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自然回帰マーチャンダイジング

-地域-自然-デザイン-商品-生活-を繋ぐ遊び場・仕事場から

北海道⇔静岡県 地域間交流による産品と観光の互産互消

2013-09-14 17:56:05 | 執筆/寄稿
 緯度と気候、地勢や風土の違いにより、互いのエリアにないモノ・コトを消費し合う取り組みを推進する試みに取り組み始めた。北海道と静岡県は、観光テーマ(例:アウトドアツーリズム)や産品ジャンル(例:農産品)は互いに共通するものの、具体的な商品には大きな違いがある。その違いを活用して地域間交流によるビジネスメリットを創出したい。

 サイクルツーリズムにおいては、北海道が初夏から秋にかけての国内および海外需要が顕著であるのに対し、静岡県では盛夏を除いた通年での国内需要が増加しつつある。特に晩秋から冬、春にかけて北海道では自転車に乗れない日々が続くのに対して、静岡県は快適な自転車環境を提供することができる。逆に、静岡県には初夏から秋にかけて冷涼で雄大な北の大地を走りたいというサイクリストの需要が高いレベルで存在する。

 静岡県の主産品である緑茶においては、北海道は国内で新たな需要を見込める有望なマーケットであり、北海道の主産品であるスイーツとの組み合せに、その可能性と期待が高まる。逆に静岡県の緑茶需要は国内最大であるものの、若い世代の緑茶離れも懸念されている。そのマーケットに対して北海道特産のスイーツを導入することで、新しいスタイルの緑茶需要と、北海道スイーツの新たなマーケット拡大が期待できる。

 サイクルツーリズム、緑茶とスイーツに限らず、前述のように緯度と気候、地勢や風土の違いにより、それぞれのフィールドには山岳、湖沼、河川、海洋のそれぞれに独特のアウトドアアクティビティが存在するため、季節に応じたツーリストの交流、ツーリズムの交歓が可能である。また、農産物や魚介類に至っては、基本的にその種類に大きな違いがあり、その組合せによって、北海道と静岡県の食卓は、より豊かなものになる。

 人口は北海道が547万人で、静岡県が371万人。お互いに「ないもの」を交換し合う間柄としてのマーケットとしては一定の規模で存在している。北海道と静岡県それぞれで情報の発信と交流の基軸や窓口をつくり、互産互消のライフスタイルを両エリアに提案していく。北海道には静岡県のツアーデスクや食材カウンターを、静岡県には北海道のツアーデスクや食材カウンターを設置する。こうした取り組みを、北海道と静岡県、両地域の団体、法人に示し、今年度中にその大きな枠組みをつくるのが目標である。

足るを知る心の旅~あなたは大切な遊び場を持っているか

2008-01-28 15:49:53 | 執筆/寄稿

 人の手が入らない自然への身の置き方。ごく身近にある自然との接し方。地域の自然が持つ価値をライフスタイルに生かすためのヒントをテーマに、コラムを書いてきた。また、他所の土地へ出かけるたび、日常生活のステージとなる静岡の自然資源の豊かさを再確認し、その価値を享受できることの幸せを実感してきた。

 多くの人が、自然への回帰を志向するライフスタイルを希求している。そこで必要とされているのは、自然の中で大真面目に遊び、自然の持つ力を面白がって生活に取り入れることで、自然に対する作法や流儀を学ぶことではないか。そのための方法論は、ストイックな自給自足生活や生命を賭けた野外冒険でもなく、バーベキューや魚のつかみ取りのような安直な野外レジャーでもない。

 人間の存在自体が地球にとって脅威となっているが、幸いなことに人間は自然と接することで価値観を変えられる。地域の自然保護や環境問題を声高に叫ぶ前に、地域や自然が「大切な遊び場」だという感覚の醸成が先決だろう。遊び場は、ひとの心を解放する場であり、ひとの価値観を凝縮する場でもある。フライフィッシングやカヤッキング、トレッキングやサイクリングなど、健全な自然があってこそ成立するクワイエットスポーツを通じて、地域や自然を遊びのフィールドとして使い、その遊び場を大切にする価値観をもった大人が増えて欲しい。

