週刊なんとか

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仮面ライダーディケイドとは何だったのか考察してみる

2018-07-26 10:36:00 | 雑談
来年の仮面ライダーがジオウとのことで、ディケイドっぽいっと評判になっているようだ。
ディケイドについて、むかし考察したことがあって、投稿していなかったのを、発掘して投稿してみる。
以下。

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仮面ライダーディケイド、分からない人多いんじゃないだろうか。
一応こうではないかという推測を書いておく。

「ディケイド」という作品は、「仮面ライダー10周年記念イベントの映像化」
というコンセプトだった。
ということで、作品自体がメタフィクションになっている。

結論からいこう。ディケイド=門矢士は、ライダーシリーズのプロデューサー視点なのだ。

むかし、昭和ライダーは、ひとつの世界に新しいライダーがどんどん追加されていった。
そうすると、ライダーだらけの世界になって、どうもうまくいかない。
ライダーがピンチになっても、他のライダーが助けに来るとか、
ヒーローの重要性が失われてしまうし、緊迫感もなくなるし、ストーリーも行き詰まった。
そして、「ストロンガー」で終了を迎えてしまった。

よって、平成ライダーは、次のようなコンセプトを守った。
「作品ごとに世界を破壊しなければならない」。

というのは、
「一つの作品が終わったら、その世界観はそこで破棄して、次の世界を一から作る」
という必要があるということだ。
「創造は破壊からしか生まれない」
とキバこと紅渡も言っている。
世界が一つに融合してしまったら、ライダーの世界はめちゃめちゃになって、滅びてしまう。
(シリーズ終了?)

ところが、やっぱり完全に破壊することはできない。
愛着もあるし、歴史でもあるし、商売コンテンツでもある。
フィクションの世界では、視聴者に完全に忘れられちゃったら、それはそれで世界の消滅っていうことだ。

で、ディケイドは、世界を破壊しなければならない宿命を負いつつ、
同時に世界を視聴者に思い出させるという目的で旅を続ける。

ということで、最後の劇場版で、
「私達(夏美たち。視聴者立場だ)が忘れないことで、いつまでも生き続ける」
という決着になるわけだ。
「私達の心のなかに、いつまでも別々の世界として生き続けます」
ということ・・・でいいのか?


永遠に新しい世界を旅し続ける門矢士は、
永遠に新しいライダーシリーズを作り続ける東映のプロデューサー。




ところでどうして、士が訪れる世界は本物じゃないんだろう。
「ウィザード」のあとの特別編でも、ウィザードこと操真晴人は、
わざわざ異世界に迷い込んでそこで士と会っている。
あれはね、結局、士はプロデューサーだから、
本当のライダーの世界には入れないんだと思うよ。
だって、プロデューサーは作品の世界に入れないでしょ。

だから、作品の世界と、プロデューサーの世界の中間点みたいな世界を
設定して、そこで会っているんだと思う。
ややこしいね。そこまで難しく考える必要あるんかな。