週刊なんとか

考えたことを放り出すためのブログです。

高慢

2018-05-30 14:50:57 | 社会科
人が苦労して経験を積み成長したとしても、
それはわずかなことでしか無い。
知らなかったことを知ることが出来るようになり、
そのことができるようになるだけだ。

苦労して何を知るかというと、
人は自らの力では足りていないということを知り、
高慢が失われるということだ。

だが、それを知ったとしても、
今度は自分は足りていないということを知っているという
高慢が生まれる。

高慢が生まれ、壊し、生まれ、壊し、それの繰り返し。


いじめについて

2017-03-06 19:39:04 | 社会科
いじめについても書いておく。

僕は小学生から中学生にかけて、ずっとひどいいじめにあってきたからだ。

いじめの原因がどうこうというようなことは、ここには書かない。
ただ言いたいのは、

いじめられていると毎日が地獄のようで、それが永遠につづくように思えるが、そうじゃない。
学校のいじめは、学校を卒業したら終わる。
それからの人生は長い。学校に行っていじめられる毎日には何の選択肢もなくただ苦しいだけだが、いじめが終わった後の、自分で自分の人生を選択していかなければならない時間はそれよりもずっとずっと長い。

だから、諦めないでくれ。
地獄は突然終わるから。
地獄を抜け出したところで、会おう。

自殺について

2017-03-06 19:27:51 | 社会科
自分は自殺を図ったことはないが、過去に自分の健康を自分でほぼ放棄する程度には仕事に追いつめられたことがあり、精神的に多少健康な瞬間を見つけてなんとか転職して今生きている。そんな人間だ。
だから、普通の人に比べれば、この話題について話す資格が多少はあるのではないかと思い、書くことにした。

最終的に自殺したくなるのは、瞬時的にでも「合理的に考えて死んだほうが得」という考えになってしまうからだと思う。
死にたくない、という原始的な感情のブレーキが一瞬でもなくなってしまった時、「死なない合理的な理由」がなければ、そこで飛び込んでしまう。(人間、追い詰められた状況では「死にたくない」という感情はそれほど強く働くものではない」)
経済的に、人は死ぬと得するようにできている。生命保険が入り、住宅ローンはちゃらになり、家族には遺族年金が入ったりする。
死んでも誰も困らない。死んだら得。死にたくないという感情もない。なら、合理的に判断して、死のうかと。

突然元気(そう)だったお父さんが自殺したら、家族は「死ぬくらいなら会社辞めればいいのに」と悲しんでくれるだろうが、もしそのとき自殺を選ばずに会社を辞めてしまったら、「会社勝手に辞めてぶらぶらしてるくらいなら、死んでくれたほうが良かったのに」などと思われる。

ああ、会社もそうだな。ある日急に誰かが死んだら、すぐに次の人間が配置されて(あるいはされないかもしれないが)仕事は続く。辞めたいなどと言ったら、留意だ引き止めだ引き継ぎだあるいは休業して一体いつ復帰だなどと現場は混乱する。

自分は当時、「死にたくない」というよりは、「死んだらめんどくさいだろうな」と思っていた。自分がではなく、自分の回りが。家族が遺品を片付けたり、アパートを引き払ったり、葬式したり、職場内で他の人が自分の仕事をなんとかしたり、とか、そういうことが。それだけ面倒なことを人に押し付けて死ぬのってどうかと思っていた。死んで死体が残ればそれを片付けないといけないし、死体が残らないようにすれば失踪扱いだ。どっちもめんどくさい。そういうことも含めて。そういうめんどくさいことが一切なければ、死んでいたかもしれない。それが生きる「合理的な理由」だった。まあ、そんなことを考えられるほど、まだ余裕があったといえる。

現実はどうなったか。新しい会社が決まって会社をやめることになったら、最終的にアパートを引き払い引っ越して新しい会社に転がり込むまで1週間で十分すぎた。目一杯働いていたら、それだけのことが「とてもできない」と思いこんでしまう。

とりとめもなくなったが、言いたいことはここからだ。

「合理的な理由」で死んだり生きたりするな。「死にたくない」という個人的な感情以外に死なない理由がないような人生なんて、間違っている。あなたは他の人生を探すべきだ。今日今この瞬間から。
「将来のために今苦労する」なんてのも嘘っぱちだ。あんなのは上司が部下に苦労を押し付けるための言い訳にすぎない。信用するな。
死ぬほど苦労している時、「これだけ苦労していても絶対に今の状況にしがみつきたいほど好きだ」という思いがそこにないのなら、あなたはそこにいるべきじゃない。すぐにそこから去るべきだ。