 理事を務めるNPOで、こうした考えに賛同を得て「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」 という事業を2006年4月からスタートさせることができた。「ライフスタイル」「生活を変える」というテーマで人を繋ぎ、地域に新たな価値観を生み出そうとしている。「自然回帰」「地域流儀」「足るを知る心」「美しい毎日」「知識を知恵に」をテーマとするこのカレッジが、一人一人の視点を変え、生活を変えていけるならば、自ずとこの地域の価値も高まり、この地に暮らす意味もさらに深まるはずだ。

 クワイエットスポーツを愉しむための大切な遊び場は、健全で美しくあるべきだ。いつまでも遊ばせてもらうために、そのフィールドである海を、川を、山を、みちを大切にするのだ。

 「ないものねだり」から、「あるものさがし」へ。自然への回帰という旅は、人間の中にある自然を呼び覚まし、足るを知る心の旅でもある。

(写真)
大井川源流でのフライフィッシングカレッジ。
ヤマトイワナに遊んでもらうためには、渓流の渡渉技術が必要だ。

■ビジネスマガジンVEGA 11月号「しずおか自然回帰の旅⑩」として寄稿 

近くて小さな旅~掛川のみち・まち

2007-10-05 13:50:57 | 執筆/寄稿

 その先を曲がると何が待っているのか。その向こうにはどんな世界が拡がっているのか。こういう想いにかられる場面によく出会う。まちの中心部を少しだけ外れ、かつてのサイズのままの路地を歩いているとき。自転車に乗り、緩やかにカーブした里川沿いや、適度なアップダウンを繰り返す里山の農道を走っているとき。ローカル鉄道に乗り、列車がスピードを緩めて蛇行した線路を進もうとするとき。手前の空間や風景が、魅力的であればあるほど期待感が膨らむ。その先が大きく開けていたり、あるいはさらにこうしたカーブが続いていたりすることで、その風景や空間はより価値の高い場所となる。

 例えば、この掛川市内の路地。古い建築、煉瓦造りの壁、路地の狭さ、向こうまで見渡せないみちの曲がり方。このみちを使ってCMを撮影した。掛川の魅力ある風景を紹介する出版物にも採用した。掛川を訪れたサイクリストたちを、必ずといっていいほどこの空間へ案内した。単にお気に入りの場所を自慢げに紹介したかったのではない。何気ない日常空間に価値があることを、訪れる人にはもちろん、このまちに暮らす人にも示したかった。

 また、掛川駅を発着するローカル鉄道「天竜浜名湖線」沿いは、素敵な空間資源の宝庫でもある。線路沿いに3kmも続く一直線の道があるかと思えば、小さな山の手前で大きく線路が蛇行する。田圃の直線と丘が作り出す曲線は、このまちにしかない風景財産だ。絶妙なカーブを描くその先には里川にかかる鉄橋が、その手前にはゆるやかな里山が待ち構えている。

 その先をどうしても見てみたくなるところは、自然に加えた人の手が、意図なく効果的なチラリズムを演出している。自然と人との関わりが見える風景。時間が止まったままの空間。味わい深い建築群。日々の生活の中に、選りすぐったかのようなロケーションが存在している。掛川に例をとったが、決してここにしかない風景というわけではなく、ローカルには、こうした魅力的な空間がまだまだある。地域の人びとが、こうした価値に気付かないのはあまりにもったいない。遠くへと大がかりな旅に出るチャンスは少ないかもしれない。しかし、小さくとも魅力的な旅は、あなたの生活のすぐ近くにある。

(写真)
掛川市旭町には、時間が止まったかのような空間がある。

■ビジネスマガジンVEGA 8月号「しずおか自然回帰の旅⑨」として寄稿

アメノウオの川~森町・太田川

2007-06-28 20:15:38 | 執筆/寄稿

 小学校の水泳の授業は、アマゴが泳ぐこの川だった。その20年後、子供のとき一緒に泳いだアマゴたちに、フライ(毛鉤)で遊んでもらうようになった。フライフィッシングを始めたのも、この川だ。その日、自分で巻いた出来損ないのフライをくわえてくれた、たった15cmのアマゴに、かつてないほどのいとおしさを覚えた。

