自分は自殺を図ったことはないが、過去に自分の健康を自分でほぼ放棄する程度には仕事に追いつめられたことがあり、精神的に多少健康な瞬間を見つけてなんとか転職して今生きている。そんな人間だ。
だから、普通の人に比べれば、この話題について話す資格が多少はあるのではないかと思い、書くことにした。
最終的に自殺したくなるのは、瞬時的にでも「合理的に考えて死んだほうが得」という考えになってしまうからだと思う。
死にたくない、という原始的な感情のブレーキが一瞬でもなくなってしまった時、「死なない合理的な理由」がなければ、そこで飛び込んでしまう。(人間、追い詰められた状況では「死にたくない」という感情はそれほど強く働くものではない」)
経済的に、人は死ぬと得するようにできている。生命保険が入り、住宅ローンはちゃらになり、家族には遺族年金が入ったりする。
死んでも誰も困らない。死んだら得。死にたくないという感情もない。なら、合理的に判断して、死のうかと。
突然元気(そう)だったお父さんが自殺したら、家族は「死ぬくらいなら会社辞めればいいのに」と悲しんでくれるだろうが、もしそのとき自殺を選ばずに会社を辞めてしまったら、「会社勝手に辞めてぶらぶらしてるくらいなら、死んでくれたほうが良かったのに」などと思われる。
ああ、会社もそうだな。ある日急に誰かが死んだら、すぐに次の人間が配置されて(あるいはされないかもしれないが)仕事は続く。辞めたいなどと言ったら、留意だ引き止めだ引き継ぎだあるいは休業して一体いつ復帰だなどと現場は混乱する。
自分は当時、「死にたくない」というよりは、「死んだらめんどくさいだろうな」と思っていた。自分がではなく、自分の回りが。家族が遺品を片付けたり、アパートを引き払ったり、葬式したり、職場内で他の人が自分の仕事をなんとかしたり、とか、そういうことが。それだけ面倒なことを人に押し付けて死ぬのってどうかと思っていた。死んで死体が残ればそれを片付けないといけないし、死体が残らないようにすれば失踪扱いだ。どっちもめんどくさい。そういうことも含めて。そういうめんどくさいことが一切なければ、死んでいたかもしれない。それが生きる「合理的な理由」だった。まあ、そんなことを考えられるほど、まだ余裕があったといえる。
現実はどうなったか。新しい会社が決まって会社をやめることになったら、最終的にアパートを引き払い引っ越して新しい会社に転がり込むまで1週間で十分すぎた。目一杯働いていたら、それだけのことが「とてもできない」と思いこんでしまう。
とりとめもなくなったが、言いたいことはここからだ。
「合理的な理由」で死んだり生きたりするな。「死にたくない」という個人的な感情以外に死なない理由がないような人生なんて、間違っている。あなたは他の人生を探すべきだ。今日今この瞬間から。
「将来のために今苦労する」なんてのも嘘っぱちだ。あんなのは上司が部下に苦労を押し付けるための言い訳にすぎない。信用するな。
死ぬほど苦労している時、「これだけ苦労していても絶対に今の状況にしがみつきたいほど好きだ」という思いがそこにないのなら、あなたはそこにいるべきじゃない。すぐにそこから去るべきだ。
人生は一度きりだが、人生を変える決断をすればそこには新しい人生が待っている。第二の人生を生きなおせる。
人生を変える決断をすれば。それだけで。
それにはおそらく、この瞬間に「今の状況をつづけることを止める」と決めるだけで十分なんだ。