含まれているのですが、なぜか今回は展示されていませんでした。
今回展示されている5作品は全て大田区所蔵ですが、平成3年度、7年
度、8年度と三度も大田区から区民功労表彰を受けていることから
して、また逝去(平成11年1月11日、享年93)の前年に大田区民
プラザで「安西啓明日本画展」を主催していることからして、大田区
にはもっと沢山の作品が所蔵されていると思うのですが、展示スペース
の関係から今回のものが恣意的に選ばれたのでしょう。
安西啓明(本名正男)は、明治38年4月15日に東京八王子に生まれ、
大正7年に両親ともども都内に移りましたが、それが「東京シリーズ」
を描いていたときに住まいしていた大田区中央であったのかどうかまで
は定かではありません。
大正10年に川端龍子に師事しますが、龍子が前年に大森(荏原郡入新井
村)に画室と住居を構えたことと関係しているのでしょうか。
以後、龍子が活躍していた日本美術院に作品を発表し、同15年に初入
選しています。
昭和4年に龍子が「青龍社」を結成。安西もこれに参加し、同年に開催
された第一回青龍展から龍子が亡くなり青龍社が解散する昭和41年
まで活動を共にします。
「東京シリーズ」は、この間の昭和35年から制作が開始されました。
シリーズ第1作「お濠石垣と白鳥」から第80作「新橋駅歩廊より」
までの作品を収めた書籍『東京百年』が日本美術社から刊行された
のは第80作が制作された三月後の昭和43年8月のこと。
この青龍社での活動も含めて、大田区在住の画家として活躍したことが
評価されて、何度も功労表彰されることになったのでしょう。
これまでの人生観を一変させるような大災害を目の当たりにして、
とかく気持ちが萎縮勝ちになっていましたが、精神的高揚にと、
東日本大震災の起こる前に計画していた展覧会に行って来ました。
といっても、遠出したわけでも、著名な画家の絵を観に行ったわ
けでも無く、蒲田のアプリコで3月1日から5月22日まで開催
されている「安西啓明(ケイメイ)~描かれた東京~展」へ、です。
大田区報だったと思うのですが、その広告(2作品の写真付きで)が
載っていて、その宣伝文句(“川端龍子に師事した作者の描いた
「東京シリーズ」作品を展示します。描かれた当時の「今」と変ら
ない「東京」、「今」とは変貌した「東京」の情景をお楽しみくだ
さい”)に惹かれたのです。
アプリコ・アートギャラリーに展示、とのことでしたので、さぞか
し沢山の作品が展示されていると思いきや、展示されてあったのは
僅かに次の5作品のみ。
1.有栖川公園銅像(シリーズNo.86、S44年、紙本彩色、91×117cm)
2.日銀屋上ドーム(シリーズNo.2、S35年、同上、同上)
3.浅草観音堂夜景(シリーズNo.96、S48年、同上、同上)
4.品川の八ツ山橋(シリーズNo.19、S37年、同上、同上)
5.日本銀行の裏門(シリーズNo.56、S40年、同上、同上)
とはいえ、安西自身が、その著書『東京百年』のあとがきに、「東京
の変貌ぶりは実に急速である。私は自分の目で見た現在の姿を描い
ているのだが、失われ、壊されそうな、明治大正の建物を先にする
のは当然である。それは懐旧ではない愛情である。すでに形を消し
た建築や、場所もあって、同時代に生きた人間の描いた記録画とも
なったのである」と述べているように、僕等が十代の頃に見慣れて
いた風景、それが単に懐旧というだけでは止まらない感傷をもって
観る者に語りかけてくるものでした。
ちのけ。おまけに風評被害の発信源にもなっている有様。
自民党議員が14日に「東日本大震災の被災者らを西日本で受け入
れる態勢が必要ではないか」という話を持ち込んだのを、その経緯
や理由をも語らずに突如として16日になって総務省から西日本の
都道府県や市町村に公営住宅の空き状況などを調査する指示が出た。
これが「第1原発が相当深刻なのか」という不安を増幅させること
に繋がって、外国人の帰国や関西方面への退避といった行動を起こ
させることになったのですから、何をかいわんやです。
その16日、オバマ大統領から菅総理に電話があって、「核融合や
原発の被害管理に通じた米軍の特殊専門部隊の派遣を含め、追加支
援の用意がある」と伝えたのですが、上述したように菅総理は深刻
な事態であるとの認識が希薄だったのですから、そのような応対を
したのでしょう。それに対してオバマ大統領とどのような遣り取り
があったのか分かりませんが、翌17日に米政府高官が「オバマ大
統領は日本政府が原発事故の深刻さに気づいていると確信した」と
語っていることから推して、菅総理はやっと深刻な事態であること
に気付かされたものと思われます。
それから米国の援助を受け入れるまでに2週間も要したと云うの
ですから、何をかいわんやです。
今度ばかりは、お遍路さんなんぞで、誤魔化せませんぞ!