人生は一度きりだが、人生を変える決断をすればそこには新しい人生が待っている。第二の人生を生きなおせる。

人生を変える決断をすれば。それだけで。

それにはおそらく、この瞬間に「今の状況をつづけることを止める」と決めるだけで十分なんだ。



曹操という人2

2015-06-10 09:02:54 | 社会科
もう少し書いてみる。
今回は、曹操がその基盤を築いた魏という国がなぜ短命に終わったか、ということである。

曹操の国では、 あらゆることが曹操の判断によって行われていたようにみえる。 あらゆることが曹操の判断によって行われていったということは、曹操の国は法によって治められていたのではなく、曹操の個人によって治められていたということである。

国を強くするのであれば、法を敷き、法をもって治めるべきなのであり、個人の英断で治めるべきではない。曹操が判断するのではなく、曹操は配下の優秀なものに法を作らせ、それを施行して、その法に従って国を治めなければならない。そうすれば、曹操のいない場所でも国は強くなり、曹操が死んだ後も国は揺るぎずらい。

人によって治められている国は、その人がいなくなった時に崩壊する。曹丕という優秀な二代目が国を継いだというのに、結局魏という国は短命に滅んでしまっている。

対称となるべきは、諸葛孔明が治めた蜀という国だろう。劉備や孔明の死後も、蜀という国はこれという人材に恵まれない中で、滅ぼされるまでの数十年間大きな混乱がなかった。孔明は法を重んじて「泣いて馬謖を斬る」人である。
周の文王を助けた太公望も、斉の桓公を助けた管仲も、劉邦を助けた蕭何、曹参、陳平という人たちも、いずれも法には厳格な人である。しばしば寛容さを見せていた曹操にはそこが欠けている。

韓非子には、次のような言葉がある(抄録)
「儒教では聖人が国を治めるのを理想としているが、聖人はめったに現れないので、聖人でなければ国を任せないというのであれば、最上の肉でなければ食べないと言っているのと同じで、必ず飢えて死んでしまうことになる。法によって治めるであれば、聖人でなくても国を治めることが出来るのである」

曹操は聖人にあこがれ、聖人に近づいたゆえに、その治世は儒家の理想に近く、それ故に韓非子の言葉のとおりに滅んだ、といえるのではないか。

曹操という人

2015-06-10 08:59:14 | 社会科
最近、曹操がなぜ天下を統一できなかったかということを考えている。

地理的な問題、勢力的な問題、いろいろな要素はもちろんあるのだが、もう少し深入りしてみよう。
ちなみにこの文章は曹操という人を貶める目的ではなく、稀代の大人物であったという認識の上で、なお足りなかったのはどこなのか、ということが知りたくて書いている。

切り口になったのは、曹操は美談が多すぎる、ということだ。賢人を礼を尽くして迎え、敗将を許し、敵を味方として迎え、人民に恤れみのある施策を行った。曹操の行った美談だけで本が一冊書けそうだ。こんな人は中国史の中を見ても他にいないだろう。(さらに、学問に造詣が深く、詩をよくする文化人でもある)
過去の名君と言われた人達でも、美談はいくつかしか無いのが普通だ。異常に多い。そこに、曹操の人としての限界があったのではないか。

曹操の治世では、判断するのは曹操である。配下が上奏を行なって彼が判断する。最終判断する彼の聡明さが記録に残る。配下が彼の理解を越え、受け入れ難い上奏を行なわないのは、逆から見れば彼が自分を一番上に置いて、配下を決して自分の上には置かなかったことを示している。

また、彼の配下の武将は忠誠が厚く、大きな反乱や謀反をあまり起こしていない。これは彼が自分を一番上に置いて、配下の武将を決して自分の横に置かなかったことを示している。

曹操のいる国はよく治まり、曹操の率いる軍は強い。驕った言動の少ない人であるが、どこに行っても曹操は一番である。



「先ず隗より始めよ」の成句で有名な、戦国時代の燕の名臣、郭隗のことばに、次のような言葉がある。(戦国策より、抄録)

「帝は師を持ち、王は友を持ち、覇者は臣を持ち、国を滅ぼすものは役人を従えます。師にへりくだって教えを学ぶ者のところには百人に勝る人物がやって来ます。先に働き後に休み、先に学んで後に楽しむ者のところには、十人に勝る人物がやって来ます。相手が来るのを自分も歩いて出迎えるようであれば、優れた人物がやって来ます。人を見下ろし指図して使うようであれば、人に使われる程度の人物が現れます。相手を乱暴に扱い叱責するばかりであれば奴隷がやって来ます」

曹操は、多くの優れた臣は持ったが友や師は持たなかった。故に覇者にはなったが帝や王にはならなかった。そう考えずにはいられない。

曹操の言葉から推察すると、曹操に友がいるとすれば郭嘉であっただろう。郭嘉が曹操より長生きしていたら曹操は王になっていただろう。実際、郭嘉が仕えていた年月の間に曹操はその覇権を固めている。だが郭嘉は夭逝し、曹操はついにまた友を持つことはなく、王になることもなかった。