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最後の特攻は妻を乗せて…。

2016年08月19日 | 
妻と飛んだ特攻兵 8・19満州最後の特攻


まずこの本を見かけた時にものすごい衝撃に襲われた。特攻というと敵艦などに突っ込むため待っているのは「死」だ。隊員は志願(形はどうであれ覚悟をしている)をしている兵である。しかしながら今回は「妻」を飛行機に乗せて一緒に突っ込むという例にない途轍もない史実だ。昨年夏にTV放送されたのでご覧になった方もいらっしゃると思いますので内容よりも背景などを書かせてもらいます。

谷藤徹夫少尉
谷藤少尉は青森県下北半島むつ市田名部出身だった。最寄り駅は下北駅。本州JR駅で最北にある。そう、ここは会津藩士が斗南藩として藩を再興した時の地だ。谷藤少尉の家は会津藩士の家柄だった。徹夫の母テルが会津藩士の家系。斗南藩がなくなった後も田名部に残った人たちだった。数ページで私はこの本にのめり込んだ。

むつ市田名部は北端の町として賑わった。とはいってものすごく小さな町だった。私は昨年「会津斗南藩立藩145周年」の式典出席のため田名部を訪れた。娯楽はほとんど無い。観光客も多くはないだろう。大正から昭和初期にかけてこの地の娯楽は映画だった。この町の映画館を営む家庭で生まれた谷藤少年は会津藩の「什の掟」を始めとする厳しい会津魂と映画館などの当時はモダンな文化を取り入れた裕福な家庭で育った。地元田名部でも優秀な成績を残し周囲から期待されていた。

そんな彼も時代に翻弄されてか陸軍飛行隊へ進む。「荒鷲」を求む、のポスターに惹かれたという。当時は太平洋戦争期真只中。成人男性や学生男性が軍隊に憧れそちらの方向へ進んで行くことは自然な進路希望だったのかもしれない。そんな彼も見事に飛行学校に進み満州へ。途中紆余曲折あるが、そのあたりは実際にこの本を読んで欲しい。

なぜ、敗戦が確定した8月15日から数日たってから特攻をしたかという事と妻を乗せたのか。また厳格に管理されていたはずの飛行機にどのように妻を乗せたのだろか。
夫婦の中でどのような話し合いで一緒に特攻機に乗ると決めたのだろうか。飛び立つ前日はどのような会話をしたのだろうか。日本は敗北した事を認識しているからこそ、ソ連軍にいどんだのだろう。不思議な事に会津藩士が不利な事承知で鶴ヶ城に籠城し最後まで抵抗した事や、敗北すると敵に蹂躙される事を会津の人たちは脳裏に焼き付いているしその教えは子孫代々教育として伝えている家庭がほとんどだ。私も幼いころ祖父に会津の教えを受けたものだ…とは言っても私は昭和50年代の生まれ。そんなに古い話ではない。

8月9日 日本では長崎に原子爆弾が投下された日に、満州ではソ連軍が日ソ不可侵条約の更新をせず破棄したため攻め込んできた。しかしながら満州を守る関東軍は南方戦線に戦力を分散させていたため(日ソ不可侵条約のためソ連からの攻撃はないと見込んでいた)独ソ戦争で使っていた最新式兵器と共に押し寄せたソ連軍に対抗できる戦力を持ち合わせていなかった。ソ連との国境に近い都市や樺太などは多くのソ連軍が押し寄せて男性は皆殺し、女性は拉致か凌辱され、最後は満州にいる中国人に身ぐるみ剥がされ惨殺される。
こんなことが各地で起こった。8月15日、日本が無条件降伏をしてもなおこの行為が終わらない。それどころか日本軍が組織的な抵抗を行わなくなってからなすますエスカレートしていった。その後、男女子供関係なくシベリアへ連行されたことにより、今でも旧ソ連であるロシアを快く思わない日本人が多い事は周知の通りだろう。

そんな時代に、妻だけおいて自分は敵に特攻出来るだろうか。残された妻の方が辛い体験をしてしまうのではないだろうか。そんな事が谷藤少尉の頭に過ったのではないだろうか。そう、会津戊辰戦争で会津藩の生き残りや婦女子が体験したなどを思い出して。

どちらにしても敗北によってすべてを失い、生きる望みも薄くなることは承知していた事だろうから、どうせ死ぬなら供に敵に一矢報いるべし。との気持ちが強かったのだろう。

それにしても特攻に関する話などは数十年も前からこの時期特有の話題になっていたが、この夫婦で特攻に挑んだ話の詳細が世に出たのがここ数年というのが残念でならない。もっと前から日本に身を捧げた英霊として称えるべきであったと思う。

満州で散った谷藤夫婦だが、むつ市田名部にある円通寺にそのお墓がある。
そう、会津斗南藩庁が置かれ斗南藩のシンボルにもなっていた場所である。
今も会津の方々が眠る場所で安らかに…。

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