力に強いんだ」と、自身が東京工大応用物理学科卒であることを
誇ったそうです。12日の視察でも「原子力発電を勉強したいか
ら」と云ったそうですから、何をかいわんやです。
現場からの撤退の意向を東電から聞いた菅総理は、15日早朝、
内幸町にある東電本店に乗り込んで、「テレビで爆発が放映され
ているのに官邸には1時間連絡がなかった」とか「撤退したとき、
東電は百パーセントつぶれます」とか、さらには「覚悟を決めて
ください」と迫ったそうです。
TVで見たなら直ぐにでも行動を起こすべきでしょう。原発は政府
が責任を持つことが法律で決められているのですから、尚更です。
すべて他人まかせで、自らは泥を被ることをしない。責任を相手に
押し被せる。これが常に変わらぬこのひとの体質。だから、官邸に
戻った後も「東電のばか野郎が!」と怒鳴り散らしたそうです。
それなのに、上記16日夕方の時点で、菅総理は「ここから第1原
発の方も収まりそうなので、原発の問題で枝野官房長官や福山官房
副長官の荷を軽くさせたい」との判断を述べたそうですから、何を
かいわんやです。
12日の視察が無かったのなら、応接に無駄な時間を割くこともなく、
状況判断も進めることができて、東電の報告も別のものになって
いたかも知れません。そのせいで事故対応が遅れ、現在に至る混乱
を招いたことを反省するどころか、「現地を見ることが重要だと
感じた。今(26日夕方)でもそれが役に立っている」と言い放った
といいますから、何をかいわんやです。
容器内で水素爆発が起きてもおかしくない筈なのですが、水素
も一緒に漏れ出しているので大事に至っていないのでしょうか。
それとも水素は圧力容器内から漏れ出していないからなのでし
ょうか。いずれにせよ、微妙なバランスの上で小康を得ている
のかも知れません。
さて、タイトルの「元凶」ですが、そもそもは菅総理の判断ミ
スが現在の混乱を招いたのです。
地震発生直後に福島第一原発から、大津波をかぶって自動冷却
装置が破損し、炉内の冷却が思うようにいかない、との報告が
官邸に上がってきたときに、東電に伝えた意向は、「まず、安全
措置として10キロ圏内の住民らを避難させる。真水では足り
ないだろうから海水を使ってでも炉内を冷却させることだ」
と極めてまともなものであったのですが、東電が(経営上の観点
から)強く難色を示したために、簡単に前言を翻し、11日午後
4時57分に「一部の原発が自動停止したが、外部への放射性物
質の影響は確認されていない。落ち着いて行動されるよう心から
お願いする」と国民に対して発表。
「東電に全て一任した」という発言も記憶しています。
避難圏内も3キロとして、以後二転三転して現在の20キロ、
30キロとなっています。
そして翌12日早朝、官邸から自衛隊ヘリコプターで第1原発の
視察に向かい、現地の状況を目で確かめた上で、午後の与野党
党首会談で「危機的状況にはならない」と言い切ったのですが、
間の悪いことに、その最中に1号機で水素爆発が起きました。
12日午後には海水注入の作業も始まり、状況は時々刻々と深刻
さを増して行きます。
福島第一原発の事故で、放射線を大量に放出している元凶が
2号機であるのは、ほぼ間違いないように思えます。
原子炉建屋が水素爆発で吹き飛ばなかったのも2号機だけで、
当初から疑われているように、原子炉格納容器の一部が破損
しているために、そのような事態に及ぶことがなかったもの
と思えます。
最初は1号機、3号機、4号機の天井を吹き飛ばした原因は、
原子炉圧力容器の中にある燃料棒というよりも、使用済み核
燃料プールにある使用済み燃料棒ではないか、と疑ったりし
たのですが、それなら2号機だって587本(1号機は292
本、3号機は514本、4号機は1331本)もあるわけです
から、やはり原子炉格納容器の中にある燃料棒が関係してい
ると見たほうがよさそうです。
4号機だけは、1331本もあった使用済み燃料棒の余熱
が原因であるように思います。それでも比較的被害が少な
くて済んだのは、発熱量の違いなのでしょう。
燃料棒に使用されているジルコニウムは、1100℃を超える
と水と反応しやすくなり、水素を発生するそうです。
その水素が色々と複雑な配管のいずれからか格納容器の外に漏
れ出して建屋内に溜まり、それが空間内の体積の14%以上に
なると、酸素と反応して水素爆発を引き起こします。
水素爆発を防ぐために、格納容器の中には不活性ガスの窒素が
入れらているので、今のところは格納容器内での水素爆発には
至っていませんが、それが漏れ出している可能性もあると云う
ことから、(酸素の流入を防ぐために)窒素を補充し直すことを
東京電力は検討を始めたそうです(4号機を除く)。ただし、その
ことで容器内の蒸気が大気中に放出されることにもなるため、
慎重な検討が必要です。
ですから、チェルノブイリの原発事故で受けた50グレイと云う
値は、50,000ミリシーベルト(50,000,000マイクロ
シーベルト)と云う途方も無い数値であったわけです。
先日、金町浄水場で検出された210ベクレルのヨウ素ですが、体外
への排出や半減期(8日)を考慮せずに、すべてが体内に留まったとし
ても、1年当たり
210×365×1.5*1=114975ベクレル
114975÷28000*1×3*2=約12.3ミリシーベルト
ですから、50,000ミリシーベルトに達するには、
50000÷12.3=4065年
にもなります。(100ミリシーベルトでも約8.1年。)
*1:乳児は(生後6ヶ月頃がピークとのことですが)、1日に1.5ℓ
を飲むとしています。