 渓流魚であるアマゴを、森町をはじめ北遠一帯では“アメノウオ”と呼ぶ。雨が降ると出てくるから“雨の魚”、もしくは山岳渓流にいるから“天の魚”。自分の中には、ごく普通にアメノウオがいたが、清冽な冷水でなければ生きていけない鱒族の日本固有種であり、堰堤による棲息域の遮断、水質悪化などの環境変化により、自然再生産ができなくなる脆弱なサカナであることを、子供ながらに認識していた。この魚を食べることに抵抗感があり、子供のころから、釣っても川に戻してしまうことが多かった。大人たちは「もったいないことをするな」と言ったけれど、「食べるほうがよほどもったいない」というのが自分の率直な感覚であり、釣れた魚が大きいほど、川に戻したくなった。

 ある時、大切にしていた沢にアメノウオが居なくなる。聞けば、バッテリーを使った違法な漁法で、根こそぎ魚を獲っていった連中がいたという。大人は何て酷いことをするのだ、と子供ながらにうんざりした。しかし、父親の協力を得て、大切な遊び場の復活を願い、釣り大会で釣った十数匹のアメノウオを沢の上流に放流した。僅かに残ったであろう魚たちの生命力のおかげか、数年後に遊び場は復活する。

 森林と河川の生態系という「小宇宙」を実感できるフライフィッシングとの出会いは、必然でもあった。水棲昆虫を“川虫”と総称していたのが、その種を見て、○○カゲロウ、○○トビケラ、○○カワゲラ、と呼べるようになり、その棲息状況や羽化傾向にまで興味が及ぶことで、川という大切な遊び場は、さらに貴重なものとなった。
 
 いま、遊び場はどうなっているだろうかと、毎年3月は太田川へ必ず足を運ぶ。しかし、ここ数年は、鵜と鷺の姿を見かけるようになり、アメノウオとの対面機会は少なくなった。そして今年3月。向かったその場所には、びっしりと鳥のフン。遊び場を脅かすのはそればかりでない。上流に完成するダム。早春というのに初夏の陽気。温暖化と水温上昇により渓流魚は一体どうなるのかと、不安なままウェットフライを流す。5分もしないうち、偶然にも15年前に初めてフライフィッシングで出会ったのと同じサイズのアメノウオが足元に居た。
 
 歌にあるように、人生や愛や原風景を川の流れに求めるのとは明らかに違う。放すと瞬時に消えていったこの魚たちから教わったのは、“いつまでたっても川は遊び場だ”という感覚。環境問題を声高に叫ぶ前に、この感覚を取り戻したほうがいい。自然という偉大な遊び場は、体の中の自然を呼びおこし、価値観をリセットし、生活を変えてくれるはずだ。

(写真)
この流れ、この遊び場が、自然回帰型生活を提案してくれる。

■ビジネスマガジンVEGA 5月号「しずおか自然回帰の旅⑧」として寄稿

初冬のトレッキング~山犬段から蕎麦粒山へ

2007-02-16 19:20:13 | 執筆/寄稿

 芽吹きの春。新緑の初夏。紅葉の秋。多くの人びとが、山や渓の美しさに惹かれる季節はそのあたりか。また、雪山を志向する登山愛好者は、冬が絶好の季節だと言うに違いない。では、木々が葉をすべて落とす晩秋から初冬の山や渓の魅力はどうだろう。葉が落ちて明るくなった人気のない樹林を、落ち葉と木の実と霜柱をザクザクと踏みしめて行くトレッキング。決してメジャーではないが、初冬の山の豊かな愉しみ方だ。

 11月下旬、川根本町の山犬段(やまいぬだん)へと向かった。大井川沿いの道から林道に入り、尾呂久保集落を抜けクルマを走らせる。まだ紅葉が残る中腹部と違い、標高約1,400mのブナ林は存分に葉を落としていた。そこから西へ距離約1km、標高差200mの蕎麦粒山(そばつぶやま)を目指す。たった片道1時間弱のトレッキングではあるが、樹形をあらわにしたブナの樹林帯で、落葉でふかふかになったトラックを独り占めにして歩くのは、至福のひとときだ。

