
「モンローと鉄人28号」
地下鉄の通気口からの風に舞い上がる純白のドレス(今年、カリフォルニア州での
オークションで460万ドル、約3億7,000万円で落札!)のスカート。マリリン・モン
ロー「七年目の浮気」での有名なシーンですが、その巨大モニュメントが今年の
7月、映画の舞台ニューヨークではなく何故かシカゴにお目見え。
片や今年8月に新宿駅前に出現した金色に輝く鉄人28号(たぶん実寸大)のモニュ
メント。
どちらも、年齢・年代は異なるものの、心ときめいたものです。
鉄人28号を仰ぎ見ることはあっても、その股座を覗き見ることは無さそうですが、
マリリンの場合は、どうしても覗きたくなるのは自然の摂理と云うもの。この齢に
なってもドキドキしそうです。
それにしてもお国柄が随分と違うようで。
筆跡からして龍馬の手になるものであることは確かなのですが、手紙と云えるものか
どうか。なぜなら宛名も無ければ、龍馬の署名も無いからです。
以下に全文を掲載します。
「幕の為に論ずれば、近日要路に内乱起り、相疑相そしり益不可通と言勢となるべし。
当時実に歎ずべきは伏水(伏見)にとりのがしし浪人の取落せし書面を以て、朝廷にもぢ
いて(「もぢいて」は土佐の方言で、「反対して」の意)論にかけ、ついに会津人陽明家
(近衛家のこと)をなじり此郷(「卿」の誤り)御立腹など在之候よし、したしく聞申たり。
是幕中内乱を生じ申べき根本たるべし。当時に在りて幕府をうらみ奉るもの在れば、
天幸の反間と申べし。彼浪人『其人』は伏水の事位にては決して幕をうらみ申よしなし。
然れ共万一うらむが如きは幕府目下のうれいとなるべし。故は浪人は関以西強国と聞へ
し君主、及要路のものと信を通じ有る事、彼飛川先生(氷川先生、つまり海舟のこと)が
天下人物と信を通ずるが如し。彼長の芸州の事の如きは今時は不絶聞事なり。長の方へ
は幕情不通なり。長は唯だまされぬ心積斗也。此情を通せんと思が如きは、右浪人に
命せば唯一日にして事をわらんのみ。今幕の勢を見るに兼而論ずるが如きよふに長を
うつに力なく又引取らんにはよしなき也。其論且所置を見て天下皆是を笑はざるなく、
是必近日の事今より可見、実に不可言。幕為に今の勢を以て論ぜんには幕府は一決断
を以て浪輩を引取り、江戸において政を大に改め、将軍自ら兵士に下り、日々胆をなめ
はぢを忘れたるやの古事さへ忘れずば、今十年間八州を以て又天下をたなごゝろとす
べし。目今大不幸、官吏皆因修(因習)、是又天下の不幸――
三月――」
(幕府のために論じると、近いうちに幕府要路において内輪揉めが起こり、互いに疑い
非難し合うことになり、益々意思統一が難しくなるだろう。今実に嘆くべきことは、
伏見で取り逃がした浪人、すなわち龍馬、が現場に残していった書面を薩長盟約の証
拠として、朝廷に反対する議論をして、ついには会津藩の者が薩摩寄りの近衛家*を詰り、
この卿が立腹するということがあったとのことを私自身聞いている。このことは幕府
において内乱を生じさせる元凶になるだろう。今現在、幕府をうらんでいるものが在
れば、まさにこのような反間をもたらしたのは天の配剤というもの。彼の浪人その人、
すなわち龍馬、は伏見のことくらいでは決して幕府をうらんだりしないが、万一うらむ
ようなことになれば幕府にとってはすぐに心配事になるだろう。なぜなら浪人、すなわ
ち龍馬、は関西以西の強国と称されている大名やその要路の者と親交を結んでいるから
であり、それはあたかもあの勝海舟先生が天下の人物と親交があるかのごとくである。
長州や芸州の事情については昨今は常に耳にすることである。しかし、長州の方へは
幕府の事情は通じていない。長州は只々幕府に騙されないようにと考えているだけで
ある。この幕府の事情を長州に通じさせようと思うのなら、右浪人、すなわち龍馬、に
命じてやればたったの一日で片付くと云うのに。今幕府の情勢を見てみると、かねて
論じているように長州を討伐する力など無く、また兵を引き揚げるといったつまらない