*2,3:「99-1」で「茎立菜から検出された82,000ベクトルのセシ
ウムが1.31ミリシーベルト(1,310マイクロシーベルト)に相当するそう
です。ですから、ベクレルはマイクロシーベルトの約62.6倍ほど
の値になります」として換算しましたが、ヨウ素の場合には次のこと
を参考にして換算してみました。
乳児だけでなく、妊婦の被曝量も心配の種ですが、500ベクレル
の水道水を40週間の妊娠期間中に毎日飲んだとしても、被曝量は
約3ミリシーベルトと云います。もっとも、この値は体内の残留量
が2割ほどとしてのものです。
500×40×7×0.2=28000ベクレル*1
これで3ミリシーベルト*2ですから、ヨウ素の場合には、約9333.3
ベクレルで1ミリシーベルト(1000マイクロシーベルト)の被曝
となるようです。
心配するような値では無いのです。それに検査の翌日には値も基準値の
100ベクレル未満になったわけですし、いたずらに混乱を招くような
発表は控えるべきでした。数日間の様子をみてから、高くなった原因や
今後の見通し、さらにはその値が健康上にどの程度の影響を及ぼすもの
か、専門家の意見を交えて発表すべきです。
政府自身が風評の源であるのは何とも嘆かわしいことです。
チェルノブイリの場合には、汚染された牛乳の所為だけでなく、極めて
高濃度の放射線を浴び続けたことも影響しているのだろうと思います。
福島第一原子力発電所のトラブルは、そういった意味でも、なんとして
でも鎮圧して欲しいものです。
それにしても、終息に向っているのか、小康状態を保っているだけで、
まだまだ予断を許さない状態にあるのか、国際原子力事象評価尺度が
当初の4から5(米国スリーマイル島原発事故)となり、今朝の新聞紙面
では6となって、だんだんと7のチェルノブイリ原発事故に近づいて
いるのが何とも不安です。
白煙が上がったとか、煙に黒いものが混ざっているとか、原子炉が不安
定だとか、格納容器の圧力が上がったとか、さらには作業員(3人)が
被曝したとか、不安を掻き立てることばかりです。
30Km圏内の避難地の一部でも、かなり深刻な放射能が飛散している
のに屋内待機をさせたままです。どこまで我慢しろと云うのでしょうか。
様々な場面で過敏な対応をして、いらぬ混乱を招いている政府ですが、
こちらの方はかなり鈍感。大票田には至れり尽くせりで、取るに足らな
いところは見殺し?
と、なんと約500発分に相当する大量の放射性物質を撒き散らしてい
るのです。
そのようなものを範例とするのも、「あ、かん」でしょ。
今の政府の発表や指示を見ていると、臭いものには蓋的な、国民の判断
に委ねると云った、いわば責任遁れの、責任放棄とも云える行為としか
私たちには映りません。
そういった無責任さが、様々な風評を生み出し、それがやがてデマとなり、
弱者へのしわ寄せとなるのは火を見るより明らか。
政府は、もっと全体に考えを巡らせてからきめ細かな発表なり指示なりを
行って欲しいと思う、このようなときだからこそより慎重であって欲しい
と思うのです。
「食べても飲んでも安全なのですが、念のために、飽く迄も念のために
飲食を控えてください」なんて、どう解釈すればいいんだよ、ったく!
それにしても、どうして水道の蛇口と浄水場とで調査結果が違うの
かしらん。文科省は「調査地点が異なるから」だって。あ、かん・・・
そもそも「ヨウ素」「乳児」でこれほど敏感に反応するのはチェルノ
ブイリ原発事故の所以。
事故の後、汚染された区域の一部の子供が地元の牛乳を通じて放射性
ヨウ素を体内に取り込み、甲状腺(ヨウ素は甲状腺に集まる)に最大
50グレイの高い線量を受け、小児甲状腺癌が急増したからです。
「グレイ」は、吸収した放射線の総量を表す単位で、放射線によって
1キログラムの物質に1ジュールの放射エネルギーが吸収されたときの
吸収線量が1グレイです。
ちなみに1ジュールとは、地球上で約102グラムの物体を1メートル
持ち上げる時の仕事に相当するエネルギー量です。
ベクレルとグレイの換算は調べてみても分からなかったのですが、高い
値だったのだと思います。
事故の翌年(1987年)から一部地域での小児甲状腺癌の増加が観測されて
いるので、尚更に因果関係があると思われたのです。
しかし広島(長崎もそうですが)に原爆が落とされたときに、その地で水
を飲まなかったわけではありませんし、周辺の地で採れた作物を食べな
かったわけでもありません。沢山のひとがそのような生活を長く続けて
いて、どれだけ体内被曝をしたと云うのでしょうか。
半減期30年と云われているセシウムだって、体内に取り込んでも
100日前後で体外に排出されるそうですし。その伝だと、ヨウ素
なんぞは8日よりももっと短期間に排出されることになるし。
で22日に水道蛇口から採取した水道水の放射性物質(放射能)水準
の集計結果を発表したのですが、東京都(新宿)の水道蛇口では水1
キロ当たり放射性ヨウ素19ベクレル、放射性セシウム0.31ベ
クレルを検出。それぞれ0.3、0.005マイクロシーベルトに
なります。大気中の放射線量が東京(新宿)の場合、0.146/時
マイクロシーベルトでしたから、そんなものだったのでしょう。
この値は国の基準値を超えていなかったので問題とならなかったの
ですが、またまたママさんたちを奔走させることになるであろう次の
ニュースが・・・。
東京では、金町浄水場でも検査が行われたのです。そこで乳児の基準
(100ベクレル/Kg)を超える210ベクレル(3.35マイクロ
シーベルト)のヨウ素が検出されたものだから、さあ大変!