 白い霧で見難くなった道先をホシガラスが案内してくれる。何羽ものヤマガラが頭上を飛び交い、リスのふわふわした尻尾がトラック脇で揺れる。枯れた巨木に生えたサルノコシカケに、猿が座るシーンをイメージする。落葉の吹き溜まりに、小学生時代に身の丈をすべて隠した記憶が甦る。時々射してくる陽の暖かさ。立ち止まるとすぐに襲ってくる冷気。ハイシーズンと違い、初冬の中級山岳帯は登山者も少なく、驚くほど静かで、とびっきり明るい。

 昔からの、あまのじゃく体質とマイナー志向。加えて、妙な好奇心と変な探究心を持った子供が大人になると、こうして「トレッキングは初冬に限る」と言い切ってしまうようになる。それを、いい迷惑だと片付けるか、騙されたと思ってつき合うか。騙されたとしてもあまりにも短く、リスクのない、たった半日という時間の使い方。自然を愉しむ方法論は、行動力がすべて、でもある。

(写真)
この季節に樹林帯を歩くと、前後左右、そして天と地のすべてに目が届くようになる。

■ビジネスマガジンVEGA 1月号「しずおか自然回帰の旅⑦」として寄稿

農の営みがつくる美しい空間~キウイフルーツカントリーJAPAN

2006-11-29 23:31:41 | 執筆/寄稿
 
 新幹線が静岡を発ち、大井川を越え、掛川に近づくと、平野でもなく山岳でもない、なだらかな山、小川と田園が適度に混在した農村空間が広がってくる。適度な起伏をもった、ゆるゆるした里山とでも言えばいいだろうか。こんもりとした自然林。茶畑で描かれた丘陵線。大きくカーブする在来線の線路。小さな川とため池。静岡県の中でも、特に大井川と天竜川に挟まれたこのエリアには、となりのトトロに描かれたような日本の正しい里山風景が広がっている。

 自然の美しさには、川の源流域のように、手を入れない大自然の持つ美しさと、棚田に代表されるような、農林業を営むひとびとの手が入った里山のそれとがある。特に里山の持つ美しさは、ひとびとの農の営みとともにあり、その手が入らなくなると、たちまち荒廃してしまうことを、小学生時代に身をもって体験した。

 森町の山間部に生まれ、小学校に通い始めたとき、山の斜面に広がる茶畑と古民家の点在する集落は6軒の農家で成り立っていた。折しも向都離村の価値観のまっただ中、6年生になると、夜には5軒の家から明かりが灯らなくなった。集落を出て行くひとびとは、こぞって茶畑にスギの木を植えていく。結果的に、我が家もその3年後には茶畑にスギを植え、山を降りることになるのだが、茶畑に植えたスギの成長は目覚しい。明るかった集落は、みるみるうちに暗いスギのボサ林に変わっていった。

 この強烈な体験から、自然と人・農と風景の関係をいやでも意識することになる。フライフィッシングでは、里川でのアマゴ釣りに惹かれてしまう。農の営みが感じられる、たおやかな風景の中を自転車で走りたくなってしまう。

 この手入れされた農園はどうだろう。掛川市上内田で、平野正俊さんが経営するキウイフルーツカントリーJAPANは日本を代表するキウイ農園だ。ゆるゆるした里山のなかにある、この美しい空間を訪れてみて欲しい。佇むだけで、人と自然が農という作法をもって共存しているさまを、存分に見せつけてくれるはずだ。

(写真)
一面に広がるキウイの葉。この下には多様な種類のキウイの実と、人と動植物の共生空間が広がっている。

■ビジネスマガジンVEGA 11月号「しずおか自然回帰の旅⑥」として寄稿

絶妙なボリュームとスピードをもった流れ~気田川

2006-09-29 23:52:08 | 執筆/寄稿

 天竜川を北上し、川が天竜美林に囲まれはじめたすぐその先で、大きな支流が流れ込んでくる。支流というにはあまりにもスケールの大きなこの川が、全国のカヌーイストや清流ウォッチャーに名の知れた気田川だ。