ことになるということだ。その幕府の有様を見て、天下の人々が嘲笑すること、この
ことは近日中に必ず起きると予見できることである。それゆえに論じたいのは、幕府
は一大決心をして、浪花を引き揚げて、江戸において政治を大いに改めて、将軍自らが
天皇の一兵卒となり、日々臥薪嘗胆の故事さえ肝に銘じておれば、今後十年間関八州
八百万石に雌伏して、また天下を掌中にするがよい。目下のような情勢は日本にとって
大不幸である。それなのに幕府官吏は皆因循固陋、これもまた天下の不幸である。)
*摂家近衛忠熙(ただひろ)の夫人は島津斉興の養女興子、忠熙の子忠房の夫人は島津
斉彬の養女光子。
でしょうか。
『坂本龍馬全集』(平尾道雄監修、宮地佐一郎編)では寺田屋事件直後の慶応2年3月説
を採っています(宛先も幕閣宛かとしています)。3月1日に薩摩藩の大坂蔵屋敷に到着し、
10日に鹿児島へ着くまでの間に書かれたのでは、あるいは小松帯刀邸に留まった間に
書かれたのでは、と推定していますが、果たしてそうなのでしょうか。
幕府が企てている長州征伐を第二次長州征伐(同年6月)と捉えているから、そのような
推定に至ったのだと思いますが、上の文面をよく読めばそうでは無いことが分かる筈。
「今幕の勢を見るに兼而論ずるが如きよふに長をうつに力なく又引取らんにはよしなき也」
とあります。第一次長州征伐は、長州側の全面降伏で幕を閉じたのですから、「又引取ら
んにはよしなき也」とは絶対に書かない筈です。長州にあちらこちらで敗れ、将軍家茂の
死を理由に撤兵したのは第二次長州征伐でのこと。龍馬が云っているのは、第三次長州
征伐の動きについてです。
「よしなき」を「つまらない」と解釈しましたが、「理由のない」とも解釈できます。
今度は、前回のように将軍の死を理由にすることはできないぞ、という意味です。
それと、文面の醸し出す雰囲気は「オレは大物だぞ」です。
それまでの乙女を始めとする実家に宛てた手紙ではそのようなことは無かったのですが、
慶応3年4月7日付の乙女に宛てた手紙では「私が土佐に帰ったと幕吏が聞いたなら大そ
う恐れるぞ。もう気を揉んでいる。(なぜなら)あちこちの浪士らが(龍馬を)訪ねてきて
いて、どうもおかしい。近日中に後藤象二郎どのが京都を離れるだろうから、そのときに
は伏見の寺田屋に宿泊して、伏見奉行を懼れさしてやろうと思っている」(意訳)と似たよ
うなニュアンスが感じられます。
慶応2年3月の時点では、薩長同盟の立役者が龍馬であるといったことは知られていなか
った筈です。それが同志の間に広まったのは、その後の第二次長州征伐での長州側の圧倒
的勝利の結果です。その勝利をもたらした陰に龍馬が居た。その龍馬の価値を知った土佐
藩(後藤象二郎)が接触してきた。象二郎との会談を通じて、薩長土の対幕連合が実現する
見込みが持てた。そのような時期にあった龍馬だからこそ、大物然としたものがそれとな
く出てしまったのだと思うのです。
求め、フランス公使ロッシュのバックアップを得て、軍制の大改革に着手します。
そして将軍に就任(慶応2年12月5日)早々、ロッシュと会見し、その意見に従って封建
制度を絶対君主制に改める方針に舵を切りますが、それに先立つ慶応2年5月28日のこと、
勝海舟が再び軍艦奉行を命ぜられて登城した折(これは薩摩藩が第二次長州征伐への出兵を
拒否していたため、薩摩藩に親しい海舟に説得させようとの思惑が働いての起用です。こ
のことは幕府側が未だ薩長同盟の存在を確と認めていなかった証にもなります)、勘定奉行
の小栗忠順(ただまさ)から「幕府はフランスから借款をし、軍艦数隻を求めている。到着次第、
一時に長州を追討する。薩摩もいずれ討伐する。そうすれば国内で反対する大諸侯は居なく
なる。さらにその勢いを駆って悉く諸侯を削って行き、いずれは郡県制に改めるつもりで
ある」(意訳)と秘中の秘とも云うべき幕府の方針を伝えられています。
勝海舟が軍艦奉行を罷免(元治元年11月10日)された跡を継いだのが小栗忠順であり、