乳児以外の基準値は300ベクレル/1Kg。
1歳未満の乳児に水道水で溶いたミルクを飲ませないようにとの報道
が東京中を駆け巡りました。
東京でそうなら、福島県はもっと凄い値になって、てんやわんやかと
思いきや、先に書いたように、検査の対象外。その理由が(宮城も含めて)
大震災の被害で測定できないからだって。一体全体どうなってんだ!
責任者、出て来い!あ、かん・・・
ついこの間までは「シーベルト」という単位が僕等の不安感を
煽り立てる数値として紙面や映像に躍っていましたが、突然に
「ベクレル」という単位になって、不安感のみならず不信感も
増すことに。
「シーベルト」は、以前は「レム」と呼ばれていたもので、
1シーベルト=100レム。
「ベクレル」は、以前は「キュリー」と呼ばれていたもので、
1キュリー=3.7×1010ベクレル。
「シーベルト」は、人間などの生体に与える放射線の影響度の
単位ですので、これで統一してよいと思うのですが、今日のニュ
ースでは「ベクレル」という、これまた聞いたことも無いもの
が使われていました。
これまでだって、福島県など事故った原発の近隣県産で見つ
かった高濃度の放射性物質で汚染されていた野菜だって、シー
ベルトで表していたのに。
「ベクレル」は、放射能(放射能物質が放射線を出す能力)を表す
単位で、1秒間に1個の放射線を出すと1ベクレルになります。
どのように単位が異なるのか、その変換式は知らないのですが、
茎立菜から検出された82,000ベクトルのセシウムが1.31ミリ
シーベルト(1,310マイクロシーベルト)に相当するそうです。
ですから、ベクレルはマイクロシーベルトの約62.6倍ほど
の値になります。
したりして、さらにディスクの中身を整理整頓して連続スペースを大きくす
るなどしたのですが、それでも追っつきません。
ですから、それまで利用したことのないソフトは勿論のこと、利用頻度の少
ないソフトまでも削除せざるを得なくなりました。ギャハー!
そうしてやっと音楽を取り込むソフトを動かせる環境にして、CDから新し
いケータイへ60曲近くを取り入れたのが今日の午後4時頃のこと。
当然のことですが、Cドライブ上で編集していますので、ディスク容量を
元に戻すために、それらの後片付けも必要。
でもそれでOKということにならないのです。ケータイのスピーカーから聴
くことは出来ても、周りの迷惑にならないようにイヤホンで聴けるようにし
ないと。
でも今まで使っていたイヤホンですが、それ専用のジャックが新しいケータ
イには付いていないのです。そのイヤホンを使おうとすると、値段は安いの
ですが、ごっついアタッチメントを付けなければなりません。
で、新しいケータイはBlueToothという無線機能を搭載していますので、それ
を使ったイヤホンを購入することにしました。
正価は¥10,800もするのですが、楽天市場を覘いたら¥8,148!
喜び勇んでそれを購入したのがつい先ほどのこと。
というわけで、やむやむ機種変更に掛かった費用はなんだかんだで¥25,000
強。トホホ。
それに、PCの延命策も限界が見えて、そろそろ買い換えないと駄目にな
ったようですから、有形無形の新たな負担が・・・。
ギャハー!ドロンジョさま~、なんというお仕置き~
をPCにダウンロードするかしなければなりません)を読んでいたところ、
CDから音楽を取り込むソフトをネットからダウンロードできるとの
ことでしたので、早速そのソフトをダウンロード。
ここまでは良かったのですが・・・。
なんと、そのソフト、WindowsのセキュリティがService Pack2以上に
なっていないと使えなくしてあるのです。ギャハー!
そして迷走が始まります。トホホ。
僕が現在使用しているPCはWindowsXPですが、XPが世に出て直ぐに
購入したのでかれこれ10年近くになります。当時はメモリーもディスク
も容量は十分と思えたのですが、日進月歩のこの世界、あっという間に
どちらも足りなくなってきていたので、重たいService Pack2に乗り換えず
にずっとService Pack1でやって来ていたのです。
でもどうしても音楽を取り込むソフトを利用したかったので、清水の舞台
から思い切って飛び降りてしまったのです。
Service Pack2のダウンロードに時間のかかったこと。やはり予想以上の
重たさなのです。ディスクはCドライブとDドライブとに折半しているの
ですが、プログラム関係はCドライブに入りますので、あっという間に残
り容量が少なくなってしまって、プログラムを動かしてメモリーが足りな
いときにはCドライブのディスクを仮想記憶(仮想メモリー)として使用し
ますので、プログラムの動作がのろくなったり、場合によっては起動でき
なくなってしまいます。ギャハー!