 小学校の水泳の授業はアユやアマゴ、オイカワが泳ぐ近くの川だった。魚たちの習性とは不思議なもので、川に入らず、水面に人影が映るとサカナたちは一斉に姿を隠す。しかしひとたび人が川の中に潜っていくと、彼らは隠れ家から出てきてヒトと戯れるようにまた泳ぎだす。一昨年の夏、気田川でこの体験に近いことがあった。

 水中メガネをかけて流れに入り、魚の姿を探してみたが、いくら泳いでも魚たちの影は見当たらない。あきらめて背中を上流にして立ち込み、そのまま頭を沈めて下流を眺めた瞬間、驚きの場面に遭遇した。なんと、魚たちが視界の両側からまん中に向かってどんどん飛び込んでくるのだ。きっと、自分の体が水の流れのスピードを抑え、体の下流側に緩流帯が出現したからだろう。魚が自分に向かって泳いでくるという現象。これは、水のボリュームがあり、川の高低差が大きすぎず、長い流程をもった川でなくては遭遇できないはずだ。水泳の授業をした川は高低差があり、水量が少ないから緩い流れと急な流れが入り混じり、サカナたちの緩流帯への移動は容易いからこうは行かない。気田川に豊かな流れがあることの証が、この現象なのだ。

 気田川は秋葉神社下社から天竜川に合流するまで、両岸の人工物が少なくなり、四万十川にも匹敵するような自然景観に圧倒される。今年5月中旬、仲間たちとこの区間をカヤックでツーリングした。途中、魚たちと戯れたまだ冷たい流れに身をひたしてみた。カヤックが下っていく心地よいスピード。水にひたらなければわからない水圧と水流。この川の魅力を知るには、カヤックで下るとともに、ぜひ泳いでみてほしい。流れのもつ絶妙なボリューム感とスピード感こそ、日本の正しい清流の尺度となるべきなのだ。

(写真)
「清流」とは、ただ水質が良い水の流れのことだけではない。この水量、この水流、この水圧、この景観があってこそなのだ。

■ビジネスマガジンVEGA 7月号「しずおか自然回帰の旅⑤」として寄稿


海と大地が繋がる半島~御前崎

2006-06-19 13:38:52 | 執筆/寄稿

 遠州地方の東端には、大海原に突き出した小さな半島がある。西には、そのすぐ先に黒潮が流れる遠州灘。東には世界的にも稀な深さを持つ駿河湾。海に囲まれ、波に洗われ、風に吹かれるまち。日の出と日の入り、朝焼けと夕焼け、太陽の一日が手に取るようにわかってしまうまち。

 この地で御前崎茶のことを知った。豊富な日照量と海洋性気候で、静岡県で一番早いお茶の摘み取りが可能だという。深蒸茶向きでない爽やかな香りと味わいのお茶だった。地域のひとにも出会った。この海と風に魅了されて移住してきたウィンドサーファーの美しい女性は、なんと風が吹かないオフシーズンは茶園の仕事をしているという。逞しい遊漁船の船長は、海に出るときは必ず熱い御前崎茶を船内に積み込んでいた。ミスマッチとも思える海と茶の関係から、御前崎の海が大地を育み、地域固有の生活を創造していることを、まばゆい太陽を浴び、 大海原を渡る風に吹かれながら実感した。
 
 さらに海と大地の繋がりを強く感じたのは、南アルプスの山々から削られた石や砂が、大井川や天竜川によってたどり着き、台地や砂丘となっていると聞かされたときだ。フライフィッシングに通う渓で、サツキマスが海と山を行き来するように、大地そのものが繋がっている。
 
 かつて、海で生まれた塩は山へと向かった。塩の道を通じた南北交流がひとびとの生活の機軸にもなっていた。われわれと南信のひとたちとの会話に全く違和感がないのはそのせいだろう。
 
 そう考えてみたとき、桜ヶ池と諏訪湖がつながっているという伝説は、伝説でなくなる。それは、海と山を結ぶ自然と生命の営みへの畏敬の念が込められたノンフィクションだ。人の心が変化しても、変わらない海と大地のチカラ。この半島はそのチカラを体感する場所なのだ。