その背景には、海舟ら(越前の春嶽もそうです)雄藩連合政権(共和制)推進派の排除にあ
りました。
小栗が勘定奉行に復活すると同時に海舟に軍艦奉行の命が下ったのは上に述べたような
思惑が働いた他、最早絶対君主制への道筋が覆るようなことにはならないとの確信が小栗
ら幕権復権派にあったからでしょう。
そのような幕府の意図を知ってか知らでか(フランスに対抗するイギリス公使パークスから
情報を得ている筈)、薩摩藩は慶応3年の初めから小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵らの
在京の者が、兵庫開港を幕府ではなく朝廷との間で条約締結すること、長州藩の赦免、これ
までの幕府の失政を追及し、幕府の意図を挫き、雄藩連合政権を確立することを目論んでい
ました。そのために薩摩の島津久光、越前の松平慶永(春嶽)、土佐の山内豊信(容堂)、宇和
島の伊達宗城の上京を促しに使者として西郷らが旅立ったのは、2月のこと。
慎太郎が西郷に会って、西郷と容堂との会見内容を聞き取った一件については、「団塊の
世代雑感(85-5)」参照。
龍馬がそのことを知ったのは、慎太郎が訪ねてきた3月20日朝のこと。慎太郎が語ったで
あろう内容は同日中に龍馬が三吉慎蔵に宛てた手紙で知ることができます。
来たこと、また今日は石川清之助(慎太郎)が薩摩から三条公(大宰府の三条実美)への使者に立
って(昨日大宰府を発して馬関に遣って来ている)、それから急いで上京するとのことです。
西郷吉之助は先日、土佐へ行き、容堂侯に謁見したところ、容堂侯も全く同じ考えで、3月
15日までに大坂へ出るとのことです。島津久光侯も急いで大坂まで出て、容堂侯と一緒に
入京し、まずは日本の大本を立てるとのことで、西郷も今度は必死の覚悟で臨んでいるとの
ことです」(意訳)とありますので、上述した四侯会議のことを知らされたことは確かです。
それで発奮して書いたのが冒頭の書面であろうと思うのです。龍馬は四侯会議なんて開いても
埒が明いたりはしないと考えたのだと思うのです(実際すんなりとは行かず、慶喜に好いように
振り回されるのですから)。
それで龍馬は、日本のゴタゴタで列強に付け入る隙を与えないようにするためにも、日本を
ひとつに纏め上げるしか無い、それは天皇のもとで共和政治を行うことであり、そのためには
大政奉還しかない、との確信を強くしたに違いないのです。
つまり冒頭の書面は、龍馬の今後取るべき決意を自らに言い聞かせるようにして認めたもの
だと思うのです。(だから宛先も署名も無い。)
龍馬はこの直後(3月末から4月初め)に長崎へ出ますから、そこから後藤象二郎との間で大政
奉還に向けての具体的な話が始まったと見ることができます。
後に海援隊士であった関義臣(初め山本龍二郎、当時は関龍二)が旧懐して語るところによ
ると、「慶応3年春に後藤象二郎も長崎へ遣って来て、龍馬と肝胆相照らす仲となり、大政
返上の動機となったのは龍馬と象二郎との発意で、長崎の地で議を決し」(抜粋して意訳)と
あります。
ということで、結構価値ある書き物(だろうと思うの)ですよ、これって。
『坂本龍馬全集』を編纂するにあたって、東大史料編纂所(東京大学赤門入口わきにある)の所蔵
目録を閲覧していたところ、「坂本龍馬書翰草稿」とあったものが、この書面であったそうです。
どのような経緯でそこに収まることになったのか全くもって不明ですが、それが分かれば、僕の
推測が憶測でないことの証になるやも…。
<訂正の御詫び>
龍馬点描「不可解な手紙」において、宛名として「吉井幸輔」としてあることを慶応3年の根拠
の一つとしています。「団塊世代の雑感(113-3)」の箇所です。
慶応2年12月4日付の権平他一同宛の手紙には「吉井幸助」とあることから、その時点では龍馬
があたかも吉井の名を正しく知らずにいたかのようにしてしまいましたが、史料の読み落としが
あったことに気付きました。慶応元年12月14日付の岩下佐次右衛門と吉井幸輔に宛てた龍馬