この3日間、忙しかったなぁ。
発端はケータイを機種変更したこと。
新し物好きの僕ですが、いま流行のスマートフォンに替えたかった
わけではありません。自発的というより仕方なくです。
或る日のことです。auから通知がきて、
「さて、お客さまが現在ご利用中のケータイ電話は、2012年7月まで
に切替予定の新たな周波数ではご利用出来なくなります云々」
なんて、まだ4年ちょっとしか使用していないし、やっと色々と操作
だって覚えたところだし、それにケータイに取り付けたMicroSDにCD
から取り込んだ歌だって利用できなくなる可能性もあるかも知れない
わけだし、と不満や不安をあれこれauのサービスセンターに訴えた
のですが、そもそもは日本国における電波の周波数帯域の変更にある
わけですから如何ともし難いのです。
CDから音楽を取り入れるソフトだって別売りのものを購入して
いるわけですし、有形無形の負担が掛かっているのです。
まぁ割引もしてくれるということだし、それに今だとデザインや機能
面で気に入った機種(インターネットで調べました)があるので、2月
28日に機種変更してきたのです。
新しいケータイでは、以前のケータイでMicroSDに取り込んだ音楽
を聴く機能は付いていませんでした。トホホ。
されたのでしょう。デビュー作が昭和34年の「危険なラブレター」
ですからビッタリ符合します。
生れたのは板橋区ですが、当時は立会川辺りから通勤していたそうで、
現在は山王口に居住しているとか。
過日、「アメリカベアリング」の社長が懐かしさの余り、小林くんの
店を訪ねてきて山下洵一郎の現況を話してくれたので分かったそうです。
小林くんが「山下洵一郎に会いに行ったら覚えていてくれるだろうか」
と(僕に)云いますので、同級生どころか年上と思われるから止めて置
きなさいと忠告。ま、環境が変わればひとも変わるし。好い思い出は
リボンを掛けて大切にしまっておくに越したことは無いですものね。
「越前竹人形」を改めて観て思い出したのは、この映画で西村晃が大嫌
いになったことだった。(それで水戸黄門を見なくなったのだ!)
原作をもう一度読んでみたい。本棚やあちこちを血まなこになって探さ
なきゃ。リボンを掛けてないけど見つかるでしょ、きっと。
*時計の針は0:00を回っちゃったけど、不定時法でよろしく。
今日(2/20)は水上勉原作の「越前竹人形」(S38、大映)を観てきま
した。(この間にも2本ほど観ているのですが、それは秘密。)
原作も読んでいて、映画もTVで何十年か前に放映されたものを
観ているのですが、やはり大きな画面で見たかったのです。
若尾文子、好いですね。しっとりとした湿度を感じさせてくれる
本当に上手い女優さんです。
モノクロの映像(宮川一夫)も素晴らしいですが、大映作品で常に
思うことは音声技術が良いことです。ですから若尾文子の湿り気
を帯びた声がより活きたものになります。
若尾の相手役(竹細工職人)は山下洵一郎ですが、このひと、3組の
小林修一くんの知合いなんです。
といっても山下洵一郎(本名だそうです)が松竹にスカウトされる前
のことなのですが、小林くんは山下洵一郎が夜間高校に通っていた
ときと記憶しているようなのですが、「中央」の名が付くところで
夜間高校があるのかどうか分かりませんが、プロフィールを見る限
りにおいては中央大学の法学部在学中にスカウトされていますので、
二部の大学生のときだったと思います。
山下洵一郎は昼間、小林君のお父さんの店(半分)を間借りしていた
「アメリカベアリング」という会社の従業員として働いていたので、
そのときに小林くんを可愛がってくれたそうです。
小林くんはそれが小学校の低学年(3年生くらい)のときと記憶して
いるようです。山下洵一郎は昭和14年2月19日生(おっ、昨日が
誕生日だ!)ですから僕等より10歳ほど年上ですので、丁度大学に
進学したときであれば辻褄が合います。
③が原作に近くて、調教しようとした譲治がナオミに屈服するという、
谷崎の女性礼賛・耽美調のもので、大変気に入った作品でした。
京マチ子の豊満な肉体がナオミをどのように演じているのか興味津々
でしたが(実際、それについては満足)、そのことが結末を変えること
に繋がったように思えて何とも皮肉。
それに宇野重吉はちょっと堅っ苦しい譲治でしたね。もっとも小沢昭一
は地ですから比べるのは酷と云うものですが。
それにしても満員でしたね。僕は余裕を見て1時間半ほど前に行った
のですが、それでも整理番号は37番でした。99席しかありません
ので、後ろの方の席が取れるか心配でしたが、何とかなりました。
殆どがシルバー世代で、それも女性が1割強で大半が男性。ま、当然
と云えば当然なのですが。
まだ何本か観たい作品があるので花粉症の僕は大きめのマスクでしっ
かり防禦して通うことになります。後ろめたさから顔を隠しているの
ではありませんので念のため。
今年の飛散量は昨年の5倍(東京)とか。寝ているときにもマスクをし
たのは今年が初めてです。日本国民の3割ほどが花粉症と云いますが、
マスク姿のひとをそんなには見掛けませんね。薬や鼻の中をあれこれ
処置してマスクをしていないひとが結構いるということなのかしらん。
ま、インフルエンザの予防にもなるかも知れないし、隣に座ったひと
のいろんな臭いも遮断できることだし、これからもマスクでがっちり
ガードして花粉やなんだらかんだらが渦巻く街へと精出して通うのだ!
