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会津藩vs長州藩

2016年09月04日 | 
会津藩VS長州藩

数年前、当時の萩市の市長が会津へ赴き姉妹都市の提案をしましたが、「まだ戊辰から140年しか経っていないから…」と断った。
昨年に至っては、NHK大河ドラマを放送していない年とまで語られている(花燃ゆ)


長州藩
山口出身者を嫌う会津人は多い。
昭和50年代、私の両親が結婚する時も福島出身の祖母が拘った。父が福島人だったため簡単に許可が出たという。今から40年前ですら福島の人は薩長出身者を疎む傾向にある。

なぜ会津人が長州藩を嫌いかというと、会津戊辰戦争敗戦処理による。戦死者の埋葬を禁じたり会津出身者を職に就かせなかったりした。
 ところが、近年の調査ではこの会津戊辰戦争で非道の限りを尽くしたのは、実は薩摩でも長州でもない。長州藩に至っては、そもそも北越戦争に戸惑って会津攻めに間に合っていない。日本人として恥ずかしい行為をしたのは途中から薩長軍に加わった便乗藩。福井、尾張、淀、黒羽、大垣。福井藩は松平春嶽により会津藩主松平容保に京都守護職を押し付けたし、尾張藩主は松平容保の実兄である。そんな各藩は会津を攻め、捕えた男性は惨殺、女性は強姦の上惨殺。中には70歳を過ぎた老婆を集団強姦した上に串刺しにして川に捨てた。主に大垣藩:黒羽藩。
会津女子が籠城戦の前に自刃したのはこのような事態になる前に自ら命を絶ったにすぎない。

武家屋敷に押し入ってはその家の宝物を取店で売っていた。会津降伏後、街中のマーケットでは自分の家の歴代の家宝が二束三文で売られていたのを連行されている会津藩士は見ている。そして強姦され家の周りで打ち捨てられている妻や娘の姿を見ながら連行された。
これを許可し、さらに埋葬を禁じた長州藩に対して恨みを持つのは当然の事ではありますが、平然それに加わっていた大垣藩:黒羽藩に対しては今でも許し難い。

複雑な一族ながら我が家の宝物もこれによってすべて失った。
長州人だからといってすべての人が悪い訳ではなく、会津に同情的な長州藩士もいた。奥平謙輔、前原一誠などは会津降伏後、会津藩再興に協力的だった。


結局のところ、出身地ではなく人間力だったのだろう。
戊辰戦争のきっかけも長州に世良修蔵の横柄な態度が発端とも言われている節もあるくらいだ。
北越戦争は岩村精一郎の横柄な態度。


どちらにしても下級武士出身者ほど横柄な態度だった。
今の世も同じで、魅力的で人間力が高い人ほど謙虚な人ばかりだ。


どちらにしても会津藩と長州藩の遺恨はまだまだ続くだろう。

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