の手紙には「幸輔」と正しく書かれてあるのです。
権平はいざ知らず、乙女を始めとする女性陣にも分かるようにとの龍馬一流の配慮があって「輔」
の代わりに「助」を使ったように思います。
ですから、慶応3年の根拠として宛名は使用できませんが、その他のものから慶応3年説は間違い
無いと思います。
先ごろ(8/22)、超党派の「日本の領土を守るため行動する議員連盟」は竹島の領有権を
決着すべく、国際司法裁判所(ICJ)に提訴付託するよう政府に求める決議を採択し
ましたが、実現すれば昭和29年、37年以来となり、実に49年ぶりになります。
3月末にヘリポートの拡張工事を始めたり、6月には大韓航空機が竹島上空を飛行する
と云った意図的な領空侵犯があったり、さらに領空侵犯の前日に韓国の行政安全相が
竹島に上陸したり、8月には鬱陵島を視察で韓国に向かった3名の自民党国会議員が
入国を拒否されると云ったことがありました。このように韓国の実効支配への強硬姿勢
は目に余るものがあり、これまで日韓関係にとって得策ではないと封印されてきたICJ
への付託の動きとなったわけです。
竹島の領有権がかくもややこしいことになったのは、江戸時代には竹島を松島と呼んで
いたからです。それが何故現在の竹島に変わったかと云うと、「松島」を開拓したいとの
請願があったことから明治13年に政府がそれを調査したところ、それが鬱陵島である
ことが判明したためです。請願したひとは松島と思っていたのですが、実際は当時竹島と
呼ばれていた鬱陵島であったわけです。
その請願がもとで鬱陵島が松島と称されるようになったことから、松島が二つ存在する
ことになり、紛らわしいので明治38年に現在の竹島を「松島」から「竹島」に正式に
名称変更しました。(ややこしいでしょ。)
もっとややこしいのは、「竹島」と称する島が現在3つも存在することです。
1つは、日本領(島根県)としての竹島。
1つは、韓国が領土権を主張している、かって竹島と呼んでいた鬱陵島。
1つは、鬱陵島の脇(北東沖3km)にある「竹嶼(ちくしょ)」です。英名で「bamboo Island」
と云いますから「竹島」と云うことになります。
明治政府は明治38年に竹島を島根県に編入、国際的にも日本の領土となったのですが、
太平洋戦争で敗戦したため、GHQにより沖縄や小笠原諸島と同様に日本の行政権から外さ
れます。この間隙を突いて韓国初代大統領李承晩が一方的に「李承晩ライン」を設けた
ことから現在に至る混迷が続いています。
~1881年)を採ったことから、航海中に暴風に遭い鬱陵島に漂着した伯耆国(鳥取県)米子の
海運業者大谷甚吉が新島の発見として、同志の村川市兵衛とはかり、1618年に江戸幕府から
許可を得て、アシカ猟やアワビの採取、木材の伐採などの鬱陵島経営が行われるようになり
ました。それ以後、鬱陵島は「竹島」や「磯竹島」と呼ばれるようになったのです。
80年近く経営が行われましたが、李朝からクレームが付いて、元禄9年(1696)に鬱陵島
の経営が禁止となりますが、相変わらず無人島政策が続けられました。
これに目を付けたのが龍馬です。
慶応3年3月6日付の龍馬から長府藩士印藤肇に宛てた手紙で、竹島開拓を勧めています。
龍馬は先日から風邪ぎみで床に臥せっているので、直接掛け合いに出掛けることが出来ない
ことからこの長文の手紙を認めたようです。
以下に関係する箇所を抜き出して概要を述べることにします。
お願いすることは長々としたものとなるので、失礼とは思うが、分かりやすくするために
箇条書きにしたと詫びを述べた後に、第一段から第十段まで書き連ねてあるのですが、
第一段と第二段から分かることは、長府藩家老三吉栄之進と印藤が下関へ遣ってくるのを
龍馬が首を長くして待っている様子です。
第三段で、「あの竹島のことは兼て(印藤に)お聞きに入れ置きましたように、三吉家老にも
お聞きに入れましたところ、随分と御同意くださいまして、いずれ近日中に下関に再び出て