大安吉日の今日は、このブログ開設から777日目でもあります、
・・・だったらよかったのですが、残念ながら778日目。
今日は久し振りに神保町シアターへ行ってきました。
5日から「文豪と女優とエロスの風景」と銘打った情念の文芸作
品が一月間掛かることになったからです。
詳細は以下のところでご覧ください。
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/program/bungei_eros.html
今日観てきたのは谷崎潤一郎原作の「痴人の愛」。
「痴人の愛」は、以下の3本がこれまでに制作されているのですが、
①1949年大映
監督:木村恵吾
ナオミ:京マチ子
河合譲治:宇野重吉
②1960年大映
監督:木村恵吾
ナオミ:叶順子
河合譲治:船越英二
③1967年大映
監督:増村保造
ナオミ:安田道代
河合譲治:小沢昭一
③は数十年前に既に観ています。①と②は同じ監督・脚本ですので、
配役が違うだけだと思います。で、この作品にこだわる大映の最初
の映画をずっと観たいと思っていたのですが、やっとその機会が巡
って来たわけです。
それ以外はちょっと高い台の上に置いていました。
初めに花開いた方が大分枯れてきたので、そろそろその茎を根元から切ら
なければと思っていた矢先のこと、一辺に四輪とも萎んでしまって、微妙
なバランスが崩れたのでしょうか、台の上から転げ落ちてしまったのです。
後から開花した四輪の花の一つが、その花弁を一つ失いました。それと4
枚あった葉のうちの2枚が根元から折れてしまいました。
それで古い方の茎を根元から切り取ったのですが、切り口から赤い血なら
ぬ透明の水滴がポタリと落ちたときには心が一寸疼きました。
それでも残った一本の茎は、二本あったときには互いがV字状に傾いてい
たのですが、その傾きを残った二枚の葉と協力しあって僅かづつながらも
真っ直ぐに矯正しつつあります。
そんな姿を目にすると、愛しさも一入で、花が萎んでしまっても、球根を
大切に保存して(水遣りもしないで休眠させれば良いらしいので、比較的
暖かい所に置いておくだけ)、もう一度花を咲かせてみようと思うのです。
それにしても、南アメリカ原産で初夏に花をつけると云うアマリリスが、
冬の最中に開花したのはなぜかしらん。
不思議に思って調べたら、輸入されたものは冷蔵処理(冬眠状態のようなも
のでしょうか)されていて、そういったものは水遣りだけで花をつけるそう
です。それに暖房が効いていますから、アマリリスも勘違いをしてしまう
のでしょうね。
アマリリスの花言葉は、誇り、内気、素晴らしく美しい、だそうです。ヴェ
ルギリウスが想い描いた羊飼いの娘、そのような名花だったのかしらん。
実は、昨年の12月中旬に友人から鉢植えのアマリリスを頂いたのです。
曖昧ながらも歌は覚えていても、花の実物は見たことがありません。
頂いたときは芽が僅かに顔を出しているような状態ですから、どのような
花が咲くのか全く知識の無い僕には見当も付きません。
直径が14cmほどの鉢に二つの芽があるので、小さな花が咲くのかしら
ん、などと暢気に構えて、一週間に一回、コップ一杯の水遣りをしていた
ら、あれよあれよと云う間に茎がどんどんと逞しく伸びていって、50数
cmにもなって、その先端に合掌したような蕾が一つあって、それが花開
くのだろうと思っていたのですが、パカッと割れたら中に四つの蕾があっ
て、それが水遣りしてから丁度一月後にまず一輪が花開き、次から次へと
四つとも開花。赤味がかったピンクに白い筋の入ったその花の大きなこと。
6枚の花弁から成っているのですが、直径は18cmもあろうかと云うほ
どの大輪の花が、古い蓄音機のラッパのように、四方に向いて一斉に花開
いた有様は頭でっかちの赤子のようで、甚だバランスに心許無い思いがし
たものですが、もう一本の茎と4枚の大きな葉とが巧みに連携しあって上
手くバランスを取っているのです。
その四輪の花がしぼみ始めようとするときに、もう一つの茎の四輪が花開
き始めました。小さな鉢植えで大きな花が8つも咲いているのですから、
平均台の上でのV字バランスのような超技巧で、茎や葉の向きを変えてし
っかり踏ん張っている有様は健気としか云い様がありません。
♪ラリラリラリラ しらべは アマリリスよ
ラリラリラリラ しらべは アマリリス
小学校で習いましたよね。でも覚えているのは、上記のフレーズだけ。
だけど調べてみたら、歌詞も違っていました。
正しくは
♪みんなで聞こう 楽しい オルゴールを
ラリラリラリラ しらべは アマリリス
月の光 花園を あおく照らして
ああ 夢を見てる 花々の眠りよ
フランスみやげ やさしい その音色よ
ラリラリラリラ しらべは アマリリス
でした。
メロディーもうろ覚え。これもインターネットで調べてみたら、転調
するところがあって、それが「月の光~花々の眠りよ」の箇所なのか
しらん。
フランスの民謡なのに、作曲者の名前はヘンリー・ギース。英国人の
ような名前ですが、フランスの読みではアンリ・ギス。どのような人
物なのか謎に包まれているのですが、ルイ13世が作曲者とされてい
た時期もあったことから、暗殺された父アンリ4世と関係があるのか
もしれません。
原詩がどのようなものであったのか全くもって存じませんが、ローマ
の詩人ヴェルギリウスが作った詩が、曲名からしてそれではないかと。
なぜならその詩に登場する羊飼いの娘がアマリリスと云う名だからです。
日本にはオルゴールの曲として入ってきたのでしょう。それで岩佐東一
