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聖教新聞 (2018/ 5/13) 〈健康〉 第8回「忘れられない看護エピソード」

2018年06月12日 22時35分08秒 | コラム・ルポ

〈健康〉 第8回「忘れられない看護エピソード」

2018年5月13日 聖教新聞

3439作品から最優秀賞などが決定

都内で行われた第8回「忘れられない看護エピソード」表彰式
都内で行われた第8回「忘れられない看護エピソード」表彰式
 

 厚生労働省、日本看護協会が主催する第8回「忘れられない看護エピソード」の表彰式が今月6日、東京都渋谷区の日本看護協会JNAホールで開催されました。
 「忘れられない看護エピソード」は、「看護の日・看護週間」に当たり、看護の現場で体験した心温まるエピソードを募集。今回は、全国から3439作品が集まり、厳正な審査を経て入賞20作品が決定しました。
 表彰式には、特別審査員で脚本家の内館牧子さん、「看護の日」PR大使で女優の中越典子さんらが出席。入選作の発表や、入賞作をもとに制作されたショートムービーの上映、トークショーなどが行われました。
 ここでは、看護職部門、一般部門で最優秀賞・内館牧子賞を受賞した4作品を紹介します。 

看護職部門

●最優秀賞 「患者さんの鼻くそ」

 大阪府 松本幸子さん(39)

 へその緒。それは、お母さんと赤ちゃんがつながっていた証し。親子の絆。桐の箱に収められ親から子へと贈り伝えられる宝物。

 さながら次世代へとつなぐ命のバトン……。
 「〇〇ベイビーのへその緒がなくなりました」。朝一番の申し送りでこの言葉を耳にしたのは助産師2年目のときでした。それまでにも何度か同じことがありました。しかし、ゴミ箱やオムツ入れの中を探せば必ず見つかりました。「きっと今回も出てくる」。根拠のない自信を抱きつつ、私たちはいつも通り業務をこなし始めました。「もう一度、病棟内を探し尽くしたけど見つからない」。夜勤者が看護師長に報告しているのを耳にしたとき、「大変なことになった」という思いと同時に、「手を尽くした結果だから仕方がない」と言い訳にも似た思いが複雑に交差しました。病棟全体が「仕方がないムード」に包まれていた午後、帰宅したはずの夜勤者の1人が疲れ切った表情で現れました。
 「師長さん、やっぱり見つかりませんでした。すみません」。私は一瞬、状況が飲み込めずにいました。へその緒を諦めきれず、回収業者に連絡をし、ゴミ集積所に1人で出向いて探していたのです。看護師経験30年ぐらいのベテランさんでした。驚きを隠せない私の心を見透かしたように、すかさず師長は言いました。「例えそれが『鼻くそ』であったとしても、患者さんから預かった物は宝物のように大切に扱う。それが私たちの責任。母児、2つの命を扱う助産師の責任はもっと重たいで」と……。
 その言葉が意味する、目に見えない重圧に一瞬、言葉を失いました。「助産師を生きる覚悟」を決めた、まさにその瞬間でした。
 ことし、助産師18年目を迎えます。「患者さんの鼻くそ」は、事有るごとに私をあるべき方向へと導いてくれました。そして今、その覚悟を次世代へとつないでいきたいと願っています。さながら命のバトンのように……。

●内館牧子賞 「初めての看取り」

 沖縄県 津波あけみさん(53)

 精神科の看護師になって数年、忘れられないK氏との出会いがある。

 K氏は、がんの末期で、骨まで転移し毎日のように痛みを訴え「痛い、痛い、もう死ぬよー。もう死ぬよー」と大きな声で、薬を要求していました。私は、仕事のたびに彼の元に足を運び、何かできることがないかを考えながら毎日を送るようになりました。
 そんなある日、K氏が「もう、死ぬよ」と静かな声で話しました。私は、いつもと違うK氏に近寄り腰を落とし「もう死ぬの?」と問い掛けると、彼は「うん」と答えて遠くをまた見つめるのです。私は、なぜか「Kさんが死ぬとき、そばにいてもいい?」と許しを得るような気持ちで話すと、「いいよ」と優しい声で答えてくれました。K氏との空間が満ち足りた空気に変化しました。人はいつか死にますが、看取ることは怖いものではない、とそのとき知りました。
 10日ほどたった、私が深夜勤務のときです。病棟の出入り口の鍵を開けると、自分の体に、初めて感じる清らかで張りつめた空気。「K氏は今日逝く」と確信しました。呼吸が速くなり苦しそうなK氏でしたが、年配の男性看護師の「Kさん、まだまだ死ねないよー。深呼吸してみてください」との呼び掛けに励まされ呼吸をしているようでした。声は出せなくても、死にゆく人は生きるために必死で声に応えようと、できることをしているのです。
 いつもなら不眠や幻聴で苦しみ、イライラしてナースステーションに誰かしら患者さんがいるものですが、その夜はK氏が亡くなるまで苦しみを訴える患者さんはいませんでした。
 私は、彼が希望していたたくさんの小銭を胸ポケットにいっぱい詰め、手には財布を持たせ、自分の両手をK氏の胸にあて「そばにいるよ。そばにいるよ。ありがとうねー。ありがとうね」と話し掛けました。1分間に5回呼吸をして、K氏は逝ってしまいました。私は、この看取りを通して、人の尊重と看護の喜びを知りました。看護の魅力は、実践の中にたくさんあるのです。