(写真)
遠州灘側の御前崎の海。風と水と波が織り成す大自然のデザインは作為のない美しさだ。

■ビジネスマガジンVEGA 3月号「しずおか自然回帰の旅④」として寄稿

巨樹ウオッチングの作法~春埜山の大杉

2006-05-20 23:24:18 | 執筆/寄稿
 
 雄大な自然に出会ったり、今までにあまり見たことのない風景に巡りあったりすると、誰もが自然に感嘆符(!)がつく言葉を発するのが世の常だ。しかし、数え切れないほどの知人を、ここ浜松市春野町にある春埜山の大杉に案内したが、その多くのひとが感嘆符(!)に疑問符(?)を加えた、「・・・!?」の言葉を発するケースがほとんどだった。具体的には、その巨樹を見た瞬間に「えぇーっ!?」となるのだ。

 この大杉は、森町と旧春野町の境界近くとなる春埜山(883m)の頂にある、春埜山大光寺の御神木。8世紀初め、行基のお手植えと伝えられ、樹齢なんと1300年。気が遠くなるような時間を、この杉はこの寺とともに生きてきた。その大きさたるや、写真を撮るのに非常に苦労する大きさだ。大きな被写体は、退いて撮ればよさそうなものだが、そうすると周りの木々と一体となり森のようになってしまう。一本の木として見ようとすれと、大光寺の山門に行かねばならない。遠くからこの木は眺められないことが、かえって希少感を増幅させる。

 子供の頃、春埜山を森町側へ下った集落に生まれた父親に連れられ、この杉を見て「・・・!?」の状態だった。それから四半世紀を経、森町側からのトレッキングで巨樹に再会したとき、さらに身震いが加わった。加齢とともに、フライフィッシングやトレッキングという遊びを通じ、自然に対する畏敬の念を強く抱くようになったからだろうか。流れに逆らって川を歩き、重力に抗って山を登りつめ、渓魚や樹木という美しい生命に出会う旅は、自分で自分の生活をクリアに見直すための大切な時空だ。

 自らの足で巨樹を見に行くという行為は、自然を畏れ敬うための巡礼ではない。人生や愛、原風景やロマンを自然に求めることでもない。いつまでたっても自然の中は遊び場だ、と言い切れる大人が、驚き(!)と好奇心(?)を満たす場所に立ち入るための作法、と言えばよいだろうか。

(写真)
樹高43m、幹周14m。時間とお金をかけて屋久杉を見に行く前に、静岡県でこれだけの杉に出会えることをどれだけの方が知っているだろうか。

■ビジネスマガジンVEGA 05年11月号「しずおか自然回帰の旅③」として寄稿


自転車滑走路~掛川市細谷

2006-04-25 23:19:28 | 執筆/寄稿

 掛川市から森町へと向かう天竜浜名湖鉄道の脇、掛川市細谷には直線が果てしなく続く、まるで滑走路のようなみちがある。きっと、列車やクルマではこの農道は見つけられなかっただろう。掛川というまちを、自転車で巡ることで発見できた希少なみちだ。

 自転車ブームが続いている。知り合いのサイクルショップでは、ロードレーサータイプの自転車がいつも品薄になっている。「自転車が趣味」と語る友人や仕事仲間が、去年の倍にもなってしまった。自転車専門誌は増え、ライフスタイル系の雑誌はさかんに自転車を特集し、サイクリストは日に日に増殖している。

 首都圏の傾向は、街をおしゃれに乗りこなすスタイル、あるいは自転車通勤。ここ静岡県はといえば、静岡や浜松の中心部に都心同様の傾向が見られるものの、郊外をロングツーリングするスタイルが目立つ。静岡県は、東海道を南北に少し外れると、クルマの交通量が少なくなり、自転車にとって快適なみちが広がっている。特に天竜浜名湖鉄道沿いは、週末はもとより、平日もロードレーサーに乗ったサイクリストが、みちを贅沢に使って遊んでいる。