きて決定したいとのことでしたが、その後は未だお目にかかることなく、お返事を待って
いるところです。しかし今現在の世上の人情というものは、目先の事ばかりしか相談に乗
ってくれないので、竹島へ行くことは皆無用の事として、三吉家老の遠大な計画には従わ
ないのでは無いか、そうであれば事は行われないだろうと残念と思っています。」(意訳)
一世の思い出とすべく、なんとかして一人であっても成し遂げたいとの所存です。そういった
中で伊藤助太夫は特に私の志に同情してくれて、私も積年の願いでもあり、屈することなく、
ひそかに志を振るっております。それで先頃長崎で大洲藩の蒸気船(いろは丸)を3月15日
から4月1日まで借り入れる契約をしました。ですから近日にその期限がやってきます」(意訳)
とあります。
興味深い内容です。龍馬が蝦夷地で、多分大統領制のような国を創ろうとしている志を持って
いたことが分かります。チャーターしたいろは丸をその調査等に使用しようとしていたのか
不明ですが、紀州の明光丸と衝突して沈没した際の積荷が大したものでなかったことは何度か
の海底調査で判明していますので、多分蝦夷地へ向かっていたのだと思うのです。それが
あのようなことになったので、四百挺ものライフル銃を積んで大坂へ向かっていたということ
にしたのだと思うのです。
だから、いろは丸の船長を務めていた海援隊の小谷耕蔵が紀州側の質問に対して「米と砂糖で、
それも多くは積んでいない」と答えてしまったのが正直なところだと思います。自分たちの
当分の食糧だけを積んでいたのだと。
それと、いろは丸を15日間、五百両でチャーターしていますので、大坂への行き帰りでは
日数が多すぎます。
このようにチャーターできる船があるからと、第七段で竹島開拓を勧めています。
「大洲の船は、石炭の費用が一昼夜につき一万五千斤(9000キロ)であるので二万斤で見積
もっています。タネ油は一昼夜に一斗(18リットル)です。あの竹島までは地図によると大よそ
九十里ほどです。先頃井上聞多が竹島へ渡った者に聞いたところでは、百里と云うことで、大方
同じでした。竹島へ渡っている者の話では、楠によく似たものが広く生い茂っていて、その他
には、一里余りから二里もあるかと思える平地があるとのことです。島の流れは十里ばかりで
あると、私がかって長崎の地で聞いた話に何とも似ているので、出所は一つではないかとも疑
っています。竹島へは下関から行って帰るには三日で済みます。」(意訳)
「船を借りる以上は、同志を募る都合もあるので、三吉家老と君(印藤)たちがやるのか止める
のかそろそろ聞いておきたいのです。なぜなら、お止めになるのならば、兼ねてお耳に入れて
いる以前から約束しておいた人に募ろうと思っているからです。但し、金の都合だけのこと
です。もしもご自身がお出でにならずとも、賛同頂けるならば、その代わりとなる金をお出し
頂ければ、私も他から集める必要がありません。」(意訳)
第九段ではそれが具体的になります。
「三吉家老も思し召しが立たず、君(印藤)もお出でになることが無いのであれば、かつ他人に
頼らずに私自身がこれを成し遂げるには金が必要です。今手もとには少々ありますが、できる
ことなら、四百両を十ケ月の期限で借用したいのです。ご尽力頂けるのであればこの上ない幸
です。よろしくお願いします。」(意訳)
第十段では人材までも要望しています。
「お頼み申し上げたいことは、三吉家老および君の思し召しが整わなくとも、山に登って材木
を調べてそれが何という木なのかが分かり、土地を調べて稲や麦が、山においては桑の木や櫨
の木が、その地に適しているかが分かる者、さらにもう一人、海に入り貝類、魚類、海藻など
を調べることができる者。お世話して頂けるかと頼んだのはこのことです。以上のことは私に
とって一生の思い出となります。質の良い林や海の幸を得ることが出来れば、人を移住させて
あらゆるものを手に入れる絶好の機会、諸国の浪士らに命じてこの地を開拓させるべきと、そ