一般部門

●最優秀賞 「ナースの頑固道」

 埼玉県 小松崎有美さん(33)

 「緊急入院です」。私が精神科に担ぎ込まれたのは去年のことだった。病名は摂食障害。体重が増えることを恐れて水さえ飲めなくなっていた。しかもこのとき妊娠7カ月。母親の命と赤ん坊の命。2つの命が危機的状況にあった。

 真っ青な私とは対照的に看護師さんは太陽のようだった。その日から出産まで二人三脚が始まった。まず体重を増やすために毎食チョモランマのような白米が出された。しかし半分は机の引き出しに隠す。それでも看護師さんが来たとき、その黒い目はいっそう黒く光った。おなかに聴診器を当て、「ママ、おかわりって言ってるよ」。そう言うのだ。さらに「私はね、看護師だけど頑固師なのよ。絶対死んでほしくないの」と続ける。それを聞いて引き出しを開けずにはいられなかった。
 それからというもの、巡回の際には必ず聴診器でおなかの「声」を聴いてくれた。さらに私のことを「ママ」と呼んでくれた。それによって私は一歩ずつ母親になっていった。
 しかし、日がたつにつれ、出産への恐怖が強くなった。これまで満足に食事を取らなかったことで赤ん坊に何かあったらどうしよう。ああ、私は母親として失格だ。
 予定日が近づくにつれ、気が遠くなる。あるときいてもたってもいられず、ナースコールを押した。不安な思いを打ち明け、泣きながら、「お母さん。お母さん」と言った。このときなぜ「お母さん」と言ったのか。今考えると看護師さんが母親のような温かい存在になっていたからだと思う。
 そのとき、看護師さんが出したのは聴診器だった。最後の聴診器は私の胸に当てた。そして私の心の「声」を聴いてくれた。「つらかったね。大丈夫よ。赤ちゃんも大丈夫。ここまできたんだから、わがままにママになりなさい」
 これが彼女の信念。そして頑固道。私はこの言葉で覚悟を決めた。
 そして母親になった今、うまくいかないときでもずうずうしく前を向ける。そう思えるのもやはり、あの頑固師さんのおかげである。

●内館牧子賞 「おたふく」

 東京都 東のぶこさん(70)

 結婚して5年、3度目の妊娠。

 子宮頸管無力症からくる習慣性流産で二度も失敗したので、慎重に暮らした。安定期に入ったころにまた出血。救急車のサイレンの音が「またダメ~またダメ~♪」に聞こえて、歯を食いしばった。「三度目か……」
 もうろうとした私の目に、愛らしいおたふく顔の、看護師が映った。「大丈夫、赤ちゃんの生存、成長が確認できました。赤ちゃんはがんばっていますよ」。出血も止まり、1日数回、本当かなと思いつつ、両膝上げ体操も素直に続けた。おたふくが目を細め「赤ちゃんもママに会いたいって……」。白い歯がのぞく。希望が生まれた。夫も仕事帰りに、顔を見せる。「お前は、もう少しでママに放り出されるところだったのだよ。断固、食らいついてくれよ」とおなかをさする。出産は祈りだった。
 時期を同じくして入院した隣の患者が、声を殺して泣いている。きっと流産か、死産だったのだ、と息を詰めていた。
 後でその事情を知った。4人目も女の子なので、ご主人がお見舞いに来ないらしい。
 「ご主人さま、お忙しいのよ。ほぉら、元気な赤ちゃんよ。ママに似て美人さんだー」とカーテン越しに聞こえる、おたふくの弾むソプラノ。
 1970年代は、事前に性別は知らされず、ある意味楽しみだったはずなのに。隣の患者の事情を聞き、産めるかどうかの不安でいっぱいの私は「何とぜいたくな……」とつぶやいた。
 ある日、おたふくがお隣さんに「姫が4人ってうらやましいわ、『細雪』みたい。年頃になったら、おうちの中は花御殿ね」。なかなか利口な方だ。
 このおたふくになら何でも話せる、頭痛の種も少し遠のいた。
 不思議と、かたくななお隣さんも、日々、やわらかい表情になった。
 退院の日は、赤ちゃんをいとおしそうに抱くご主人の後ろ姿を追って、満面の笑みで病室を後にしていた。
 いったい、おたふくは、どんなおまじないをかけたのかしら?
 きっと、「お多福マジック」に違いない。


心がホッとする話題なので、毎年、楽しみにしています。

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