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本当の勝者は?

2018年05月28日 | 
長州奇兵隊
勝者のなかの敗者たち
今回は幕末動乱期を長州側から検証している本を紹介します。幕末長州藩で一番有名なのは奇兵隊。これは近代陸軍の原型ともいえる当時の封建社会の根底を覆す政策でした。その政策を実行したのが高杉晋作でした。
高杉晋作による奇兵隊
長州藩は尊王攘夷に運動が盛んで、外国人を打ち払う事は外国人嫌いで有名な孝明帝のご意思として下関を通過する外国船に対して砲撃を敢行し4国連連合艦隊から報復攻撃を受け下関を占領された。その他にも禁門の変や長州征伐等で多くの藩士を失っていた。そして迫りくる第二次長州征伐に備える必要があった。藩士だけでは対抗できる人数に届かないことから補うべく取った制度こそ身分を問わず志願した町人や農民などを兵士として採用する事であった。この動きが藩内各地で行われ400近い諸隊が誕生した。中には力士隊、商人隊、僧侶隊など変わった部隊もあったようだ。それらを一つにまとめて組織した部隊こそ奇兵隊であった。これが後に武士以外からの徴兵制度で軍隊を作る仕組みの原型になる。
 身分を問わないとはいえ、高杉晋作は長州藩の中でも上士の生まれで下級武士ではない。その事が結局身分制度を完全に壊す事が出来なった要因であった。高杉晋作が実際に奇兵隊を指揮していた時期が3ヶ月ほどの期間でした。藩内の業務で多忙だった事などもあり赤根武人に総督をバトンタッチした。
二代目総督、赤根武人
長州藩は「禁門の変」で敗北し朝敵となった事で藩内の意見がわかれた。「恭順派」か武力による「俗論派」か。赤根は二つの意見の妥協点を見つける事で難局を乗り切ろうとします。萩へ行き藩重臣たちと協議しようとしますが、また身分の違いなどから相手にされません。そんな中九州に逃れていた高杉が戻り奇兵隊内では「俗論派」の意見を押し通します。この事で妥協案を出した赤根は裏切り者扱いになってしまいました。赤根の次席のナンバー2であった山県狂介(のち有朋)は高杉に従い「俗論派」となって挙兵します。この事が明治になっても尾を引く事件になります。赤根は裏切り者として斬首され、ナンバー2だった山県狂介が三代目総督になります。
三代目総督、山縣狂介
山県狂介に関しては知っている方が多いと思うのですが、元々足軽以下の軽卒から総督まで上り詰め維新後には元老や内閣総理大臣など明治政府では絶対的な権力を持つ。伊藤博文と共に松明治政府内で権力を持ったため、事あるごとに「松下村塾」出身という事を強調したという。そして吉田松陰を神格化し、維新時に戦死した者や維新後に反乱を起こして戦死や斬首されたものまでも恩赦とし名誉回復を行った。しかし、赤根武人の親族が武人の名誉回復運動を行うと、山県有朋と元奇兵隊三浦梧楼が猛反対し名誉回復は叶わなかった。おそらく、赤根の名誉が回復されると都合が悪い何かがあるのだろう。誰もが推測出来てしまうと思いますが、結局権力を持つと勝者の都合になり、敗者にはそれなりの汚名を着せたままにする事で自分を正当化するやり方は古来日本でも常套手段であった。山県が地元山口県でも人気がないのはそのあたりが原因のようだ。
勝者の中の敗者
長州藩といえば維新最大級の功労者と思われるが、その原動力となった「奇兵隊」はその後どのような道を歩んだのだろうか。実は、身分に関係無く士族となって戦えるといった事をうたい文句にして人数集めを行ったが、維新後戦争がなくなったので多くがお払い箱に。元々士族だった人は優先的に新しい日本陸軍に採用されたが、そこまで多くの人数を必要としなかったため、士族以外の奇兵隊隊員は解散。しかし、明治政府立件のために命を懸けて働いたのにこの仕打ちとは…当然の如く怒りますよね。そう、解散命令を出された商人や農民からなる隊員は山口県内の各地で反乱を起こします。そしてその鎮圧に士族の奇兵隊が当たるわけです。血で血を贖う事とはこの事か。捕えられた多くの反乱軍は罪人として斬首されてしまうんです。指揮命令を行っていたのが山県。完全に己の利己のために仲間を惨殺して輝かしい地位を手に入れたのです。奇兵隊ではなく、長州藩の正規軍出身の武士からしたら藩の忠臣のために戦った上士が何の地位にも就けず、足軽以下だった山県や伊藤が絶対権力を持つ事にかなり不満が残ったそうです。事実、本人たちもそれが判っていたのであまり山口県に帰省しなかったとも言われています。そりゃそうですよね。いくら総理大臣として凱旋しても、数十年前は意見する事も憚れた上士たちに会ったら気まずい空気になってしまうでしょう。
 明治政府は薩長閥ばかりが特権階級を占めていたと思われがちですが、以外にもそれは一部の軽卒出身者たちだけで、明治維新前の長州藩の藩政治を担っていた人たちはその特権階級から外されていました。そのため廃藩置県や秩禄処分などの新しい政策により生活は困窮を極めたといわれています。
戊辰戦争とは何だったのだろうか。元々朝廷派だった会津藩や長岡藩など市街地は消滅し、藩士は元より多くの民衆まで犠牲になった。徳川家に使えた旗本や御家人も身分消滅した。薩長軍が攻め上がるために各地で戦闘が起こり多くの民衆が犠牲となった。勝者となったはずの長州藩のごく一部の者だけが特権階級に就け、薩摩藩もその後反乱分子として西南戦争で薩摩士族が闇に葬られた。明治政府内で特権階級に就けた者以外は結局彼らの踏み台になってしまったのだろうか。山県が存命中は長州閥の意見は強かったがやはり時代とともにしっかりと教養がある人が対等してくると其のあたりも大きく変わってくるが、それには明治になってもあと40年も先の事であった。
この本が出た頃には会津から連れて来られた少年がいて、「さださぁ」と呼ばれていたという。ところが近年になりその少年が白虎隊の生き残り「飯沼貞吉」であった事がわかった。長州藩もに武士の情けが分かる上級武士も多く存在していたが多くが大きな功績を残す前に亡くなってしまっているケースが多い事が残念でならない。
また、同じ歴史の出来事でもお互いの立場が変われば見解も違うこのパラダイムシフトを今回は痛感しました。

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