郎が上記のような日本の歌詞を付けたのだと思います。転調のところの
歌詞からして、岩佐は唱歌として相応しい同名の花に置き換えたのでし
ょう。
今日、旧暦だと11月15日なんです。慶応3年のときには12月
10日でしたが。
当時は、それも京都盆地のことですから、もう寒かったのですが、
それに比べて今年は暖かいですよね。特に東京、それも海に近い大
田区は。
それでちょっと外出しました。暖かい大田区からちょっと低めの
千代田区と中央区の間へ。
そこに「最後の忠臣蔵」が掛かっていたからです。
本所松坂の吉良邸へ赤穂浪士が討ち入ったのは元禄15年12月
14日(不定時法での話。実際に討ち入ったのは15日の午前4時
頃)。西暦だと1703年1月31日に当たりますので、雪が降っ
ていても当たり前ですが、それは芝居「仮名手本忠臣蔵」での脚色。
実際は快晴だったそうです。
それでこの時期になると「忠臣蔵」が色々な形で掛かることになる
のですが、この「最後の忠臣蔵」はちょっと毛色が違っていて、討
ち入りから16年後の話。
討ち入った四十七士の一人で、大石内蔵助から「真実を後世に伝え、
浪士の遺族を援助せよ」との命を受けた寺坂吉右衛門(佐藤浩市)と、
内蔵助からの密命を帯びて、討ち入り前夜に姿を消した瀬尾孫左衛
門(役所広司)の物語です。もっとも物語は瀬尾孫左衛門と内蔵助の
隠し子である可音(かね、桜庭ななみ)が軸となって展開して行くの
ですが。
池宮彰一郎の原作には無い人形浄瑠璃(近松門左衛門の「曽根崎心中」)
が効果的に使われていて、瀬尾孫左衛門と可音のそれぞれの心の葛藤と
か行く末の隠喩となっていて、物語りに奥行きを与えています。
今年は時代劇の当たり年で、何本も上映されましたが、残念ながら僕が
観たのは3本だけ。
あとの2本は「十三人の刺客」(9月、リメイク版)と「桜田門外ノ変」
(10月)ですが、「最後の忠臣蔵」は抜きん出て良い作品だと思います。
あちこちで鼻をすする音やハンカチで目頭を押さえる姿が。ま、涙腺
の緩んでいるシルバー世代が大半だから仕方ないか。
まだ始まったばかりですし、ロングランになるような気もしますが、何せ
時季物ですので、なるべくお早目にご賞味くださいますよう。
養女の孫にあたる西村兵造というひとが語る「この写真に見覚えがある。
祖母の所持品で、小学二、三年ごろ、たしかに手にとった記憶がある…」
と云うのでは、何とも心許無いですね。
「お竜かとも思えたのであるが、裏面に記名がなく、空しく放置されて
いた」ものが、京都国立博物館に寄贈されたこのアルバムの写真には、
鉛筆で「お竜」と書かれてあるのですから不思議としか云いようがあり
ません。
『竜馬がゆく』で龍馬ブームの巻き起こった後のことですから、わざと
「竜」の文字を使用して記事を書いたのかしらん、なんて思ったら大きな
間違いかもね。意図的に「竜」を使用したとしたら・・・。
もう一枚(椅子に腰掛けた写真)の裏書に「たつ」とあることを聞き付けて、
「辰」から「竜」、そして「お竜」に繋げようとしたのであればかなり悪
質です。それを西尾秋風が行ったかどうか分かりませんが、筆跡鑑定くら
いは行ってしかるべきです。
この若き日のお龍の写真とされているものが、偽者であるという理由は
以前に(「つぶやきの部屋4」、「団塊の世代雑感(32)」「同(37)」
などで)触れましたが、新たな論証として、「内田九一は一般庶民の撮影を
行っていなかったので、九一没後に同写真館を継いだ長谷川吉次郎により
明治九年ないし十年に撮影されたものと考えられることから(そのときには
お龍は東京には居ないし、年齢も三十六、七歳になっているので)、年齢的
に合わない」とし、「写真は東京土産として写真館で売っていたプロマイド
で、モデルは吉原か深川あたりの芸者である」とするものがあります。
さらに別の論者は「内田写真館の内装が変わっていなければ」との前提で、
「明治十四年十月一日『旧内田舎』の屋号で再開させた北庭筑波撮影の可能
性も含め考慮すべき」とし、「風俗写真や写真館の見本写真ではないか」と
推察しています。
これだけ反論・反証のある胡散臭い代物を京都国立博物館学芸員の身であ
りながら再び取り上げて、「新発見『おりょう』さんの古写真」(新人物往
来社編『歴史読本―特集新選組最後の戦い―』平成十四年二月号)なんて書
いたりもしているのはどうなんでしょうか。
先の佐那の錦絵の一件と云い、功名心に逸った粗忽さは学者としては不適
格としか思えません。
スポニチの7月21日の記事に「坂本竜馬もビックリ!写真無断使用?おり
ょうの切手販売中止」と云うのがありました。
京都市内の郵便局で販売していたオリジナルフレーム切手「龍馬が駆け抜け
た町 京都・伏見」(龍馬やお龍の写真をカラーにした80円切手が10枚
シートになったもので、8日から1セット1200円で発売)の販売を中止
したと云うものです。
「神戸市の印刷会社が企画、製作し」とありますから、「つぶやきの部屋
5」に掲載した龍馬のカラー写真を手がけたサンメディアと云う会社が企
画・製作したものだと思います。
中止の理由は、13日に匿名で「おりょうの写真は無断転用ではないか」と
郵便局会社近畿支社(大阪市)に電話があったからだと云います。
「切手に使用された写真は東京都の古写真研究家の井桜直美さん(45)が
所有しているものとそっくりで、井桜さんは『切手を見る限り、わたしが
持っている写真だと思う。神戸市の印刷会社からは何の連絡もなかった』
と話している。」と記事にありますので、例の若き日のお龍とされている
写真(それも椅子に腰掛けた方かも)であることは確か。
