私の日記帳

主に趣味の旅行やダイビングのことを記していましたが、
このごろは母の思い出日記のようになっています。

薬の勉強

2009-05-21 | 日記
さて
母はどうしてあんなにも苦しい死に方をしたのか
毎日毎日考えてしまう。

専門家である医師のやり方に間違いが無かったのか、
今更ほじくりかえしても仕方が無いけれど
いろいろ調べてみた。

母が服用していた薬は大量にあった。
持病のパーキンソン病の薬
それにガンの薬。
薬だけでお腹がいっぱいになりそうな量だった。
この二つの病気はとても相性が悪いようです。

母は終末期をほぼ傾眠か昏睡で過ごした。
パーキンソンの薬に「レキップ」というのがあって
これは突然傾眠になることで有名な薬だった。
ガンの痛みに使われる頓服に「オプソ」というのがある
今になって調べてみるとこれも傾眠への注意が必要とされていた。
「オプソ」をやめるわけにはいかないので
途中で「レキップ」を止めてみた時期があるんだけど
意識がはっきりしないとい状態は結局変わらなかった。

ガンの痛み止めの嘔吐も凄まじかった。
はじめ病院から吐き気止めの処方はなかった。
最初が肝心らしいのに、なぜか出なかった。
痛み止めを飲む・吐く・痛みも止まらず嘔吐し続け
という最悪ルーチンに。
医師に伝えると
「吐き気がでることがあります、薬出しますね」
って
「はじめから出しとけ、ボケ!」な気分。
出た薬は「トラベルミン」
家にある乗り物酔いの薬じゃないか・・・・
ましになったけど、あまり効果がなかった。
在宅になってからの医師の判断で
「トラベルミン」に「ノバミン」を追加。
「オキシコンチン」を「デュロテップパッチ」に変更
点滴に「リンデロン」を追加となり
たまにしか吐かなくなった。
しかーし
後から調べたところ
(看病中はPCなんて触ってる暇が無かった)
「ノバミン」ってドーパミンに作用するらしいことが判明。
パーキンソン病の薬と正反対の作用をする
という事は
やっとの思いで飲み下していたパーキンソンの薬
「ノバミン」に打ち消されていたのか!
おーい、医師はなんで「ノバミン」を出したんだ?
他に吐き気をとめる方法はなかったのか?
しかも母は途中からアカシジアの症状も出て苦しんでいた。
これも後で調べて知ったことだけど
アカシジアは「ノバミン」の副作用みたい。
その対策として「ワイパックス」の服用の指示が出たけど
「ノバミン」をやめるのが先だったんじゃないかな。

あ~
医師を恨んでいる訳じゃないんだけれど
誰かのせいにしてしまいたい気持ち
一番手っ取り早いのが医師なんだよね。
でも
調べれば調べるほど
診療内容が疑わしく思えてきます。
納得のいく「死」なんてないのだろうけどね。

おじいさんPC入門を応援

2009-05-20 | 日記
この頃、母の闘病の思い出を書いている
そこで先日ひらめいた!
父にもブログをしてもらおうと。
父は母が在宅医療になった日から日記をつけていたから
それをまとめてみてはどうかとすすめてみた。
父は携帯電話のメールを打つのも精一杯
「わかった」も「わかた」
「赤ちゃん」も「赤ちやん」
「ダイエー」も「ダイエ」
その程度の腕前なんだけどね。
はじめは嫌がっていたけど、だんだん熱心になってきた。
だって、することがないんだもん。
母が居なくなってから
毎日何度も電話がかかってくる
「買い物行こうか~」
「なにしてるんや~」
「泊まりにおいで~」
寂しくて仕方が無いみたい。
父もガンだから、山歩きとか疲れることはできないし
仕事なんかも出来るはずがない。
寂しさを紛らわすにはPCが一番だ。
そう気が付いたみたい。
一応PC(私より良いヤツ)とネット環境は揃ってる
それを活用だ!
初日はローマ字表を見ながらポツリポツリ。
今では時々左手も動かしている。
父の電脳化計画、只今進行中!!
お父さん、辛いけど頑張って!!
http://blog.goo.ne.jp/shigeko3-shigeko3/
みてあげてね!
(3月からさかのっぼって日記を入力中)

介護保険は誰のため?

2009-05-19 | 日記
母が在宅医療に切り替わった日に
ケアマネージャーがやってきた。
持病のため50代のころから介護認定は受けていたのだけど
「要介護1」という軽いランクだったので
なにも介護サービスは受けてなかった。
それを、ケアマネの提案で見直し申請することになった。
ビックリするほどランクアップ。
「要介護5」
最も重度とされるランクになった。
これで、国から助けてもらえる
すこしホッとした。

でも今考えれば、
私達家族が助けてもらった
というより
その会社が儲かった
それだけなような気がする。

老後の生活を考えて
1年前に自宅を建て替え、バリアフリーにしていたにもかかわらず
玄関・廊下・トイレに手すりをつける介護リフォームが施された。
まぁ良かったじゃないと思われがちだけど、ちっとも良くない。
「要介護5」ですよ。歩かないのに、何で手すりが要るの?
「一割負担ですから工事しましょう」って
完全に税金の無駄使い。
この申請が通る介護保険って何?

