「北の玄関」上野駅は30年でこんなに変わった 「ふるさとの訛」「夜行列車」も今は昔…
上野駅15番ホームの入り口には「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにいく」の石川啄木が詠んだ短歌のモニュメントがある。
「東北の玄関口」と長い間言われ続けてきた上野駅。この駅は故郷から上京してきた人たちにとって思い出多き駅である。とりわけ東北、北陸方面から夜行列車で到着した時の感慨はひとしおであり、薄暗い行き止まり式ホームを重い荷物を手に歩いた日は決して忘れることができないことであろう。
列車に残った雪に涙…
その昔、上野駅には東北方面からやってくる「集団就職列車」発着の専用ホームが設けられていた。今は廃止された18番ホームがそうであった。
かつて夜行列車の取材で上野近辺の駅前旅館に泊まり込んだ時、駅前の大衆酒場で「古い電気機関車に牽(ひ)かれた普通列車や急行列車は、冬になると客車の車輪や車体に雪をつけてホームに入ってきた。その雪をそっとなでたら涙が止まらなかった……」と夢半ばにして集団就職の職場から離れた初老の男性から聞いたことがある。
東北や北陸へ向かう在来線特急・急行の利用者でにぎわった国鉄時代の上野駅ホーム(筆者撮影)
昭和30年代、高度成長期のさなかに「金の卵」と言われた、中学・高校を卒業したばかりの少年少女が集団就職列車に乗って上野駅に到着したときの思いは、同世代の筆者には大いに共感することができる。
その集団就職列車の少年の心情を唄ったのが「ああ上野駅」(作詞:関口義明、作曲:荒井英一、歌:井沢八郎)で「どこかに故郷の香をのせて……」は今も懐メロ演歌として歌い継がれ、その歌碑は駅の不忍口のガード下に残っているが、足を止める人は少ない。
時代とともに18番ホームは常磐線へのホームへと変わり、寝台特急「ゆうづる」がここから発車していった。そして、今はそのホームも「ゆうづる」も消えてしまった。
高架の2階ホームから発着していた特急「あさま」と「とき」。どちらも愛称は新幹線に引き継がれた(筆者撮影)
東北・上越新幹線の開業により、東北地方や新潟方面に向かう上野始発の特急「はつかり」「やまびこ」「ひばり」「とき」などが姿を消し、一部の列車は新幹線の愛称名として引き継がれることになった。ちなみに在来線特急「やまびこ」は上野―盛岡間を7時間5分で結んでいたが、その愛称を引き継いだ東北新幹線「やまびこ」は、開業当初から最速2時間45分で両駅間を結び、大幅なスピードアップとなった。
だが、在来線の長距離特急・急行が多く廃止されたのは、上野駅の衰退の始まりでもあったように思う。新幹線の終着駅として「北の玄関口」としての体面は保ち続けたものの、1991(平成3)年に新幹線の上野―東京間が延伸開業すると、東北・上越新幹線の列車の多くが東京始発・終着になり、上野駅はほぼ全列車停車するものの、終着駅ではなく列車が通り抜ける「通過駅」になった。
地平ホームに到着した、EF57形電気機関車が牽引する客車列車(筆者撮影)
先日、久しぶりに上野駅の地上ホームを訪れた。ここが北の玄関口だったか……と思うほど、日中は閑散としていて、上野駅になじみ取材を数多く続けてきた筆者には特に感慨深いものがあった。特に「北斗星」「あけぼの」を最後に上野発着の夜行列車が全廃されたことには寂しさもひとしおで、思わず「上野発の夜行列車……」と口ずさんでしまったほどである。
そんな気持ちの中、13番ホームには豪華列車「TRAIN SUITE四季島」がその姿を横たえていて、少しは往年の上野駅の雰囲気を醸し出していた。このホームはかつて、青森方面へと向かう急行「津軽」「八甲田」、特急「あけぼの」などの名列車が発着した夜行列車の定番ホームだったのだ。
東京に住んでいたころ、父親の実家である柏崎へ行くときに、上野駅から特急「とき」または急行「佐渡」に長岡まで乗った覚えがある。
日中であれば特急「とき」、夜行であれば急行「佐渡」だった。
長岡からは鈍行列車で柏崎に向かったのだが、そのうちに特急「はくたか」を利用すれば乗り換えなしだと分かり、これを利用するようになったが。
未明に長岡に着いて乗り換えた列車は、たしか蒸気機関車がけん引する客車列車。汽笛が鳴って、一瞬ののちに列車が動き出した思い出がある。
旅程を考えるのは自分で、これが時刻表、ひいては鉄道ファンになるきっかけになったんだろう。
小学生の頃は、父親に借りたカメラで列車を撮りに行ったのも上野駅だし、北海道への新婚旅行も上野からの寝台列車だった。
たまに上野駅に降りると、何となく昔の思い出がよみがえるんだなぁ。