読んだ中でお薦めの本を紹介します!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

名将 宮崎繁三郎

2016年08月17日 | 
名将 宮崎繁三郎

名将と言われる人は多いが、その資質は何だろうか。
功名を排し、己の本分に徹して人員掌握に努め、寡少の兵力にも甘んじつつも百戦不敗の名を轟かせた名指揮官、宮崎繁三郎の物語。白骨街道で有名なインパール作戦でイギリス軍司令官をして称賛の辞をおしまなかった戦闘を行った日本帝国陸軍屈指の指揮官です。


昭和19年にインパール作戦が行われて二週間。予定より軍行が遅れている。その間、物資である弾薬や食料は届かない。そもそもこのインパール作戦になんの意味を持っていたのか。この作戦に参加した多くの指揮官や兵たちが思っていた事だ。偏に牟田口廉也の自己満足に当たる無謀な作戦であったことは後世の人は認識していることだろう。

宮崎少将は五十八連隊を指揮しコヒマ南方アラズラ高地を守備して反撃してくる英軍と激戦を交える事になる。この間、食料、弾薬の不足にもめげず、一歩も退かぬばかりか、ほとんどこの地を占領している英印軍主力部隊はインパール増援を阻止し、【日本軍に宮崎部隊あり】と英軍を苦戦させた。
 また宮崎は、常に部下に軍紀の厳正を強く指示し占領地においても、決して住民に暴行を加える事を禁じ、食糧を徴発するときも必ず応分の代価を支払う事を命じた。このため、ビルマ人は非常に日本軍に好意を抱き、宮崎の部隊が駐屯したところを後に退却で通過した部隊はいずれも優遇されたとの事である。宮崎少将に限らす、以前レビュー投稿させて頂いた「落下傘部隊長 堀内大佐」も同じく、占領した地域住民から信頼され好意的であった。

このことは実は信長が京都に入った時も同じで、軍紀を厳しくし、住民に対して暴行、略奪の類は一切禁止し、それを犯したものには厳しい罰則が待っていた。

宮崎は作戦の名手であり、実践の指揮官であったがみだりに部下を殺さず餓死者を最小限に抑えた事で有名である。師団命令により苦しい退却戦を行う時も部下の面倒を良く見て、負傷者を戦友が担いで後退することで死傷者を最小限に食い止めることができたという。

実は宮崎少将はビルマ戦線、インパール作戦で有名になったのではない。その前の戦歴ではすでに大隊長の時、満州戦線で功績をあげ中国大陸戦でも活躍し、ノモンハンでは他の連隊が苦戦し連隊長が自決をしている中で、宮崎の歩兵連隊だけは勝っていた。このことから、元々指揮官としての資質に恵まれた素質を持ち合わせていたのだろう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