ある人が
「日本人は、他社と議論するときに、自分の意見と
相手の意見の落とし所を見つけるという議論ができない」
と発言しているのを見て、腑に落ちるところがあった。
日本が似非国際化していることによって、外国と
ディスカッションする機会は多いのだが、
日本人というのは、会議は
「他人に(自分の代わりに)考えてもらうため」
か
「自分の言い分を押し通す」
ためにすると思っているようなのだ。
僕は、昔、会議で良いアイディアが他部署から出たので
「そっちでいきましょうか」
ということにしたら、あとで上司から
「会議中に意見を変えないでほしい」
と言われたことがある。やれやれ。
ディスカッションというのは、
・自分の意見があり、
・相手の意見があり、
・それぞれの意見が違う中で、
・合意点を見つける。
ためにするんだ。
だから、ディスカッションの結論は、議論前の
「自分の意見」でも「相手の意見」でもないものに
ならないといけない。でなければ、議論をする価値がない。
ディスカッションは喧嘩だと思っていて、
自分の意見が通ることが勝ちだと思っているなら、
議論をする価値もないし、議論する資格もない。
議論は協力的、生産的でなければならないんだ。
「日本人は、他社と議論するときに、自分の意見と
相手の意見の落とし所を見つけるという議論ができない」
と発言しているのを見て、腑に落ちるところがあった。
日本が似非国際化していることによって、外国と
ディスカッションする機会は多いのだが、
日本人というのは、会議は
「他人に(自分の代わりに)考えてもらうため」
か
「自分の言い分を押し通す」
ためにすると思っているようなのだ。
僕は、昔、会議で良いアイディアが他部署から出たので
「そっちでいきましょうか」
ということにしたら、あとで上司から
「会議中に意見を変えないでほしい」
と言われたことがある。やれやれ。
ディスカッションというのは、
・自分の意見があり、
・相手の意見があり、
・それぞれの意見が違う中で、
・合意点を見つける。
ためにするんだ。
だから、ディスカッションの結論は、議論前の
「自分の意見」でも「相手の意見」でもないものに
ならないといけない。でなければ、議論をする価値がない。
ディスカッションは喧嘩だと思っていて、
自分の意見が通ることが勝ちだと思っているなら、
議論をする価値もないし、議論する資格もない。
議論は協力的、生産的でなければならないんだ。