のようなことをいろいろ思っています。」(意訳)
桑の木は養蚕のため、櫨の木はローソクの原料になります。
以上のようなことを寝られぬまま筆を執った、とあります。
郡隠岐の島町)であるとして、「女島男島二つの岩山と十数個の岩礁に囲まれ、面積二十三平方
キロの小島」としていますが、これは明らかに間違い。
龍馬が竹島まで九十里とは百里とか云っているのは下関からの距離で、それだと日本領の竹島
も当時竹島と称していた鬱陵島も方位こそ若干異なるものの、いずれも400km弱です。
しかし日本領の竹島は、2つの小島(西島と東島。幅約150mの水道を隔てて東西に相対して
いる)と、これを取り囲む数十の岩礁で構成されていて、西島と東島はいずれも海面から屹立した
峻険な火山島であるため、面積は全ての島々を合わせても日比谷公園ほどの大きさ(約0.2平方km)
しかないのです。
龍馬の云う「一里余りから二里もあるかと思える平地がある」のは、直径8km(二里)ほども
ある鬱陵島のこと。
長府藩が煮え切らないうちに、海援隊の発足となり、龍馬はこのアイデアを後藤象二郎や岩崎
弥太郎に話したのでしょう。そして自らは海援隊を率いて蝦夷地へと長崎を出港したのですが、
海難事故となってゴタゴタに巻き込まれてしまいます。
龍馬が長崎へ向けて鞆(最初の談判の地)を出港した日(4月29日)の前日、象二郎と弥太郎は
実行に移すべく、大浦のオールト商会へ行き、船のチャーター交渉を始めます。
龍馬は海援隊本部のある小曾根邸の主人英四郎に竹島開拓の話を通していたようです。その
英四郎がいろは丸に会計官として同乗して行くことになったことから、英四郎の兄小曾根清
三郎に後事を託したものと思われます。なぜなら、26日に清三郎の許へ弥太郎が行って、
朝鮮との密貿易のことで密談しているからです。清三郎が5月に土佐商会の密使として下関
へ出向いたのもこの事と関係があるのだと思います。
弥太郎を乗せてチャーター船が長崎を出港したのは30日夜のこと。しかし往復に必要な五万斤
の石炭を積み込んだ唐津で機関が故障して計画は頓挫します。
このとき成功していて、実効支配が続いたのであれば、立場が変わって鬱陵島の領有問題として
騒ぐことになっていたかもね。
先頃の歌謡番組、タイトルも取り上げられた順番も忘れてしまいましたが、
テレサ・テンに始まって、ちあきなおみ、山口百恵、本田美奈子、そして
最後が美空ひばりであったように思うのですが、そこでシャープ&フラッツ
の原信夫が「真赤な太陽」は美空ひばりのために作曲したかのような発言を
していました。
でもね、当時(昭和42年)を知る僕はアレッと思ってしまうわけです。
だって最初に歌っていたのは黛ジュンだったから。それが美空ひばりがブルー
コメッツをバックに歌うようになったら、黛ジュンは歌わなくなって、代わり
に「恋のハレルヤ」を歌うようになったのだから。
これって、歌を盗られたってことでしょ。
同じことがちあきなおみの身にも起きた。盗ったのはこれまた美空ひばり。
平成2年6月21日発売予定であったちあきのアルバムが没になったのは、
このため。
美空ひばりは、両足大腿骨骨頭壊死、慢性肝炎で昭和62年4月に入院して
再起不能かと云われていたのですが、なんとその年の8月に退院するや10月
には「みだれ髪」と「塩屋崎」をレコーディング。
つまりね、絶望視されていた美空ひばりにタイミングよく、それこそ待って
ましたとばかりに曲を提供できるわけが無いのです。それも2曲もね。
普通アルバムを制作する場合には数年前から準備に入るのですよね。発売迄の
準備期間まで含めると、昭和61,2年に着手したことは確かで、上記2曲が
その中に入っていたこともこれまた確か。
旦那の郷治が亡くなる(平成4年9月11日没)直前に、歌を盗られるなど
で悩んでいたちあきに「もう歌わなくていいんだよ」と云ったこともその時期
を推定する根拠となります。大昔のことを云うわけありませんからね。