 自転車に乗るか、釣りをしているか、そのどちらかという子供時代を過ごしてきた。小学校へ行くのに、ルール違反だったけれど自転車を使い、みんなに知られぬよう途中の道下の草むらや木の裏側に自転車を隠した。中学校には、片道で軽く10kmを超えるみちを自転車通学。いまどきの中学生と違い、みんなでスポーツタイプの自転車に乗り、遠い山里から、川を眺めて“ロングツーリング”していた。
毎日自転車に乗っていると、場所による温度の違いや空気の匂いの違いが非常によくわかるようになる。歩くスピードではその空気の変わり目というか、際(きわ)が意外とわかりずらく、オートバイやクルマのスピードはその感覚をかき消してしまう。自転車というのは五感が生きる乗り物だということを、40才をこえ、時々ではあるが自宅から片道15kmの仕事場までを自転車通勤するようになって、つくづく実感している。

 学校の帰りに、友人の家に寄ろうと普段は走らない角を曲がってみたとき。あるいは、釣り場を求めて小さな橋を渡ってみたとき。いつも見慣れた風景は、視点を変えただけで驚くほど新鮮に映った。まるで他所の土地に来てしまったような不思議な感覚は、自転車小僧にしかわかるまい。

 思いもかけない、素晴らしい風景へと自転車は導いてくれる。そこは、ふだんクルマで通るみちから、ほんの少しだけペダルを踏み込んだ先にある。歩くのにはおっくうで、クルマでは入っていけないその先に、ふだんの風景が一変するような、素敵な出会いが待っているのだ。

(写真)
天竜浜名湖鉄道の「いこいの広場」から「原谷」区間の西側、線路とともになんと2km以上も続く一直線のみち。訪れたサイクリストを、必ずといっていいほど案内している。

■ビジネスマガジンVEGA 9月号「しずおか自然回帰の旅②」として寄稿

とびきり眩しい渓(たに)~大井川源流

2006-04-07 23:09:31 | 執筆/寄稿

 この風景を見て、ここがどこなのかを正確に言い当てることができる人は少ないだろう。アメリカのイエローストーンみたい、とか、カナダみたい、といった人がいた。日本の多くの河川は上流に行けば行くほど、標高を上げれば上げるほど、山が近づき、急峻になるのが常だ。しかし、静岡県の地図を思い出して欲しい。南アルプスがある静岡市北部は、長野県側に向かって尖っている。その尖った部分の、ほぼ中央に位置するのがこの写真を撮った場所、大井川源流の二軒小屋付近だ。
 
 森町の北部で生まれ育ち、アマゴを釣りに行くことが大好きな子供だった。原体験や原風景への回帰というのだろうか、30歳の声を聞き始めたころから、貪るように山や川へ通うようになった。子供の頃と違うのは、体が大きくなったぶん、川が狭く浅く見えるようになったこと、生意気にもフライフィッシングを覚えて西洋式の毛鉤と道具立てで渓流魚を釣るようになったこと、そしてビークルが自転車からクルマへと変わり、未知の釣り場を求めて行動範囲を広げていること、だろうか。

 子供のときに感じたときと同じような川の大きさ、流れの太さ。釣り人が少なく、川を独り占めしたような感覚。川を上流へと詰めれば、きっと魚たちのパラダイスが待っているような期待感。2年前に生まれてはじめて訪れた大井川源流には、そのすべてがあたりまえのように存在し、そこから大井川通いが始まることになった。

 ここ、大井川の源流には、一般車両で行くことはできない。畑薙ダムからは東海フォレストが運行する専用バスか、徒歩のみでのアプローチとなる。仕事場のある掛川からはなんと4時間の道のりだ。夏には多くの登山者たちが、この素晴らしい光景を傍目に南アルプスの山々を目指すのだが、たとえ登山者や釣り人でなくても、このあまりにも明るく開けた源流の魅力に、きっと酔いしれてしまうはずだ。

 釣りに来て、釣りはしなくてもいいと思ってしまうくらいの風景のチカラ。希少種となったヤマトイワナが泳ぐこの清冽な流れに、足を浸しにいくだけでもいい。静岡県に暮らす大人たちが、静岡県で自然回帰の原点を求めるのなら、ここ大井川源流をその最初の地として選ぶこと。大人になった子供の正しい選択だ。

(写真)
あまりにも広く、明るい渓。
清冽な水、広葉樹やカラマツなどの自然林が織り成す絶妙な美しさに酔いしれる。

■ビジネスマガジンVEGA 7月号「しずおか自然回帰の旅①」として寄稿