御召(お召し)列車とは、天皇・皇后・皇太后が乗車する特別列車を指す。宮内庁書陵部は24年かがりで昭和天皇の活動実績を編纂し、2014年9月に「昭和天皇実録」として公開した。そこには、昭和天皇の鉄道乗車記録も記載されている。

日本鉄道旅行地図帳編集部はその乗車記録をもとに、放送大学教授・原武史氏にご教示をいただきながら、公文書や各種鉄道資料等で発着時刻、牽引機、編成などを調査し、「昭和天皇御召列車全記録」として発売した。ここでは、昭和天皇と鉄道にまつわるエピソードの何点かを紹介する。

御召列車の上をほかの列車は走れない

御召列車が運行する場合、御召列車の上をほかの列車が通過してはいけないことをご存じだろうか。線路が交叉している箇所で、御召列車が下の線路を走る場合には、上を走る列車は制限を受けることになる。これは戦前から変わっていない。

昭和39(1964)年2月3日葉山行幸のケースを紹介する。原宿発10時15分、逗子着11時25分着。車両はクロ157-1を含む5両編成だった。

経路をおさらいすると、原宿から山手貨物線を走って、大崎から蛇窪信号所経由で品鶴線に入り、品鶴線から東海道貨物線、そして大船経由で逗子に至る。原宿から横浜までで他線が上方を通過する立体交差は、恵比寿〜目黒間で山手線、鶴見〜新子安間で鶴見線、新子安〜東神奈川間で横浜線である。原宿から東海道、横須賀方面に向かう御召列車は、横浜まででもこれだけの鉄道の下をくぐる(東急各線は除いた)。

山手線と山手貨物線が交叉する目黒跨線線路橋では、山手線2本の電車が駅長の指示待ち、鶴見線は定時運転確保電車2本、駅長の指示待ち2本、横浜線は定時確保電車が2本、駅長の指示待ち電車が1本などである。

駅長の指示待ちとは何か。例えば鶴見線第1001B電車には、次のような指示がある。「鶴見駅長は、お召列車の鶴見・国道間乗越跨線線路橋下通過を確かめ、出発指示合図をおこなうこと」。

この上部通過だけでなく、すれ違いなどで制限を受ける列車は、時刻変更32本、定時運転確保12本、その他運転休止などもあり、運転計画の担当者や現場の苦労は計り知れない。

昭和天皇が初めて新幹線に乗車したのは、開業から半年余りの昭和40(1965)年5月7日。鳥取植樹祭行幸のため、新大阪まで乗車した。新幹線に御料車両はないので、1等車を利用した。浜名湖から蒲郡付近まで運転席で、東海道新幹線支社長から説明を聞きながら、前面展望を楽しんだという。お楽しみの様子に、運転士は速度を下げるに下げられず、その先で時間調整に苦労したという微笑ましいエピソードも残っている。

昭和63年3月10日、原宿宮廷ホームでクロ157の窓際に立つ昭和天皇(写真/日本雑誌協会)

昭和天皇ほどこの速度向上を実感できた日本人はいないであろう。大正から昭和初期にかけては、東海道を下るにも静岡や名古屋で1泊するのが普通であった。昭和天皇はそんな時代から列車に乗り続けているのだ。ちなみに昭和天皇は大正期に京都〜東京間を通して乗車することがあり、所要時間は13時間10分であった。大正4(1915)年4月22日のことである。

昭和17(1942)年の戦勝祈願列車の東京〜京都間は、8時間10分(12月11日)。戦後になってさらに所要時間が短縮されたが、それでも昭和37(1962)年10月19日の原宿〜京都間7時間が最短である。

昭和天皇を乗せた新幹線は、東京から新大阪までたった4時間で走った。昭和天皇の脳裏にはどのような思いが走ったのだろうか。この時、歌を2首残している。

四時間にてはや大阪に着きにけり新幹線はすべるがごとし

避け得ずに運転台にあたりたる雀のあとのまどにのこれり

雀もまだ新幹線の速さに慣れていなかった。

一般乗客との「混乗」が実現した

大正時代には天皇が一般列車に乗ることもあり、その列車めがけて人々が我先に殺到した、というエピソードがある。戦後は新幹線が走る時代になって、昭和天皇と一般客と同じ列車に乗る「混乗」が実現した。

昭和39(1964)年10月1日、東京〜新大阪間に東海道新幹線が開通した。開業式にも臨席した昭和天皇が初めて新幹線に乗車したのは、翌40年5月7日のことだった。この時は供奉車4両、御料車1両、全部で8両編成だった。2度目は41年4月15日で、供奉御料の両数は変わらなかったが、全体は12両編成であった。

昭和42(1967)年に宮内庁と国鉄が打ち合わせた結果、「御専用車以外の車両は、一般旅客に開放する」ことになった。この「混乗」ははやくもこの年4月7日、岡山植樹祭行幸の折、東京〜新大阪間に利用した臨時「ひかり311号」で実現した。

しかしこの列車は「時刻表」に載っていないため、切符の売れ行きが良いはずがない。事前に切符を予約したのはわずか7人だった。しかもこの人たちについて警察が身元調査をしたという話もある。団体客は予定では240人だったのが、結局82人に。当日東京駅では「11時30分に、臨時ひかり311号が発車します。まだ席に余裕がありますから、お求め下さい」と構内アナウンスも流れたほどだ。

「ひかり311号」は0系12両編成。ただし車両の入れ替えをして、大阪方から3両目(3号車)に1等車を連結、これを御料車とした。前後2両ずつが供奉車。6号車から12号車に一般客を乗せた。ホームには石井光次郎衆議院議長、重宗雄三参議院議長ほか石田礼助国鉄総裁などが奉送し、列車は1分30秒遅れで出発した。復路4月13日も同じ編成で還幸、大きなトラブルはなかったようだ。

この頃、国鉄内部には新幹線用の御料車を作ってはどうかという声があったようだ。しかし年に数回しか使用されないと想定される車両を作るのは不経済ではある。結局、新幹線御料車の話は消えた。

その後、「混乗」は定着しなかった。主体となる団体とのスケジュールが合わせにくかったり、警備が厳しいなどが原因。昭和50年代に入ると、編成を短くすることと再び御召専用とすることが検討され、再び8両編成の御召専用編成が登場した。

歌会始最後の歌は「国鉄」だった

国鉄の車にのりておほちちの
明治のみ世をおもひみにけり

昭和63(1988)年歌会始。お題は「車」だった。昭和天皇が詠んだ歌は、前の年の3月末に須崎御用邸から列車で還幸する際、分割・民営化で消える国鉄に祖父明治天皇の時代を思い起こして感慨を詠んだものだという。昭和天皇は会を欠席した。

明治34(1901)年に0歳で日本鉄道に乗車して以来、鉄道院、鉄道省、国鉄と運営主体が変わっても、御召列車は走り続けた。昭和天皇こそ鉄道との縁は長くて深い。そして87歳にして国有鉄道が消滅。明治天皇を思わずとも、感慨ひとしおだったのではと拝察される。この歌が歌会始最後の歌となった。


お召列車…興味があるなぁ。