兎にも角にも、そんなものが出回らなくて良かったと思います。
聞本誌に「千葉さなの錦絵発見」との記事があったそうです。
錦絵の右下に「千葉貞女」と書かれてあるものですから、慌て者が
千葉定(貞)吉の娘(女)、すなわち佐那に違いないと飛び付いたので
しょう。
宇和島藩八代藩主伊達宗城が残した記録を纏めた『稿本藍山公記
(こうほんらんざんこうき)』によると、安政3年(1856年)に
19歳だった佐那が伊達家の姫君の剣術師範として伊達屋敷に通
っていたことの他に、宗城の感想として「左那ハ、容色モ、両御
殿中、第一ニテ」(佐那は腕前だけでなく容色の点でも、2つの宇
和島藩江戸屋敷に出入りする女性の中で一番である)とあり、その
容貌を知りたくなるのが人情と云うものですが、NHKで「龍馬伝」
が話題になっていた時と云うのがミソ。
後に千葉周作の孫の周之助之胤、その姉妹にあたる千葉貞(てい)で
あることが分かりました。
この錦絵が描かれた撃剣会の番付表が残っており、そこに「千葉
てゐ」の名前が確認(明治6年に深川で開催された千葉一門の撃剣
会の様子を描いた3枚1組の錦絵)できることや、菩提寺の仁寿院
の墓所にも「千葉貞」の名前が刻まれていること。
東都新聞の明治17年7月19日版にも千葉貞が当時、神田錦町
にあった玄武館で長刀を教えているという記事が存在するとのこと。
幸いにも後世に誤って伝えられるようなことには至りませんでしたが、
この慌て者、例の若き日のお龍と称する写真を平成13年に再び持ち
出した張本人でもあるのです。
僕のような市井の無頼の徒の戯言ならいざ知らず、この慌て者、れ
っきとした京都国立博物館の学芸員(主任研究官)なのです。
そもそもその写真が若き日のお龍の写真発見として発表されたのは
昭和57年12月22日付の高知新聞でした。
龍馬研究(立命館史学会員)の西尾秋風(平成15年2月6日没)が発表
したもので、以下のものです。
「来る一月十五日は、坂本竜馬の妻お竜(明治八年に再婚して西村つ
ると改名)の七十八回忌である。この日を目前にして、彼女の若き日
の艶姿写真を発見したのである。
だいたいお竜の写真は、明治三十一、二年ごろに撮した六十歳ぐらい
のもの一枚きりということになっていた。ところが今回新発見のもの
は、近江屋(竜馬が遭難死した寄宿先)のご子孫井口新助氏所蔵のアル
バムから撮影させていただいたものである。他のいわゆる維新の志士
と称せられる人物の肖像写真と一緒に保存されているため、これらの
志士たちとも有縁の女性と推察され、あるいは若き日の寺田屋お登勢
か、お竜かとも思えたのであるが、裏面に記名がなく、空しく放置さ
れていた。
さて最近、以外な事実が判明した。お竜こと―西村つる女の子孫が京
都で健在だったのである。京都市下京区に住む西村兵造氏は、お竜の
第二の夫(西村松兵衛)の兄兵蔵の直系で、その祖母ふさ刀自(明治五年
生まれ)は兵蔵の二女で、お竜の養女となっていた。同氏は『この写真
に見覚えがある。祖母の所持品で、小学二、三年ごろ、たしかに手に
とった記憶がある…』と言う。この写真はバックの特色から、明治初年、
東京浅草で開業の内田九一スタジオであることが判明、お竜は明治四~
七年ごろ(三十一~四歳)東京にいた形跡がある。この写真は、まさに
本邦最初の見合い写真かもしれない……。」
週刊新潮12月16日号のコラム「B級重大ニュース」に「龍馬婚
約者のその後」と題して千葉佐那が結婚していた旨の記事が載って
いたのでビックリ!
しかも本の記事は7月だったと云うのですから、迂闊と云うか・・・。
それでその本記事を探してみたら、7月3、4日のスポニチでした。
3日のものは「“龍馬のいいなずけ”暗殺後に結婚していた?」、
4日のものは「龍馬ショックぜよ!?千葉佐那、結婚していた」、
とそれぞれ題するもので、それらを要約すると以下のような内容に
なります。
明治期に横浜で創刊された毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係との
こと)に明治36年8月から11月まで連載された記事「千葉の名灸」
は、佐那(明治29年10月15日に没)の親族に取材して千住の千葉
灸治院の来歴などを書いたものですが、その中の10月4、5日の記
事によると、「1873(明治6)年に横浜に移り住んださなが、定吉
が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士山口菊次郎から求婚され、
龍馬の七回忌も済んだことから受諾した。しかし家格の低さもあり定
吉が反対。『おまえの命はかつて龍馬の霊前にささげようとしたもの
ではなかったのか』などと怒ってさなを切ろうとしたため、近くの商
家が仲裁に入り、翌年(明治8年)7月に結婚した。菊次郎の身持ちの
悪さなどから、10年たたず離縁、千住に移り住み亡くなるまで再婚
しなかった」とあるそうです。
週刊新潮の記事で補足すると、「菊次郎は維新後、東京で魚市場を設
立すると称して主家の親戚(幕末期は兄弟の関係)にあたる旧岡山藩主
池田家から預った出資金を返さず訴えられた」とあり、この金銭トラ
ブルも離縁の原因のひとつとしています。
この古記事を発見した歴史研究家のあさくらゆう氏は、旧鳥取藩主の
伝記などから、菊次郎の名前や当時横浜在住だったことを割り出して、
横浜市史の関連文書から商家の存在まで確認しているそうですから(た
だし佐那の横浜時代の戸籍などの資料は関東大震災や戦災で焼失)、信
憑性は高そうです。
ちょっとショック!