ポータブルトイレも買わされた。
母は死の2週間ほど前まで、トイレで排泄していた。
もちろん、歩けないから抱えて行っていた訳だけど。
もう、いよいよトイレにもいけなくなるかなぁ~
という頃、「トイレを買いませんか」と提案され
父は買うといい、私は不要だと言い、喧嘩になった。
結局また「どうせ一割負担だから」と買うことになった。
それから亡くなるまで、排泄がなくなり、というか
排尿できなくなり管を入れたのと、排便はしなくなっていたので、トイレの必要が無かった。
買う前に
「もう亡くなりそうなので、不要だと思うんですが」
と言うと
「お届けの日にご存命でしたら介護保険は適用なので大丈夫ですよ」
と言われていたから
あ~、売りたいだけなんだ~。
届いたピカピカの立派な家具調トイレをみた訪問看護師が一言
「これもったいないね、返品出来ないの?」
私も同感です。
結局使われること無く、今は玄関に椅子のフリをして置かれている。

そして亡くなる3日程前にまたケアマネから電話
「床ずれが激しいようなので、マットレスをジェルタイプに変更しませんか?」
あ~また、余計なものを勧めてきたな。
今回は、父も気が付いた
「要りません」
「ですが、こちらのほうが気持ちがいいと思いますが」
なかなか引き下がらない
もうすぐ顧客ではなくなるのがわかっているから必死だったのかな?
レンタルの一割負担だから高くは無いけれど
不幸を間近にしている家庭を相手に
よくもココまであれこれお金を引き出す手を考えてくるなと呆れてしまう。

私達の場合は、幸いにも私と姉が口出しできたけど
老夫婦だけで介護に直面していたら
あれもこれも
ケアマネが勧めるがままに契約していくんだろうな~。
あの介護度を変更する手続きをした後の安堵感は何だったんだろう。
ほんとに嫌なケアマネだった。
私が居ないと、父に介護ヘルパーの話を持っていったりしてた。
「体を拭いたり、シャンプーしたり、お手伝いさせていただけますよ」
「へぇ~、助かるな~」
「介護5ですから、多くサービスを利用できますよ」
なんて。
私はそれを聞いてビックリした。
毎日訪問看護の看護師が来てるのになんてことだ!
「看護師にしてもらえるのに、どうしてヘルパーを頼む必要があるのですか?」
「そうですね・・・・・」
医師の往診が毎日
それに訪問看護も毎日
そのうえ介護ヘルパーだって!
冗談じゃない!
家庭は病院じゃないんだ!
精神的にも経済的にも強烈な負担なのに。

介護保険制度というのは
介護で困っている人を助ける制度というよりも
困っている人をターゲットにした業者を設けさせる制度
と考えたほうがよさそうです。

病院に不信感

2009-05-15 | 日記
さて
私が母を失ったことで、一番心に引っかかることは
ずっと通っていた大学病院のこと。
裏切られたというか、捨てられたというか
負の印象しか残っていません。
膵がんが見つかる前から、
持病のかかりつけだったから
かれこれ6年も通院し続けていた。
なのに終わり方があまりに酷い・・・・
大学病院だからデータをとるのも大事だろうけど
もっと大事なことがあるだろうと思う。

3月に入って、急展開

抗癌剤の後、母がCTを撮っている間、
私は主治医に呼び出された。
「抗癌剤も効かないので、
治療はやめて緩和ケアにうつろうと思う。
薬と放射線で痛みを抑えます。
そうなると毎日通院してもらいますが付き添えますか?」
「・・・」
「痛み止めの麻薬の量を2倍に増やしておきますね」
「はい」
母に気付かれないように、急いでCT室へ戻る。
1時間待って、薬の順番が来た。
麻薬の量はいつも通り。しかも他に足りない薬が何種類もある。
いい加減だなぁ、と思いつつ、外来へ行きその旨伝え
また薬の順番を待つ。

後日
母と私に主治医が言う
「治療が困難になってきたから、緩和ケアに入りますね」
「・・・・・・・」
「今までの薬と抗癌剤では効き目が悪いから
明日から放射線にしましょう。
今から放射線科に行って説明を聞いてきてください」
「・・・・・・・」
放射線科に到着。
放射線科の医師がCT画像を見ながら説明を始める
「放射線は無理ですね。
コレだけガンが大きいとできませんし、
いろんなところにありすぎます。
それにこれだけ衰弱が激しいのに
、いまの状態では体力がもちません」
「・・・・・・・・・・・・」
「残念ながら、そういうことです。」
「・・・・・・・・・・・・」
「今から外科の先生ともう一度ご相談ください」
「・・・・・・・・・・・・」
私はショックで言葉が出なかった。
悲しさよりも怒りを感じた。
母はもっとショックだっただろう。
車椅子での移動とはいえ
広い大学病院内を行ったり来たり。
体力は限界間近。
しかも、こんな話を聞かされるなんて。
すっかり気落ちしてしまっている。
そして再び外科に戻る。
「困りましたね・・・」
「・・・・・・・」
「通院も難しい体になってきましたし
在宅医療に切り替えましょう。
今からソーシャルワーカーと相談してください。」
「へ?」
ということで
往診してくれる病院
ホスピス
訪問看護
等が紹介された。
そして、その日も足りない薬がいろいろあった。

医師にしてみれば、
私達はもう無用という気持ちなんだろう。

残酷な仕打ちだと思った。

翌日
母は傾眠状態に入った。

生きているけど死んでしまった。


忌野清志郎さん

2009-05-11 | 日記
このごろ忌野清志郎さんの話題が多い。
母と4日違いで、同じくガンで逝ってしまわれた。
ライブに行った事も無く、
大ファンではなかったけど、とにかく悲しい。
母と同じ時期を、同じように過ごされたかと思うと
他人事ではないと錯覚してしまいます。

母を思い出すとき清志郎さんを思い出し、
清志郎さんを思い出すとき母を思い出すでしょう。

天国があるのかないのか知らないけれど
二人とも苦痛から解放されて
快適な天国生活を送っていて欲しいです。

残念です。